第13話

 ブラシでこそばゆく頬を撫でられ、ケープを外すと、ミリアはまるで愛らしい子供になっていた。無論、最初から顔形は整っている方だと思ってはいたが、髪型一つでここまで変わるのかとリョウは瞠目した。

 「本当に可愛い妹さんですね。もう少し大きくなったらうちでカットモデルやらせて下さいよ。」美容師はまんざらお世辞でもなさそうに言った。

 「そ、そうだな。」リョウはミリアの変貌に驚きながら答える。「……にしても、お前可愛いなあ。どっかの子役みてえだぞ。」

 リョウは肉の無い頬っぺたをつつき、ミリアは恥ずかし気に俯く。

 「じゃあ、また来るから。よろしくな。」リョウは金を払うと、店を出、家に戻った。寛ぐ間もなく寝室に置いてある六段のタンスの一番下を開け、「ここがお前の服入れる所な。」と言った。ミリアが神妙そうに覗き込む。そこは行く前に既に片づけておいたのだろうか、何も入ってはいなかった。

 ミリアは買ってきたばかりの服を丁寧にビニール袋を剥ぎ、値札を外して一枚一枚時間を掛けて折り畳み、タンスにしまった。ミリアはタンスの前で、ぎゅうぎゅうに詰まった服たちを眺め、うっとりと目を潤ませ、そのまま溜め息を吐いた。

 「あ、ベッド忘れた。ベッド。やべ。」

 ミリアはそう慌てて頭上で叫んだリョウを見上げた。

 「てかベッドはバイクじゃ運べねえな、どうすんだろ。後で運んでもらうのか。」

 「いらない。」

 「でもソファでいつまでも寝てるわけには、いかねえだろ。」そりゃあ、虐待だろ、と言おうとしてリョウは慌てて言葉を飲み込む。

 「でも、いいの。」

 「……。じゃあ、背が伸びてソファが狭くなったら、買うか。」

 ミリアは肯いた。

 リビングに戻ると、リョウはギターを壁から外し、奏で始める。ミリアもその隣に掲げられたギターを外すと、テーブルの上に楽譜と、先程買って貰ったばかりの白猫一家を並べ、ギターを構えた。リョウは「観客か?」と尋ねた。ミリアは宝物をいつまでも見ていたかったから並べただけだったが、別に観客でもいいと思って、肯いた。

 「練習すれば、本物の観客の前で弾けるようになるぞ。」

 リョウはそう言って腕組みをした。そしてふと、思い付いたように、「ああ、でも家で弾くのと客の前で弾くのは全然違うからな。相互作用? っていうのか? ライブの場合には感情のぶつかり合いでそれが増幅される。暴発する。その根源となる音を齎していることが、何よりも誇らしくなる。ステージの上では俺は、神だ。誰にも負けやしねえ。って、そういう感覚になる。」

 リョウはそう言ってほくそ笑む。

 ミリアは再び肯くと、たどたどしく昨日貰ったばかりの「お星がひかる」をなぞり始めた。白猫一家が目の前で聴き入っている。リョウはその様を微笑ましいよりも、なるほど、と一方的に納得しながら眺めた。「やっぱ、そうだよな。日頃から客、リスナーを意識して練習をするべきだよな。ライブは公開オナニーじゃねえんだからよ。まあ、中にはそういう奴もいるけど。」

 リョウはぶつぶつと呟き、新曲のソロを様々に試しながら弾き始める。そして陽が沈めば二人で夕飯の準備をする。それがミリアに新しく齎された、あまりに幸福に満ちた「日常」だった。

 リョウは当初、父親の虐待を受けて育ったミリアを傷つけぬよう、慎重に接することを心掛けるつもりではいたが、実際には自分の愛好するギターだの音楽だのが関わると思わず、自我が先んじてしまうのを止められなかった。しかしミリアは夜意味も無く歩き回る以外には(やたら遠慮がちな部分はあったが)、普通の大人しい子供だったので、二人の生活は当初リョウが危惧したよりは安寧に始まっていった。

 バンドマンであるリョウにとっては、何といってもギターと作曲とが人生における最優先事項である。それは幼子と暮らすようになっても変わらなかったし、変えるつもりも毛頭なかった。それが幼子にとっての不幸になれば気の毒だ、とだけはちらとばかり思っていたものの、何故だかミリアもギターが嫌いではないようで、自己の趣味を従順になぞろうとするので、リョウはそれを至極幸運に感じていた。

 世間には、自分のやっているような音楽を毛嫌いする類の人間も多く、そういった人々を非難するつもりはないが、そういう感覚の人間と一緒に暮らすのは大層困難であろうとは思ってはいた。しかしミリアは自分のデスメタルの曲を何故だかうっとりとしながら聴いているし、ギターを宛がえば何時間でも弾き続け、初心者向けとはいえ、楽譜を与えれば一日でマスターする。特別な才があるのではないかと、リョウは自分のことのようにわくわくした。現在、リョウは、ギターのレッスンを仕事とし、そのため多くの生徒にギターを教えてきたが、その中でもミリアの上達具合は他に類を見ないものであった。リョウは師としての立場からしても、ミリアの成長が楽しみでならず、目を離すことが出来なくなった。今度はあの曲を弾かせてみよう、こんなコードを教えてみよう、こんなテクニックはまだ早いかな、とリョウはミリアの教育にいつしか夢中になった。

 ミリアからしてみれば、ギターは初めてのおもちゃを与えられたも同然だった。だから一般的な子どもがそうであるように、熱中しただけのことである。次なるおもちゃが与えられれば飽きるのかもしれないが、この家には次も、またその次も、とこまで行ってもギターしかなく、リョウの内なる世界を反映させるようにギターが全てであった。

 しかも自分がギターを弾くことでリョウが喜んでいるらしいことも感じ、ミリアは一層ギターに邁進した。ミリアは一目ぼれして恋に落ちるが如く、リョウを愛していた。そのきっかけは色々あり過ぎて混沌としていたが、とかく世界の誰よりもリョウを少しでも喜ばせ得る自分になりかった。

 それには夏休み、という時期が好都合に働いた。

 ミリアはいつでも家にいて、人生で初めての安寧の時間を過ごしギターに専念した。リョウもツアーが終わったばかりで、夜、バンドの練習に出たり、ギターを教えに行く以外には大抵家にいて、ミリアにギターを教えたり、自らもギターを弾いたり曲を創ったりして過ごした。そんな中を縫って、ミリアが二学期から通う近くの学校の手配をし、一度なんぞは髪を一つに束ね、スプレーをかけてにわかに黒髪にし、見慣れぬスーツを着込んで、新しい学校の校長と担任の教師に会いに行きもした。リョウが悉皆の事情を話すと、新学期からはスクールカウンセラーとの定期的な面談予定も入り、ミリアの精神的なケアを共々に行っていけることになった。暫くすると、かつての隣人がミリアの教材とランドセルを送って来た。しかしそのランドセルはあまりに古色を帯びていて、一目で、何人もの小学校生活をループしてきたであろうおさがりであることが明白であった。リョウは怒りに任せて即日ミリアを引き攣れ、近くのデパートに赴いた。相変わらずどれが欲しいと言葉を発さぬミリアが、しかし最も長時間眺めることとなった水色のラインストーンが入ったランドセルを買ってやったのである。

 ミリアは帰宅するとそれをテーブルの上に鎮座させ、しばらく潤んだ瞳でじっと見詰めていた。これが我が身に齎されたこと自体が信じ難いといったような目で。そしてこんな僥倖が身に起こっては何か悪いことがあるのではないかというような目で。更にはリョウが無理をして自分をいつか邪魔に思うようになるのではないかというような目で。それで遂にミリアは泣きだした。

 「おい、どうしたどうした。」ギターを弾く手を止めてリョウはミリアの濡れた手を顔からどかし、涙を代わりに拭ってやった。

 「何で泣くんだよ。」

 ミリアはしかしそう言われて自分が泣いているということが改めて確認され、より一層今度は声を上げて泣き出した。

 「何も悲しいことなんか、ねえだろ。なあ、おい。」

 次々に溢れる涙をリョウは途方に暮れながら今度はティッシュで拭いてやった。

 「……嫌いに、なんないで。」

 「はあ?」

 ひっく、ひっく、としゃくり上げている。

 「ミリアのこと、嫌いに、なんないで下さい。」

 「何でだよ。」リョウはミリアを抱き締めた。小さな細い肩は気の毒な程震えている。

 「お金、いっぱい、かかる。」そう言い終えると再び、わあ、と泣いた。

 リョウはそれを腕の中に聴きながら心がずしりと重くなる。「お前なあ。……金なんて大して掛かってねえよ。お前、さては、俺を極度の貧乏人だと思ってるのか?」驚いてリョウはミリアを腕から離し、顔を覗き込んだ。ミリアもびっくりして目を丸くする。

 リョウは慌てて周囲を見回した。「確かにな、このアパートは築三十五年だがそれは、あれだ。引っ越しが面倒臭ぇんだ。俺はどっちかっつうと面倒臭がりなんだ。だから決して貧乏だからここに住んでんじゃねえ。わかったな?」

 ミリアは身を竦めたまま、肯いた。

 「よし。それにな、俺のやってるギターのレッスンあんだろ? ずーっと習いに来てくれる人が多いんだぜ。中には最近メジャーデビューした奴なんかも、相変わらず俺ん所通い続けてたりな。ほらほら、実際お前だってよ! ギター凄ぇ巧くなったじゃん。な? 俺は実は結構ギター教えんの、巧いんだよ。だから金はあるんだ。ほら、見てみろ。俺のギターコレクション。な? こりゃ、相当価値があんだぞ。だからお前に学校で使うようなモンとか、ちょっとしたおもちゃだとか、そんなのは買い与えたってちっとも腹は痛まねえんだよ。余裕余裕。」リョウは少々の虚飾を織り交ぜながらそんなことを言った。

 濡れた睫を瞬かせながらミリアはリョウの顔を見上げた。

 「だからな、そんなことでお前を嫌いになるなんてことは、古今東西全く、無い。」

 ミリアはぐっと、顔を顰めるとそっとリョウの背に手を伸ばした。最初それが何を意味するのかリョウにはわからなかったが、そのまま胸に顔を押し付けてきたので、抱き付いたのだということが解せられ驚愕した。ミリアが自分に愛情を示したのだ。リョウは目を見開いた。

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