第28話

 ミリアはその日の午後、とてつもない号泣をしながら帰ってきた。リョウは家でパソコンに向き合い、仕上がったばかりの新曲をチェックをしていたが、その合間合間に何やら女の子の悲鳴を帯びた泣き声が聞こえたので、裸足のまま慌てて玄関のドアを開け放った。

 するとそこには案の定、ミリアが顔を涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃにしながらとぼとぼと歩いて来るところだった。

 「お前! どうしたんだ、一体誰にやられた!」

 慌てて駆け寄る。しかしミリアは、ああ、ああ、と喚くばかりで話にならない。リョウはランドセルを外してやると、家に入れ、ソファに座らせた。

 「誰にいじめられたんだ?」ミリアの目の前にしゃがみ込んだリョウの眉間に、ふつふつと怒りが表れてくる。「言え。」

 しかしミリアは相変わらずああ、ああ、と大口開けて泣き続ける。

 「あ? 安藤か、相田か、ええと、青木か? ああって、誰だ?」

 ミリアは濡れた頬を掌で拭いながら首を振る。

 「もしやアンドリュー? アレクス? アラン?……。」ううむ、とリョウは首をひねる。「一体『あ』の付く誰にやられたんだ。」

 それでも泣き続けるミリアを目の前に、リョウは困惑し、テーブルの上に置いたティッシュを取ってミリアの涙と鼻水とを拭ってやった。

 「……いじめ、られて、ない。」

 ひっくひっくとしゃくり上げながらミリアがそうようやく答えたので、リョウは安堵して「じゃあ、何だ。」痴漢か暴漢か、と発想するや否や、突き上げるような怒りに襲われ、そのまま蹴飛ばすように立ち上がり、窓を開け放った。鋭く周囲を見回す。

 「クソがあああ!」突如大声で叫んだ。そしてそれに何の反応もないとわかると、振り向いて「おい、どんな野郎だ。ミリアに手出しやがったのは。」再びミリアに問うた。

 「……手、出してない。」

 肩を撫でおろす。「じゃあ、どうしたってんだよ。」情けない声でリョウが問うた。

 ミリアは暫くしゃくり上げていたが、小声で「結婚、しないでえ。」と言った。

 「何?」リョウは眉根を寄せて、はっきりしない言葉を紡ぎ出すミリアの口元に耳を傾けた。「今、何て言った?」

 「だから……、結婚、しないでえ。」

 「結婚、しないで?」

 リョウは頓狂な声で繰り返した。ミリアは肯いた。

 「誰が? 俺が?」

 ミリアは再び手で涙を拭い拭い肯く。

 「何で、そういう話になんの?」

 しゃくり上げ続けるミリアの断片的な話を総合すると、ミリアのクラスに母親が再婚したことで、今日から名字の変わった男の子が出たということだった。するとその男の子はひとしきり皆の注目を浴びた後、「ミリアの家はお父さんだから(ミリアはリョウが兄だということは美桜にしか言っていなかった。)、結婚しても名字変わらなくって、いいな。」と言ったそうなのである。それだけならば特に何の問題もない。

 しかしそこでミリアは考え始めた。自宅はキッチンの付いたリビングに、リョウの寝室だけである。ここに新しい母親が来たら、かつての父親がそうであったように、自宅での居場所がなくなる。そうすれば再び街を流浪する生活になる。夏の盛りにも厳寒の冬にも――。そう考えれば足元から全てが崩れ去る想像に、いてもたってもいられなくなったと――。

 リョウは呆気に取られた。さすがに暫く口が利けなくなった。そして振り払うように首を左右に振ると、ミリアの両肩をぎっしりと掴みながら切々と語った。

 「お前な、クリスマスも暮れも正月もお前と過ごすんだぞ。どこに女の影があんだよ。結婚ってえな、お前、その前に踏むべき段階があるじゃねえかよ、普通。」

 次第に熱が籠り声が大きくなったためか、ミリアは再び声のトーンを上げて泣き出した。

 舌打ちし、リョウは自分の頭をぐいとミリアの目前に突き付けた。「おい、ほら、見ろ。こんな赤っ髪で長髪、普通の女は見た瞬間一目散に逃げ出すぞ。それにな、俺は定職にも就いてねえ、しがないバンドマンなの。しかも、やってんのはデスメタルなんつう社会じゃあ超絶忌み嫌われるジャンルだし、そのお陰でライブやったって二、三百のキャパ埋めるのがせいぜいで、曲の印税とギターレッスンでギリギリ食ってるような奴なの。」

 こんなことをなぜミリアに言わなくてはならないのか、という違和感と情けなさにリョウは言い終えると溜め息を吐いてがっくりと俯いた。

 「……でも。……でも。」そう言ってミリアは身を捩る。

 「でも?」リョウは不審げに、ミリアの真っ赤になった顔を見上げる。今更ながらその泣き顔は猿そっくりでリョウは思わず噴き出したくなった。

 「いつも、リョウ、駅前で、お話しましょって、言われる……。」

 「あれはな!」思わず叫んだリョウは、いけないいけないとばかりに一呼吸置いて冷静さを取り戻すと、「職務質問っていうの。声かけてくんの、警察ばっかだろ? 悪人退治のお仕事されている警察の方々がな、俺がミリアを誘拐した悪人なんじゃねえのかって、疑ってんの。」

 ミリアは目を見開いて言った。「ゆうかい?」

 「そうそう。」やけっぱちたようにリョウは肯いた。「俺が赤っ髪で長髪で、定職いかにも就いてないですって見た目してて、おまけにちっちぇえ女の子連れてるから、警察官は俺を犯罪者じゃねえかって疑うの。そんで警察官にばかりナンパされてモテモテなの、俺は。」リョウはそう言って片目を瞑ってミリアを睨んだ。「ってえかな、お前の方が遥かに結婚するからな!」変な言い方になったが、最早どうでもよかった。「お前こそいずれ綺麗な姉ちゃんになって、男連れてきて結婚します、って言うんだよ。」

 凄まじい金切り声が上がった。さすがにリョウはミリアの口を手で塞いだ。

 「何で泣くんだよ!」

 ミリアは再び、ああ、ああ、を繰り返す。

 「ただでさえギター弾いててご近所迷惑してんだから、止めろ、止めてくれ。」

 すると、幾分落ち着いたのか、抑えた掌の奥から何かもごもごとミリアが言うのを感じ、リョウは手を緩めた。

 ミリアは肩で呼吸をしながら、「ミリア、リョウがいい。」と呟いた。

 「俺がいいって、何だよ。」

 「リョウと、結婚したい。」

 リョウは目を見開いた。「はあ?」

 「結婚してよう。」

 「お前な。」リョウは涙鼻水でぐしゃぐしゃになった真っ赤な顔を、目の当たりにもう我慢ならなくなってきて、腹を抱えて笑い出した。「あっははは、お前な、プロポーズはもうちょっとロマンチックにやれよ。あははは、そんな猿顔ですんな。ってえか小学生でプロポーズは早過ぎんだろ。人生死に急ぎ過ぎだろ。ユーロニモスかよ、お前。ブラックメタルだな!」

 再び甲高い泣き声が上がり、リョウは再び慌ててミリアの口を塞いだ。

 「ごめんな、ごめんごめん。俺が悪かった。……俺もミリアと結婚してえなあ。してえしてえ。でも、兄妹は結婚できないのよ。」

 「どして?」ミリアは悲壮感いっぱいに問うた。

 リョウは即座に、そりゃ、気持ち悪いからだろ、と言おうとして慌てて呑み込んだ。「……し、知らねえよ。法律で、決まってんの。」

 ミリアは「ほうりつ? ……ほうりつ。」と呟き考え込んだ。

 とにもかくにも泣き止んだのでリョウは安堵して、涙だか唾液だかわからない掌にへばり付いたそれを、ティッシュで拭う。

 「そうなの。兄妹とか親子とか、その辺は結婚しちゃいけないの。そうじゃねえと、訳わかんなくなっちまうかんな。」

 ミリアは顔を歪め、ばっと手で覆った。

 「でもな、ほら、俺は誰とも結婚しねえから。っていうかできねえから。そんな心配してるのも、全世界でお前だけだから。お前を家から出すなんて、絶対ねえから。お前が出ていこうと思わない限りはさ。」

 「出てかない。」ミリアの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。「お外は、厭なの。」

 「わかってるよ。」

 リョウはミリアの頭を掻き抱き、撫でた。途方に暮れた顔をして天井を仰ぎながら。


 その翌日から、ミリアは冬休みとなった。

 美桜はお土産を買ってくるからね、と家族と共にハワイに飛び立ち、ミリアはしかしそこに羨望や嫉妬は覚えなかった。それよりもリョウと過ごせることの方が、遥かに大きな喜びをもたらしたので。

 リョウと一緒に朝から朝食を作り、その後ギターを弾き、作曲に必要な音楽理論を教えてもらい、共に昼食を食べ、そして作曲をするリョウの後ろでギターの練習を続け、仕上がったばかりの新曲を聴いて盛り上がり、夕飯を作って、食べる。そんな日々をミリアが夢のように送っている内に、世間はクリスマスとなった。

 ミリアは先だってサンタクロースにお願いした事柄が叶えられるといいなと思いつつも、クリスマス自体を特別な日だとは認識していなかった。ただこちらに越してきてからできた、美桜をはじめとする陽気な級友たちが、こぞってクリスマスを心待ちにしているらしいことを感ずるにつけ、ミリアの心境も少しずつ変わってきた。

 彼らは冬休みを意識する頃から、サンタへの手紙の内容に関する話題に始まり、おねだりをするプレゼントについて、それから非日常を演出し始めた街の様子などを日々熱っぽく語った。ミリアもそれに応じて手紙を書いてはみたものの、まだクラスで噂になっている駅前の巨大クリスマスツリーだけは見たことがなかった。

 「すっごい大きいの。あんなの見たことない。それで全部キラキラなの。クリスマス過ぎたらすぐになくなっちゃうから、ミリアちゃんも、今のうちに絶対見た方がいいよ。お兄ちゃんに、連れてってもらうようお願いしたらいいよ。」美桜が頬を紅潮させながらそう言ったので、さすがにミリアも心動かされた。

 そこで学校から帰ると、リョウに言われるまま手を洗い、うがいをし、それからテーブルに用意されたおやつのあんまんを食べると、作曲に没頭するリョウの背後に何度か歩み寄り、諦め、それを十度ばかり繰り返すと、遂に意を決してミリアはリョウの背に立ち声を掛けた。「ねえねえ。」

 しかしリョウはヘッドフォンをしていて、気付かない。

 ミリアは困惑しつつも、今度はリョウの背中を手で押して「ねえねえ。」と呼びかけた。

 リョウは慌ててヘッドフォンを取る。自分の作業中にミリアが話しかけてくるなんて、かつてないことだったので。

 「どうした。」

 ミリアは上半身を捩り、恥ずかし気に俯くと「駅行く用事、なあい?」と問うた。

 「あ? 駅?」

 リョウは首を捻った。「……ねえな。」

 するとミリアは世界中の悲劇をここに集結させましたとばかりに酷く肩を落とし、そのまま力なくソファに座り込んだ。

 リョウは慌てた。

 「あ、ああー。やっぱ、用事、あった気がする。あったな。あったあった。」

 ミリアはやけに力を宿した瞳で、リョウを見上げた。

 「で、何が欲しいんだよ。」

 再びミリアは眉根を寄せ俯く。

 「……欲しく、ない。」

 「駅に行きてえんだろ? 何? あの、フィンランドの店か? いいぞ。クリスマスプレゼントに猫グッズ買ってやるよ。」

 「……違う。」

 リョウは暫し考える。

 「……あー、俺、最近スタジオとスーパーぐれえしか行ってねえから、駅の前わっかんねえなあ。最近の駅、気になるなー。あー、どーなってるかなー。気になるー。」

 「あのね」ミリアはぱっと輝く笑顔になり、ぐいとリョウの腕を取って近寄ると、耳元に囁いた。「木があるの。凄く、大きい木。」

 「木ぃ?」

 ミリアは弾けるような笑顔で肯く。

 「あのね、すっごく大きいの。それで、キラキラなの。」

 「あー! クリスマスツリーな!」

 ふふふ、とミリアは口を押えて笑った。

 「あれが、見てえのか。」リョウは目を瞬かせる。毎年見ている筈だがほとんど記憶にもない。したがって所詮その程度であった気がするが、ミリアが自分の希望を言い出すのは極めて珍しかったので、すぐにも叶えてやろうと思い立ったが、ちらとパソコンを見やると、曲作りは佳境に入っておりとてもここを離れられる状況ではない。今日中にこれを作り上げなければ、せっかく押さえたスタジオの予定が全て、台無しになる。

 「じゃあさ、クリスマスに観に連れてってやるよ。何せ本番だしな。」

 「本番?」

 「そうだよ。今は練習期間。リハと同じだ。本番は一回だけなの。練習見たってしょうがねえだろ。」

 ミリアはへえ、と肯いた。その様を見てリョウは内心甚く安堵する。しかしその分、余計にミリアを喜ばせてやりたいという思いが沸々と沸き起こってきた。

 「じゃあさ、そしたらケーキでも買ってきて家でパーティーやろうか。せっかく、クリスマス本番だしな。」

 ミリアは目を見開いた。それから震える吐息をゆっくり、ゆっくり、吐いて「ううん。」と唸り声を上げた。人は嬉しいと苦痛と同じ表現になるのか、とリョウはまじまじとその様を見詰め、そこから解放してやろうと「パーティーだぞ!」と言ってミリアを高く抱き上げた。ミリアはようやく歓声を上げた。

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