文章を書いていると音楽が"朗読"化する話。

 仕事中にラジオを聞くのにはまっていた時のことだ。

 とある有名なシンガーソングライターさん(しかし名前は忘れた)の番組で、彼がこんなことを言っていた。


「作曲をしているときは、言葉がどんどん音に近づいて、良い詞を書けなくなる」

「逆に作詞をしているときは、音が音楽として聞こえなくなってくる」

 プロとして、そのバランスを取っていくのがとても難しいのだ、と。


 それが、プロや達者なアマでないとわからないレベルの話なのか、素人の音楽好きでも起こることなのか、私は知らない。

 知っているのは、執筆中にボカロを聞くと、ろくなことにならないということだ。


 がらんどう。

 棒読み。

 ばらばらと散らばる、空疎な音のかけら。


 そのボカロのファンなら大概知っている、有名で達者な人の曲でさえ、書いている間はボーカルがそう聞こえてしまう。


 ボカロはそのがらんどうぶりが良い面があって、情感がつかないからこそ生まれてきた曲もある。

 けれど、それは曲全体が調和してなり立つもので、メロディどころか音の上げ下げとしか聞こえなくなると、ただただむなしい虚ろにすぎなくなるのだ。


 毎日文章を書けば書くほど、音楽からは遠ざかっていく。

 言葉を研ぎ澄ませていく分だけ、言葉でないものからははぐれていく。


 それは多分、私の情報認識能力が、慢性的なリソース不足だからだろう。

 言い換えれば、眼や耳からの情報を処理する手が足りない。


 文章の時には文字を処理する方にわーっと集まっていくし、音楽の時には音の聞き分けのためにどわわーっと大移動していく。

 おそらく絵を描いたり映像を作ったりしていたら、眼の方に大量採用されていくんだろう。

 ……人ではないのであれだけど、喩えだからね?


 全体に、五感からくる情報処理への手が足りないのが、私の特性のひとつであるらしい。

 日常生活上は問題ないが、仕事と余暇においてはちょっと不便だ。

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