写真記憶とコアすぎる思い出
発達障害(って今思うと大変ざっくりすぎる分類なのだけど、詳細解説はちょっとググればいくらでも出てくるので、ここでは各方面のオタをまとめて『オタク』と呼んでる程度にざっくりな名称だと考えてほしい)などの脳機能の偏りを持つ人の中には、現実を複写したかのようにくっきりとした視覚記憶をする人がいる。
たとえば、教科書のページをスキャナのように脳に取り込んで、テスト中いつでも読める人もいるらしい。
それは同時に、天災や事故現場を見たときなども、全ての瞬間が誤魔化されず頭に残る、ということでもある。
しかも、記憶するタイミングを選べないこともあるという。
私は複写というほど明確な形ではないが、視覚から焼きついた光景の記憶はいくつかある。
『落第忍者乱太郎』が全巻並んだ本屋の本棚。
見上げた先で5月の光を浴びる、薄いプラスチックみたいな葉っぱ。
打ちっぱなしの柱に巻かれた「M」の文字。
コールタールで真っ黒な犬が洗われた後のカット。
夜を水底に変えてしまう、満月の光。
他にも割とどうでもいいことをいろいろと。
焼きついていても絵にかけないのは、多分私にそういうスキルがないからだろう。
言葉にできる程度には覚えていても、絵にかこうとすると立ち消えてしまう。
視覚データは、重いのだ。
動画になればさらに重い。
結果として、私に視覚的に焼きついた記憶は、人間がほとんどいない。
そこだけ白抜きになってしまうことが多いので、別枠で人の顔を覚えておかないとならない。
見ようと思うと覚えておけないのが、私の記憶の弊害である。
美術展とか博物館とか美術館とかモネ展とか。
そうした訳で、私の記憶はコアすぎる思い出がやたらごろごろしている。
母の嫁入り道具の板目とか。
スーパーに置かれていたプリクラの筐体とか。
体育館の梁に引っかかっていたボールとか。
昔読んだ漫画のひとこまとか。
ベランダの手すりにひっついて半円になったシャボン玉とか。
ドロップのように艶やかな誰かの爪とか。
大抵の場合、「子供の頃の思い出」といったらおでかけや行事になるのでは……と思うんだが、そうした記憶はなくもないけど薄い。
時系列、という概念から薄いので、年頃の推測はついても季節はもうわからない。
小学校の黒に近い焦げ茶の石畳の縁に散らばっていた桜の花びら、くらいならわからなくもないけど、今度は別の桜の記憶がいりまじって混乱していく。
それ以上に困るのが、現実と夢と自作妄想がごちゃまぜになっていくことだ。
私は国語の授業を受けていると思ったら倫理の授業だった、という経験があるくらい明晰な夢を見る。
また作品世界に入り込んで、そこでの五感や思考をたどる読み方や書き方をするので、「妄想でできた鮮やかな記憶」もいくらか存在する。
これがファンタジーならまだいいが、半端に現実に近いともう、何がなんやら区別がつかなくなってくるのだ。
"アルバム"の整理は、とっくにあきらめている。
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