「障害者」は社会人への負担であるか。

 イエスでもありノーでもある。

 それゆえの最近の「○○ハラスメント」流行りであろう。

 みんな、誰かの"犠牲"になんてなりたくないのだ。



 不勉強なので大雑把かつ極端な話になるのを許してほしい。

 公的支援なしに社会にでることが難しい、いわゆる「障害者」は大きく2つに分けられる。

 見てわかる障害を持つ者と、見てわからない障害を持つ者だ。


 このうち、見てわかる障害がある者は、実績や経験が積まれてきたおかげで比較的自立に結びつきやすい。

 あくまで比較的、ではあるが、大きな企業では雇用義務が法で定まっているし、人事部にもノウハウが集まっていることが多い。


 逆に、見てわからない障害を持つ者……発達障害はもちろん、高次脳機能障害や気分障害など……は、人事としてのノウハウが存在しないに等しい。

 見てわかる障害者を長く雇ってきた会社でさえ、どうしたらいいのかわからない、というのが現状である。

 また、雇用も努力義務となっている。



 私としては、『皆が一斉に自分の楽にやれることで働けば、みんなふさわしい場所に配置換えになって、世の中はスムーズになる』という考え方を信じている。

 そうした世界を目指して活動している人も複数知っている。


 だが、それは遠い理想へと歩み続ける行為だ。

 今ここで苦悩している人には、届きにくいことも知っている。


 私だって、こうして書くことを決めるまで、結局8年かかったのだ。



 不思議なほど手厳しい人がいる。

 自分に許されていることを許されていないと思い込み、他人にも許されはしないんだと強要する。

 多分、そう思わされる日々を送ってきたのだろう。


 そうした人は、どこかで自覚があるからいい。

 見ようとしないだけで、精神的な虐待を受けていたり、陰惨な暴行にあっていたりと、生乾きの傷が自他に厳しくさせているところがあるからだ。


 問題は、手厳しくならざるをえなかった人々が大多数を占めるために、本来許されていることを許さない空気感が作られることだ。


 人間は、周囲がこうだと示すとそう考えるようにできている。

 心理学の実験で、そのことが証明されている。


 目に見えてあからさまな間違いであっても、同じ部屋にいる複数人が「正しい」と支持すれば、ほとんどの人はそれが正解だと思わされてしまう。

 脳が「正しく」なるよう見え方を変えてしまうからだ。

 周囲に意思が押し流されるのではなく、そもそも正解が認識できなくなるのである。


 手厳しさが大多数を占めれば、許されないことに違和感が芽生えても、社会の空気がつぶしてしまう。

 それが「当たり前」だ、「常識」だ、と善意と正義感で言う。

 許せない人たちが、許せない人を増やしていくのである。


 背景にあるのは、"自分ばかり奪われてきた"という、漠然とした意識だろうと私は考えている。

 許されることを許されなかった人々が、他人や子供に許さない連鎖は、暴力関係ではおなじみのものだ。



 誰かの作業量が落ちれば、別の誰かにしわ寄せがいく。

 それがしんどいと、負担だと、言える社会のほうが健全だと私は思う。

 思うけれど、それはお互い様だと笑えなければ、ただの悲惨な話ではなかろうか。


 病まない人間はいない。

 傷まない人間もいない。

 目に見えるものも見えないものも、「障害」にならないことはない。


 正義面で正論を吐きたいのではない。

 奪われる機会はくさるほどあるのに、与えられることが皆無である点について考えたいのだ。

 奪われた人ほど受け取り方を知らないために、ますます奪われる連鎖について言いたいのだ。



 今の世の中、見えるものしか理解しようとされていないように感じる。

 そして、人間の脳というものは、その人が望んだものしか見せない。


 "「障害者」は自分たちから奪うものだ"


 そう見なされていれば、そう見えるのだ。

 他人にも、自分にも。



 一個人において、障害は性別や気質と同じく、その人の一属性にすぎないのだが、そう思えるまでには結構な時間がかかる。


 そして一属性であるからには、どう扱われたいかは


 この辺り、相手の意向を察するのが長く美徳であった日本文化では、ちょっと腑に落ちづらいかもしれない。

 けれど、この表明をしなければ、"奪われる"と見なされたままなのだ。



 少したとえ話をしよう。

 あなたはある日、職場の同僚にこう言われた。


「実は自分は女性の体だが、本当は男性なんだ」


 さて、あなたは「びっくりした」以外の何を言えるだろうか?

 自分に何を求められるのかと、脅威を感じはしなかっただろうか?

 助けることよりも、扱いあぐねることを強く考えなかっただろうか?


 同僚は続ける。


「ずっと女性をやっていたから、男性として暮らせるか、今後試していくことになるんだ。体力仕事は難しいけど、他は職場の男性と同じように扱ってほしい。業務に支障はないようにするよ」


 さて、あなたの考えはどう変わっただろう?

 求められたことへの困惑はさておき、先ほどまでの脅威は多少消えたのではないだろうか。

 何をすれば相手を傷つけずに済むのか、失礼にならないのか、方針を示されたからである。



 世の中手厳しい人ばかりではない。

 また、許さないと告げる同じ人が、わかりやすく他人を助けたがったりする。

 求めて受け取ろうとすれば、助けようとする手は思ったよりある。


 ただ、助けられる側にも努力がいるのだ。


 自分にできることとできないことは何か。

 自分に耐えられることと耐えられないことは何か。

 自分の障害はどのような影響を起こしていて、そのためにどう対応してきたのか。していくのか。

 そして、これから自分や周囲に何を望むのか。


 話しづらい相手に代弁してくれる人はいるだろう。

 しかし、自分の内面や障害や苦しさを、望むものや求めるものを、表に出せるのは自分しかいない。

 成人ならばなおさらである。


 それらの説明をせずに、ただ「障害がありました」と言われても、大半の人は戸惑うしかない。

 家族や発達障害の専門家すらどうしようもない。



「気持ちを落ち着けたいんです」

「○○があると業務上支障が出るんです」

「診断を受け止めきれないのですがどうしたらいいでしょうか」


 それぞれの分野で、信用できる人に助けを求めていく。


 発達障害だからといって、何もかも全部できなくなるものではない。

 やれなかったことに目を留めて、気づいたことを受け止めて、自分で直せる部分はやっていく。


 そうして助かる努力をしている人を助けないような環境なら、逃げたほうがいいと個人的には思う。



 ここまでのことは、綺麗事に見えるかもしれない。

 求めたいことがわからない人もいるだろうし、ショックで頭が真っ白なままの人もいるだろう。

 認めたくない! と閉じこもるのも当たり前の反応だ。


 拒絶感やもやつきがあるのなら、今のあなたには必要でないのだと私は思う。

 ただ、これだけ覚えていてほしい。


 あなたが望んで助かろうとする限り、あなたは社会の負担ではない。


 あなたが助けを受け取ることで、役に立ったと喜べる人がいる。

 少なくとも、私は嬉しい。

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