感情への鈍さと、体を持つことを信じることについて
6/14付ランキング8位に入っていました。ありがとうございます。
……ごめん、いまだに実感が無い。明後日くらいにじわじわ来ると思う。
昔からどうにも起こったことに対する感情の把握に鈍いところがあって、振られてから3年たって泣いたり、いじめにあった10数年後に嘆いたりしている。
まあ、振られたと言ってもあれが世にいう恋だったのかは現状疑問なんだけど。
閑話休題。
感情を意識することへの鈍さというのは発達障害に限った話でもないらしく、幼少期のショックで心を閉ざしてしまった人たちと、うんうん難儀だよねえとお話をしあったことがある。
感情というのは、心が発するシグナルだという。
この世と相対する体が瞬時に心と突き合わせ、打ち上げるのか感情という狼煙。
それを根拠に対策を練るのが頭の役目だ。
逆に言えば、体と心と頭がばらばらになってしまうと、感情は知らせとしての役目を果たせない。
感情にはシグナルとしての意味しかなく、通じるまで発せられ続けるものだからだ。
現場と上層部が乖離した組織の、伝令のようなものである。現場がいくら状況の厳しさを訴えても、上層部が黙殺すれば変化はない。
変化がなければ、同じ伝令はひたすら送られ続ける。
いやいやながら働くとき、気がのらないのに参加するとき、人は黙殺する上層部と同じことをしている。
ネガティブな感情という伝令を押し殺して、頭が訴える利点にしたがってしまう。
「だって、やらないと後で損するのは自分でしょ」
そうして感情を黙殺することに慣れてしまうと、人は好きなものや喜ばしいこともわからなくなっていく。
突き進めたその果ては、何もかもが価値を失い、何も選べず決められない世界だ。
実際、脳の損傷などで自分の感情がわからなくなると、着る服ひとつ決められなくなるという。
あらゆるものの価値がフラットになり、わかりやすいスペックの高低にすら、意味を見いだせなくなってしまうのだ。
というわけで、生きるために心を閉ざさざるをえなかった人たちと、感情を取り戻すワークショップを受けたことがある。
それはひたすら……ひたすらひたすらひたっすら、体と心をつなぎ直そうとすることだった。
それまで私は、「我思うゆえに我あり」という哲学者の言葉が不満だった。
「我は"どこ"にあるんだよ!」
というのが、私にはさっぱりわからなかったからだ。
多分ほとんどの人にとって、「我」がいるのは自分の体の中だろう。
しかし当時の私には、「我」は目玉と脳みその間あたりにぽかりと浮いている感覚だった。
自分の体が自分のものだというのは理解していたが、「我」と同一のものとして他人にみなされることが、喫驚するほど不思議でしかたがなかった。
発達障害者には、ボディイメージに問題を抱えるパターンも多い。
私の場合、大学で武術を始めるまで、体はマリオネットの糸で引かれるように"外"から動く感覚があった。
走るときは骨から動くのではなく、肌を引っぱって動かせるのである。
操り手はいつも目のあたりに浮いていた。
それが、ワークショップを通じ、すとんと身の内に落ちた。
もう少し正確に言うと、「我」と自分の体がぴたりと一致した。
自分の体を見下ろして「うん、『我』だな」と素直に納得してしまったのである。
そこからさらに自分の好悪を知るまで3年ほどかかった。
怒りも悲しみも喜びも、いまだにタイムラグを経てやってくる。
徐々に短くなってはきているけれど。
ところで、驚きだけは昔からタイムラグがないんだが、どういう区別なのだろうね?
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