ep1.平穏主義者の失敗-03
×××
昨晩は春にしては暑い夜だった。
窓を開けても風通りが悪く、扇風機を出すにも押入れの奥から掘り起こすのを考えるだけで気力が削がれた。
そこで閑は懐中電灯を手にコンビニへ行ってくるとだけ告げ家を出て、3軒も先のコンビニまで歩くことにした。
ある程度の距離を歩き、夜風にあたって疲労感を感じられれば帰ってすぐに寝られるだろうと考えたからだ。
住宅街と言えど駅から少々離れているこの付近では、夜になると人の通りも車の通りも少ない。
閑家では夜出歩く時は危ないからと小さな懐中電灯を持って出る決まりがある為彼も仕方なくそれにならっていたが、コンビニを出てからは電源を切りポケットにしまった。
左手でビニール袋、右手でアイスを頬張るのに忙しいからだ。
「?」
コンビニから折り返してしばらくすると誰かの声が聞こえた気がして足を止める。
街灯が点々と距離を置いて立っているせいで明るいとは言えない歩道を振り返り、誰もいないことを確認した。
物音なら別段気にしないのだが、人の声となると少し話が変わってくる。
しかもそれがただの話し声ではなく、悲鳴のような声だったからなおさらだ。
(……一応点けておくか)
今こそ防犯の役割を果たすべく、アイスを平らげて懐中電灯のスイッチを入れる。
光を右へ左へと当てて誰もいないことを確認してから足元を照らし、歩き出そうとした。
白と緑のタイルが敷き詰められた歩道に、真っ赤な液体が横断している。
「…………」
あくまでも平静を装い、何も見ていないと自分に言い聞かせた。
今目の前に見えているのは誰かがこぼしたケチャップか、彼女に殴られた彼氏が流した鼻血だとでも思っておきたかった。
だがそれにしては量が多過ぎるし、何よりその赤い液体はじわじわと範囲を広げている。
(……猫か犬だろ。車に轢かれたとか……)
動揺から手元が震え、光が少しずれた。
歩道と隣の公園との境を一瞬光が照らす。
女性の青白い手が見えたのは気のせいだ。
(……そうか、幽霊か)
幽霊なら実害はないなと安堵した。
ホラー映画は苦手な方だが、今はそう思った方が安心出来たのは笑える。
もう一度見てみて女性の手がなければ幽霊で確定だ。そう願って光をもう一度横へ振る。
女性の細く青白い手を、赤い線が伝っていた。
「あっ……」
思わず漏れた声に自分でビックリして、心臓がバクバクと脈を打っているのに今更気付く。
そして人の気配を感じて反射的に光と視線を上げてしまった。
「あ」
人間の本能とは恐ろしいものだと閑は常々感じている。
どんなに平穏を求めて過ごそうとして日常から外れたものから避けようとしても、本能というのはそれを追おうとするのだ。
それは恐らくその外れたものが自身に危険を及ぼすものかどうか判断をしたくて、危険だと判断した場合にすぐ逃げられるよう準備する為に脳が求める動物的本能なのだということで、閑は自分に納得させている。
だが今更確認したところでどうというのだ。
危険だということは重々分かった、あとは逃げるだけだ。
さて、逃げたところで逃げ切れるのか?
血塗れでナイフを持っている男とバッチリ目を合わせたこの状況の後、どこへ逃げろと?
「……こんばんは」
男は愉快そうに笑い、挨拶をした。
逃げ出した。
何がどうとかよく覚えていないが、とにかく気付いた頃には汗だくになって家の玄関に駆け込んでいた。
すっかり眠っていた両親は起きることなく、閑は真っ暗な玄関にへたり込んでしばらく呆然としてから、何とか体を起こして手汗でびっしょりになった懐中電灯を定位置に戻す。
左手に持っていたはずの飲料が入った袋が見当たらないが、探す気にもなれなかった。
今はただ、今までのことは夢だったんだと……そう思っていたかった。
そう、夢だ。
夜中にコンビニまで歩いて、帰り道の途中で気味の悪いものを見て……何とか家まで辿り着くことが出来た。そんな悪夢。
台所でコップを手に取り、生温い水道水を胃へ流し込む。
汗で濡れた服を脱ぎ捨て、代わりのTシャツを着てそのまま布団へ入り毛布を頭から被った。
汗が気持ち悪かったが呑気にシャワーを浴びる気にはなれない。
「……寝ろ、……寝るんだ……」
そう自分に言い聞かせて目をつぶった。
だが結局彼が眠りに落ちることはなく、朝日が窓から差し込み台所から物音が聞こえてくるまでの間、人生で一番長い夜を過ごした。
当然、学校に行くことはおろか外に出る気にすらなれなかった。
それでも事情を知らない母親は朝食を済ませるよう起こしに来て、無理矢理布団を剥がす。
トーストが喉を通らない。目覚ましに淹れたコーヒーの味もわからない。
TVから聞こえるニュースが雑音にしか聞こえず、耳障りだ。
どうしてこうなってしまったんだ?
こんな朝とは無縁の生活を送って来たはずなのに……。
昨日と同じように、学校に行くのが面倒だなとか、国語の授業は恐らく教師の朗読が大半を占めるだろうからボーっと出来るなとか、そんなことを呑気に考えて呑気に朝食をとって……。
「……ちょっと、シャワー浴びる」
「あー、夜暑かったからね。ササッと入っちゃいなさい」
母は何も気に留めず、タオルここねと一言言うだけだった。
まだ夢を見ている気分だったが頭から冷や水を浴びて無理矢理現実に引き戻す。
今はどうしようと考えている場合ではない。
どうすれば元に戻れるか、対策を考えるべきだ。
今までだって平穏主義なりに何事もない日常を過ごす為全力を尽くしていた。
それを一からもう一度やれば……きっと昨晩のことなんてしばらくすれば忘れられるはずだ……。
そう頭を切り替えて、脱衣所を出る。
「先輩が部活のプリント届けに来てくれてるわよ。あんた部活なんて入ってたのねぇ……また帰宅部だと思ってたのに。あ、入部義務があるんだっけ? いい学校ね~」
母のその言葉に後頭部を殴られた。
玄関のドアを開けると、そこには自分の通う高校と同じ制服を着た男が立っていた。
明るい髪に、黒縁の眼鏡、Yシャツのボタンを1つも留めていないので中の色シャツが丸見えだ。
目の細い、そして自分より少し背の低い、誰か。
「おはようシズカくん! 朝シャンしてたとこ悪いねぇ……あ、夜暑かったからか! オレも今朝起きたら汗やばかったわ~」
アハハと笑う男。
誰かもわからない男。
「あぁそうそう、入部届持って来たんだ。部長のサインとかは全部埋めてあるから、シズカくんの名前書いといてね。昼休みに顧問に一緒に出しに行くからさ!」
そう言って渡されるプリントは確かに二週間前クラスでも配られ、その日のうちに職員室前の裏紙コーナーにこっそりおいて帰ったプリントだった。
部活名の部分には「世間話同好会」と書かれている。
「うちの学校、実は新入生を最低2人入部させないと予算削られるんだよ。ホント、シズカくんが入ってくれて超助かる!」
長い前髪から雫がポタリと落ちた。
その時やっと、自分がいつの間にか入部届を受け取っていたことを認識する。
「それじゃあ、オレはもう学校向かうから。あとは昼休みで、ね」
名前も知らない目の前の先輩とやらはそう言うと、ごく自然に眼鏡をとった。
そしてこちらを見上げて、細い目を開いてニッコリと笑う。
一瞬、辺りは真っ暗で右手に懐中電灯を持ち、目の前の男を照らしているような錯覚を覚えた。
瞬きの次の瞬間にはもう、辺りは朝で右手には入部届が握られているんだと再認識する。
眩暈がした。
次に息を吐き出した時にはもう入部届を置いて行った男は消えていて、後ろからは母がいつまで突っ立ってんのと声をかけていた。
「……やばい」
「そうよ! 早く支度しないとヤバイわよ! 遅刻!」
非常にまずい。
今日までの……いや、今さっきまでの全ての記憶をなくしたい。
昨晩、確かに失敗を犯した。だがだからと言ってそれ以外は何もしていないはずだ。
たまたま見てしまった、目が合ってしまった、その後は逃げてしまったが情けないなんて自分を責めはしない。あれが最善の行動だった。
なのにどうしてそれだけで名前がバレ、住所がバレ、入部届を出していないことがバレた?
先輩だって? 何を言っているんだ。うちの学校には人殺しがいるのか? それとも昨晩のアレは夢だった……?
髪の毛が乾いた頃にはもう登校時間の五分前だった。
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