第12話
ようやく目的の子供服の店に入ると、しかしミリアは俯いて服を見ようとしない。リョウは仕方なしに、ピンクのフリル付きTシャツだの、イチゴ柄の赤いスカートだのをミリアの目の前に広げて見せてやるが、ミリアは首を横に振るばかりで一つも肯かない。
「おい、遠慮すんなよ。このクール過ぎるTシャツじゃさすがに、学校は行けねえだろうがよ。」
こそこそと小声で叱咤すると、そこにポップな水玉模様のワンピースに身を包んだ若い女性店員が、笑顔で近づいてきた。
「こちらは昨日入荷したばかりの人気商品ですよ。こちらの雑誌にも紹介されています。」
店員はローティーン用のファッション雑誌をミリアの前で広げた。しかしミリアは真っ赤な顔を俯かせたまま、見向きもしない。リョウは慌てて、「凄ぇじゃん。お前ならこのモデルぐらいに着こなせるぞ! 美人だもんなあ!」と、肩を叩いた。
「……いらない。」
「何で!?」
店員がリョウの大きすぎる声量に思わず後ずさりする。リョウは遂にミリアの目線にしゃがみ込んだ。「今日はお前のものを買いに来たんだろ? 何でいらねえなんて言うんだよ。」
するとミリアは観念したように、呟いた。「……お金、無いもん。」痩せた頬には遂に涙が伝った。
「だーかーらー、遠慮するなよ。金ならたんまり、ある。おい、店員さんよ。」水玉の店員がおそるおそる再び近づいてくる。リョウは立ち上がって、尻のポケットからチェーンの付いた財布を取り出し、一万円札を取り出した。
「見ろ、ミリア。これは日本国が作った最高金額の札だ。で、店員さん、これでミリアに一番似合う洋服を見繕ってくれませんか。できれば、」リョウはにやりと笑んだ。「猫の付いたやつで。」
ミリアははっと泣き顔を上げた。
店員はにこにこと店の奥へと案内した。「猫ちゃんがお好きなんですね。猫ちゃんシリーズたくさん入荷していますよ。こちらのTシャツに、リュックも。」
「リュック?」リョウの顔が歪んだ。「リュック? そんなのいらねえぞ。」
ミリアの前に、店員はマネキンが背負っていた猫の顔の付いたリュックを外し、見せた。白地に額がグレイの、猫の顔の形そのままのリュックだった。ミリアは何か言おうとして声が出ず、しかし口を開いたまま荒々しい呼吸を繰り返した。「……白ちゃん。」最後に何とかそう呟いた。
「白ちゃん?」リョウはますます不審げに眉を顰めたが、ミリアの感激に打ち震えた様子を見て、「じゃあ、店員さんその白ちゃんと、最新の猫のTシャツ全色。あとスカートとズボンと、それからそのセーターみてえなのと、とにかくそいつで買えるだけ下さいよ。足りねえなら、もう一枚、付けてやっからよお!」リョウはやけっぱちのように叫んだ。
ミリアはウィンドウの前を通るたびに、背に負った猫のリュックをひらりと身を翻して見た。リョウはその隣でやたらカラフルな花柄模様の紙袋を何袋も持ちながら、けれど不思議と不穏な感情は湧いてはこなかった。そればかりか、なんだか好いた女と出かけているような、どこか浮足立つ感覚さえあるのである。
続いて入った店で女児用パジャマと下着を、再び店員に言い付けて購入し、更に雑貨屋に入り、綺麗な鉛筆と、消しゴムと、キティちゃんのペンケースも買った。ミリアは天にも昇る気持ちで、気付くと涙を零していた。リョウはさすがに見ないふりもできず、駅前でもらったティッシュでミリアの目と鼻を何度も拭ってやった。そうしながら、十数年も会わずに死んだとは言え、父親に対して憤怒の情が沸き起こってくるのを押さえることができなかった。こんな当たり前のことさえ、してやらなかった。そればかりか心身ともに傷を負わせて……。それからおそらく、――夜中に意識もなくうろつくのは、父親のせいなのだという理解にリョウはそろそろ逢着していた。とんでもない、ことである。あってはならない、ことである。しかし小学生にしてはあまりに小さな、細すぎる体躯、めちゃくちゃに切られた不揃いの髪、買ってやると言っても金の心配ばかりする、こんな子供がいるのだろうか。
リョウは憤怒の延長線上に、ある決意を固めていた。それは、ミリアを幸福にする、というものである。何もそれによってミリアから尊敬を得たいわけでもなければ、第三者に称賛されたいわけでもない。ただミリアが、できたばかりの初めての家族が、可愛くてならなかった。いつの間にやら父親に対する復讐の念は影を潜めていたのである。
最後に色々試着をして買った靴はピンク色のぴかぴかした運動靴で、足の指が痛くない。ミリアは早速それを履かせてもらうと、やたら飛び跳ねてリョウと歩いた。
慣れぬ場所に幾分疲労を感じたリョウが、アイスクリームを食べようと提案し、噴水の前のベンチに座り、ミリアはイチゴのアイスを、リョウはチョコレートのアイスをそれぞれ買って食べた。
「あと、何か欲しいもんあるか。」
「ない。」
ミリアは自分の新しいぴかぴかと光る靴を見るために、ベンチに座りながらやたら勢いよく脚を前後に振った。陽の光に当たると、ますますそれは光り輝く。一層頑張ってぶらぶらさせると、その視線に伴って、噴水の向かいに大きなうさぎの着ぐるみがいるのに気付いた。うさぎは赤に白の水玉の可愛らしいワンピースを着て、子供たちと一緒に写真なんぞを撮っている。茫然とその様を眺めている内にアイスが溶け出し、親指が冷たくなってミリアははっと我に返った。
「あいつが、欲しいのか。」そう胸の内を見透かされ、ミリアは硬直する。でも、欲しいというのではない。ただ、可愛らしいと思っただけだ。しかしリョウはやたら鋭い眼光でうさぎを見据えると、「よし、行くぞ。」と囁いた。
ミリアはリョウにほとんど引き摺られるようにして、うさぎのいる店へと連れて行かれた。急いでアイスを食べきり、コーンを口の中に押し込む。
店は色々な動物を可愛らしく模した人形屋だった。店にはミリアぐらいの年の女の子が大勢いて、うさぎの着ぐるみと写真を撮るのに列を成していた。リョウは舌打ちをして写真の列に並んだが、すぐさま店員に「こちらは、商品を購入して頂いたお客様のみが並べます。」と言われたので、リョウは壁に陳列された数多の人形を鋭く見据えると、静かに「どれか選べ。」とミリアに耳打ちした。
ミリアは信じられないとばかりに、目を見開いたまま壁を下から上へと見渡す。どれもこれも、素晴らしく可愛らしい人形ばかりだった。それぞれの動物が家族で一つのケースに納まり、お父さんはネクタイを付け、お母さんはエプロンを付け、女の子はワンピース、男の子はつなぎなんぞをそれぞれ着ている。ミリアの胸は高鳴った。うさぎの家族、くまの家族、犬の家族、はりねずみ、牛、羊、ハムスターなんかもある。そして……猫! ミリアの棚を眺める目が、白猫の一家のところでひたと停まった、視線どころか、息までもが止まった。ツイードジャケットのお父さん、花柄ワンピースのお母さん、色違いのフリルのスカート穿いた女の子二人による白猫一家は、毛がふわふわしていてミリアはそこから微動だにできなくなった。
「こいつか。」ミリアの返事も待たで、リョウが有無を言わせずに白猫一家を引っ手繰ると、そのままレジへと向かった。白猫一家はすぐにうさぎ柄のビニール袋に入れられ、そのまま「こちらへどうぞ。」と先程の店員に案内され、ミリアはうさぎの写真の列に並ばされた。ミリアはうさぎと子供たちの様子をしきりに背伸びして覗いて、そのたびにうわあ、と小さな歓声が漏れるのを止めることができなかった。うさぎは小首を傾げたり、子供とハイタッチをしたりと、何とも愛らしい挙動を繰り広げている。
やがて写真の順番が来るとリョウはミリアをうさぎに押し付けるようにして、携帯電話をしゃがんで構え、何枚も何枚も写真を撮った。
「お父様も一緒にどうぞ。」リョウの背後で女性店員が甲高い声で言った。リョウは一瞬誰のことを言っているのだろうと訝ったが、自分のことだと解するや否や、「いや、それは……。」と顔を顰めた。救いを求めるように見たミリアは、何故だか必死な眼差しで自分を見返していた。無言ではあったが、それは明らかに請う眼差しであった。真剣に、ミリアは訴えていた。「一緒に撮ろう」と。リョウはえい、と自己を叱咤してうさぎの隣に並んだ。うさぎはリョウの背に手を回し、にっこりと微笑んだ(ように見えた)。リョウは店員に携帯電話を渡すと、真顔で不器用そうなピースをした。店員が必要以上にも見える笑みで携帯電話で何枚も写真を撮った。気なしか、店中の親子連れがこぞって自分たちを眺めて失笑を浮かべているようにも見えた。
リョウは苛立ち片っ端からぶん殴ってやりたい衝動に駆られたが、隣のミリアが白猫一家の入ったビニールを胸にしかと抱き、涙ぐんでいるのを見て、あっという間にそれは雲散霧消した。ミリアは一生この白猫一家を大切にしようと決意していた。もちろん猫のTシャツも、ピンクの靴も本当に大切で、とにかく宝物がこんなにたくさんに増えてどうしようと、胸の鼓動がいつまでもいつまでも収まらなかった。
子供服の店特有の華やかな袋をたくさん括り付け、リョウは漆黒のドラッグスター400を飛ばした。ミリアは後ろでリョウの背に頬を付けながら、靡く前髪を感じつつ目を閉じた。パパを殺した自分がこんなにも幸せになるなんて、本当によいのだろうか。神様は、何かとんでもない過ちを犯しているのではないだろうか。ミリアは絶対に他言の出来ない恐怖心に、リョウに気付かれないぐらいほんの少しだけ、泣いた。
「もう一軒寄るからな。」
突然リョウに宣告され、ミリアはよくもわからずに肯いた。そうして着いたのは、最寄駅近くの、肉屋の向かいにある、洒落た小さな美容室だった。
リョウは店の前にバイクを停めると、ミリアの手を引き、カランカランと鈴の音高く響かせながら入っていく。
「おお、リョウさん。お待ちしてました。」明るい茶色の髪を四方に跳ねさせた若い男が、そう笑顔で話し掛けた。「先月来て下さったばかりなのに、ライブですか? また、カラーとカットで?」
「違ぇんだ。」と言ってリョウはミリアの両肩を持ち、ぐい、と前に立たせた。「今度一緒に住むことになった俺の妹なんだけど、可愛くカットしてやってくれねえか?」
「へえ!」美容師は目を丸くする。リョウがミリアの背後で顔を顰めている理由はすぐに知れた。この小さな女の子の髪型は素人が切ったという以前に、無茶苦茶な髪をしていた。基本的には、肩に付くか付かないかのボブヘアであるが、引っ掴んで切った、を四五度繰り返しました、という以上でも以下でもない、酷い髪型をしていたのである。理由は聞いてくれるな、そうリョウの眼差しは語っていた。
すぐに美容師は笑顔を拵えると、「そうなんですね。ではこちらへ。」椅子を低くしてミリアを座らせる。本は何がいいかな、美容師はアンパンマンか、それともコッシーかと本棚を目で探した。その前に、もしかしたらこちらが想定している年齢ではないのかもしれない、とふと思い成し、「……お兄ちゃんと暮らすことになったんだね、いいねえ。幾つなの?」と尋ねた。
「小学、一年生、です。」ミリアは初めての体験に緊張しながら答える。既に脚は下に付いていないし、リョウも見えない所にいる。
美容師はケープをふわりと首に巻くとどくり、と生唾を呑み込んだ。アンパンマンだのコッシーではまずい年齢であった。
「そうなんだね。お勉強は楽しい?」美容師はさっと三冊ばかり、ディズニープリンセスシリーズの絵本を取り出すと、ミリアの前に置いた。
「わかんない。」
「そっか、わかんないよね。僕も勉強はあんまり得意な方じゃなかったよ。……すぐ終わるからね。シンデレラは好き? オーロラ姫は?」美容師はプリンセスの絵本を指差しながら言った。
ミリアはこっくりと頷いた。実際にはどちらも知らなかったけれど、とても綺麗な女の人たちだったのでミリアは嬉しくなった。
「……僕はね、ずっとお兄ちゃんのカットとカラー担当しているんだよ。長くて真っ赤で、かっこいいでしょう。お嬢ちゃんもいつか、あんな風にする?」
「うん。」ミリアは即答した。
美容師は声を上げて笑った。「じゃあその時は僕にやらせてね。お兄ちゃんそっくりに、真っ赤にしてあげるから。」
「うん。」ミリアは嬉しそうに微笑んだ。
リョウはその様を微笑みながら見詰めていた。ミリアが笑っている。それがなぜだか嬉しくて堪らない。こんな経験は初めてであった。冷静に考えれば、少ない蓄えは飛ぶ、飯も二人分作らなければならない、本来ならば少々の負の感情は覚えるべきだ。ただの女であったならば。だのにミリアに関してだけはそういう感情は一切芽生えてこない。何なら猫だって飼ってやりたいし、うさぎの店に多数並んでいた、猫の人形のための家やら店やらも買ってやりたい。服だって何だって似合うのだ。幾らあってもいい。そう、自分の中に明らかな変革が起きたのを、リョウは不思議に感じた。
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