万物に本気で話しかける人はいるだろうか。

 いないとは思わないが、少ない方であると思う。

 まして、人と同じく物も向こうの思考や感情を返してくるものだと思いながら、そのための声で口調で話しはじめるのは、2歳くらいまでではなかろうか。


 人間は、声をかけることで自分の存在を知らせると同時に、相手の人が今ここに存在するのだと、そう知っていることを向こうに伝えている。

 それは、相手の存在を承認する行為だ。


 ただそこにいる、と認めること。

 この反対が無視であり、万人に通じる精神的虐待である。



 私たちが物を人のように扱わないのは、神経の通っていないものに意思は存在しない、と知っているからである。

 あくまで"~のように扱う"のであって、人間そのものへ向かうのとは違う。


 だが。


 少なくとも成人をしばらく越すまでの私にとって、人と物はある面で同一の感覚があった。

 人間に話すことと人形に話すことは、「さして返答を期待しない」という点でよく似ていた。


 つまり、そこにキャッチボールの概念は存在するのだが、は認識されていなかったのだ。



 受け取らないことは無視という誤解につながり、悪意どころか作用の意図すらないのに相手を傷つける。

 多分その辺りの感覚のズレが、私が仲間内の女子に吊るしあげられた一因なのだろう。


 人は、自分の感情や意思をないがしろにされることを嫌う。

 自分の喜怒哀楽に、相手が寄り添ってくれないと不快に感じる。親しい者ならなおさらに。


 やたら話すくせにこちらの話は聞こうとしない。

 喜びや悲しみに寄り添わず、事務連絡を優先して手伝わない。

 なによりも、に向かって話されている感覚がまるでない……


 このようなふるまいを自覚なくされていては、その人は不快感のかたまりとして認識されてしまう。

 本当は、ただ相手に意思や観察力や判断能力があるということを、その上で自分を現実に見ているということを、知らないだけかもしれないのに。



 万物に本気で話しかける人は、相手を認識しながら話している、と伝わるように話すだろう。大半の人が望むように情熱的に語るだろう。


 そのために、本当は人と物の区別がついていないだけだ、という可能性に一番気づかれにくいだろう。

 しかし一方で、大半の人には変人か、狂気のようにとらえられるだろう。


 どちらがよりマシなのだろうか。

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