第3話

 「パパはいつ死んでくれるかしら。」

 ミリアは砂場の縁に座り込み、猫のがまぐちを抱きながら、そうサバ白猫に尋ねる。

 猫はいかにも忠義そうににゃあん、と答えた。

 「今度サンディんちのおじさんが、警察に言ってパパを牢屋に入れるみたいなの。でもそれより、死んだ方がずっと遠くに行っちゃうからよいのに。ね。」サバ白は喉をくるころと綺麗に鳴らす。ミリアはそれをうっとりと聴いた。教会で牧師さんの奥さんが綺麗な声で歌う『お星がひかる』のように素敵だ。サバ白はきっと素敵な歌手になれる。ミリアは溢れる愛おしさに、サバ白の額を優しく撫でた。その脇で茶色がぴんと髯を張って、お財布を狙う悪い奴はいないかとばかり凛々しくパトロールに出かけていく。

 その時、公園の中央に建てられたスピーカーから、五時を知らせる音楽が鳴った。

 ミリアは渋々立ち上がって、悲しげに「またね。」と呟いた。しかし家へと向かう道は辿らずに、まず教会へ向かった。夕焼けが小さなミリアの影をうんと長くどこまでも伸ばしていた。こんなに大きければパパに殴られても何ともないに違いない。ミリアは自賛したく路上の真ん中で暫し立ち止まり、自分の大きな影を誇らしげに見つめた。と、その時お腹が鳴った。公園で水をたっぷり飲んでくればよかったと、後悔の念が沸き起こる。しかしその分教会で何かもらえればいいのだが……。ミリアはそこまで思って昨今随分冷たくなった牧師の夫人を思い浮かべた。自分を見てもご飯を持って来てくれなくなった。以前は窓の外にミリアの姿を見つけるや否や、パンダの煎餅だの、よく持って来てくれた。だのに、今は、見ても見ぬふりをする。自分は何か失礼なことをしてしまったのだろうか。トイレの水を流す音が大きかったのかしら、水道の蛇口をひねる音かしら。ミリアは精一杯考えるが、皆目わからない。昨日は賽銭箱の下にあった五十円で、運よくパン屋で売り出していた食パンの耳一袋を十円で買えたから、よかった。でもそれももう今日の昼には底を尽きてしまった。ちょっと、食べ過ぎてしまった。給食の無い夏休みは嫌だ。怖い。空腹は何と恐ろしいのだろう。暑いはずだのに、寒くなる。

 ミリアは家々の屋根に沈まんとする、ぶるぶる震える夕陽を眺めながら、自分自身も一緒に震え出すのを感じた。今日は牧師さんに会えたらよいな、と思う。牧師さんに会いたいのか、ご飯が欲しいのか、自問自答して紛れもなく後者に行き当たり、ミリアは顔を夕焼けのように赤らめた。

 教会の窓を覗く。誰もいない。奥でお祈りをしているのかしら。ミリアは懸命に背伸びをして中を覗いたけれど、人気は無い。再びお腹が鳴った。でも神様に見放されたくなかったから、手を合わせてしっかと目を瞑り、諄々と祈った。パパが死にますように。一日でも、半日でもいいから、早く死にますように。

 帰途は既に暗くなっていた。ミリアはそれでもじっと足元だけを見ながら歩いた。またみみずが三匹も死んでいた。ずるい。ずるい。ずるい。どうしてみみずばかり死んで、パパは死なないのか。自然と涙が溢れて来る。誰でもよいから、ご飯を下さい。

 悔しいような、腹立たしいような、それでいて情けない気分に襲われながら、それを掻き消すようにむしむし歩いて行くと、突然額が固い壁にぶつかった。ミリアは遂に泣き出した。ミリアの泣き方は一般的なそれではなかった。一切声やしゃくりあげる音を出さずに、暫くじっと俯いて涙を流す。音を立てれば問答無用に父親に殴られるから。ミリアの学習は場所を問わずに発揮された。

 一通り奇妙に泣いてやがて面を上げると、目の前にあったのはたくさんのパンが載ったトラックだった。ミリアは暫し痛みも忘れて忽然とそれに魅入った。その内に、口中にじんわりと唾液が充満し出す。だってチョコレートパン、クリームパン、メロンパン、それから見たこともない丸いパン、四角いパンが、山ほどあるのだ。そこはコンビニエンスストアの駐車場だった。運転手さんは、中だ。店員としゃべっている。

 ミリアはそっとパンを触ってみた。チョコレートパンはふわふわしてて、気なしか温かくさえあった。その時、心に過ったものがあった。これを盗んだら、お酒を盗んだパパと一緒の牢屋に行くことになるのかしら。ミリアはサッと鋭い眼差しになり、パンを元の位置に押し付けて走り出した。そして家まで、全速力で走った。心臓が破裂しそうになるまで、走った。

 ミリアが息切らせながら草茫々の中を分け入って家の玄関を入ると、リビングでは父と誰かが話している声がした。ミリアは思わず足を止めた。女であればもう一度外に出なくてはならなかったから。そうでなければ、殴られるか、蹴られる。

 ミリアは息さえ止めて中の様子を伺い、禿頭の後姿を確認するとほうと長い溜息を吐いた。安堵したのである。あの人は、大丈夫。病院から派遣され、この一帯のアルコール依存の患者宅を回っている、禁酒会の会長だった。そのようなほぼ正確な認識がミリアにあったのは、初めに会長が来訪し自己紹介を行っていた時、ミリアは父親に殴られた直後であったため、玄関のすぐ脇で例の無音泣きをしていた最中だったからである。会長は自らもかつてはアルコール中毒であったと、その経験を訥々と語り、同じ苦しみを得た人を救いたいのだと熱意を込めて語っていた。ミリアは蹴られたばかりの背の痛みを堪えながら、いい人であるのに違いないと思った。父親の演技に気付かないのは他の大人たちと同じであるが。

 父は例の慈愛深い笑みを湛え、あたかもどこぞの金満家の二代目のような余裕さえ醸しながら、煙草の火をアルミ皿の中に落とした。

 「お蔭様で、酒の方はすっかり止められましたよ、娘のこともありますしね。いつまでもこのような生活を続けていくわけにはいきません。胸の病気もだいぶん良くなってきていると、医師からも言って頂いて……。」

 そう言って、煙をくゆらせ目を細める父親の姿は、未だ異性を異性として認識することのできないミリアにとってさえ素晴らしく魅力的に映った。父親の祖父はヨーロッパの人間であるとかで、父親の風貌は優れて優美であった。それで今流行の俳優にそっくりだというので、ミリアのクラスメイトの母親たちが用もないのに学校からの連絡だ、夕食のお裾分けだ、ミリアへのおさがりを持ってきたと来訪するぐらいである。父親はその嘘ばかりでなく、風貌までも芸術的であり、それは暴力的であったりアルコール中毒であったりする以上にミリアを無抵抗にした。

 ミリアはそうっと玄関を過ぎると、そのまま服を脱いで自室の布団に潜り込んだ。寝間着というような上等なものはなかったから、これは極自然に身についた習慣であった。だから落胆なんぞしなかった。ミリアには絶望も落胆もなかった。父親に殴られれば痛く悲しく、死んでほしいという祈りこそ深まるものの、それはあまりに日常に即していて、絶望という異世界にミリアを連れ出すものとはなり得なかったのである。

 ミリアは布団の中に入ったものの、眠気を打ち消す空腹に微睡むことさえできずにいた。まだ客人はいるようで、それによって父親が今宵苛立たないことをミリアは祈った。苛立ちが募ると、予想外のことでも殴られたから。ランドセルのチャックが閉まっていない、靴下が裏表逆になっている、殴打を受ける原因はそろそろ多様化し過ぎていて、六歳を迎えたばかりのミリアにはその把握が困難極まるものとなっていた。

 寝てしまえば忘れられる。ミリアは何度も空腹の夜を迎えた経験からそれを知っていた。誰かが持って来てくれなければ、いつだって、食事はないのだ。例外的に、友達の母親が食べ物を持って来てくれることもある。隣人がこっそりお菓子を渡してくれることもある。牧師の夫人が作り立てのクッキーをくれたこともあった。でも今日はそうではない日。ミリアは全てを受け入れる素直さを持っていた。下手に反発をしても、それは空腹の因となるばかりだ。会長が帰ったらすぐに、父親は飲酒を始めるだろう。そうしてぐっすり寝てしまう頃合いを見つけ、床に落ちたつまみを探しに行こう。そんな希望にミリアは自己を納得させると、ようやく眠りに就いた。

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