6.平穏主義者の青春

ep6.平穏主義者の青春-01



 俺の望まざる青春は失敗から始まった。

 この男に出遭ってしまったことが、何よりもの失敗だった。




   ×××




 結論から言うと、しずかが命の危機に脅かされていたことは誰の耳にも入らなかった。

 命からがら自宅に戻れば、何事もなかったかのように玄関のドアは直されていて家族からは開口一番「どこ行ってたの?」だったのだ。


 拍子抜けもいいところだ。

 食事が喉を通る気分ではなかったのでその夜はシャワーを浴びて早々に布団に入った。

 布団を被って天井を眺めることが何だかおかしく感じられたが、閑は考えないようにして目を閉じる。


 気が付くと朝を迎えていて、やはり周りがどう言おうとも昨夜自分の身に起きたことは否定出来ないんだと疲労感が実感させた。


 いつもより早い時間に目が覚めて、適当に朝食を済ませてさっさと家を出る。

 月曜の朝は他の曜日より人が少なく、ほぼ無人の歩道をボーっとしながら歩いた。

 昨日の雨が嘘のように今日は快晴で、小鳥のさえずりまで聞こえて来た。

 犬の散歩をする女性とすれ違い、日常を噛みしめる。




 学校に着くと特に寄り道する場所もないので教室へ直行し、教室のドアを開けると先客が一人だけいた。



「……」



 その先客は文庫本を片手に黙々と読書に集中している。

 閑は自分の席であるその先客の隣に腰を下ろし、鞄を置いた。

 それからしばしの沈黙を挟み、意を決して口を開く。



「だ、大丈夫なのか?」

「?」



 声を掛けると狩野窪かのくぼという少女は顔を上げた。

 変わり映えのしないその無表情さに少し安心する。



「体……大丈夫か? 休まなくて」

「大丈夫です。見た目と違って私結構頑丈なので」

(……そう言われても納得するだけなんだが)



 狩野窪は本へ視線を戻し、閑も机に突っ伏すようにして前を向いた。

 他のクラスメートが登校してくるまでまだ大分時間がある。校内もまだほぼ無人の状態だ。

 黒板の横にかかっている時計の秒針は音を立てることなく進む電波時計だった。



「……」

「……」

「……悪かった」



 前を向いたまま、ポツリと呟く。



「どうしたんですか、閑さん」

「だから、悪かったって言ってんだよ。……昨日のこと」

「私が好きでやったんですから、閑さんが気にすることはありませんよ」



 いつも通りの涼しい声だった。

 しかし今はその対応に腹が立つ。

 思い切り彼女を睨みつけてやったが、向こうはうんともすんとも言わなかった。

 更に腹が立つ。



「そういやそうだったな! お前にとって俺は友達らしいからな!」

「はい」

「俺は友達とかはいらねぇんだ」

「わかっていますよ。もう何度も聞きました」



 ですよねぇと顔を向けると、えぇと頷かれる。

 何だかまともに相手にするのがバカらしく感じられて、閑は音を立てて席を立った。

 非常階段にでも行って一人の時間を楽しむことにしよう、と。



「ですが、閑さん」

「!」



 教室を出る一歩手前で呼び止められて振り返る。

 狩野窪は本をパタンと閉じて顔を上げた。



「昨日はありがとうございました」

「……は? 怪我人送るのは当たり前だろ」

「いえ、そうではなくて……」



 ふるふると首を横に振ると、彼女の長い髪も軽く揺れる。

 やっぱり断トツで可愛いよなと閑はごく自然に思ったが、口にするようなことではないなと言わなかった。



「私のことを話さないでいてくれて、ありがとうございました」



 話さないでいてくれて、の言葉でやっと中身が見えた。

 閑は自分の命をかけられても、狩野窪が殺人鬼狩りの「猫」であることを話しはしなかったのだ。

 そんなことか……と閑は手をヒラヒラと振る。



「刀の錆びにされたくなかったんだよ。俺だって流石に自分の死に方くらい選びたいしな」

「私は嬉しかったです」

「?」

「私の約束を、閑さんが守ってくれて」

「……っ!?」



 言葉を失い、腰を抜かしそうになった。

 咄嗟にドアを掴んで体勢を立て直すが、それでも見間違いではなかったはずだ。

 笑った。


 あの狩野窪が、こっちを見て笑ったのだ。



「ありがとうございました」



 その言葉から逃げるように閑は非常階段へと全速力で走った。

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