「普通」ではなく「私」になりたい。

 なんとか使いはひかれ合う、ではないが、ティーンに近づいた当たりから、私は変わり者に多く接することになった。

 先に述べたオタクたちもさることながら、本の向こうや画面の向こうで、私は多様な「普通でない」人々に出会っていったのだ。

 それは無意識にでも、自分の違和感を形にできる"ことば"を探していたのかもしれない。


 性的な指向や嗜好が

 自分を愛し大事にすることができない。

 よりも敏感な気質を持つゆえに苦しむ。

 自分を男とも女とも思えない。

 日常の家事や社会適応ができない。

 脳みその凹凸レベルで


 こうした彼らの(一部私の)違和感に比べたら、オタクの大半はただのエロ好きで知識豊富で愉快な人だった。

 同性の先輩や後輩は「ありえない」と異性の仲間をこき下ろしていたが、話を聞くだけでは実感の持てない私には、よくわからなかったことも多かった。

 ……多分、私自身もかなり変な奴認識されていただろうと思うが。



 普通、というものはないのだとよく言われる。

 言われる割にという言葉は、ありふれて見えるほど使われている。

 はこうだ、あるいはになりたい、と。


 最近になって思うのは、だと社会は格段に生きやすい、ということだ。

 性別が男女のどちらかだと思い、異性と愛し合っていれば、自分も周囲も抵抗はない。

 感覚を鈍らせて、おおらかに社交的であれば、タフネスであることが評価される。

 ほどよく空気を読みながら、相手の感情的な飢えを察知し対応できる人間は、それだけで周囲に可愛がられる。


 摩擦を、負荷を、緊張を、疑念を……よって立つ根幹を崩壊させる概念を、人は容易に受け入れられない。

 アニメやゲームの所持者が犯罪を犯すたびに、ニュースで所持を知らしめられるのと同じことだ。

 でなければ、この世はさらに生きにくい。


 だからこそ、戦ってきた先人は多くいる。

 人として、労働者として、女性として、被害者として、見えず聞こえないものとして、この世にないものを創るものとして、男性でないものとして、尊ばれなかったものとして、愛する相手を愛するものとして。

 とされてきたことはの一部なんだと、語り、論じ、主張して、少しずつ変えてきた人たちがいる。


 私は彼らを尊敬し、けれど彼らの中には加わらない。

 ……加われない。

 私はそこまで強くなれない。

 つい3日前も原因不明のめまい(&胸痛&鼓動激速&吐き気&頭痛)起こして、今朝まで寝込んでたし。

 多分引っ越しで乗るようになった満員電車×2日分のせいだし。



 障害者、というくくりにいると、どうしても「健常者」を意識してしまう。

 きっと同じように、それぞれでそれぞれの信じる「完全無欠な」があって、それを持てないから自分は余計に生きづらいんだと、無理な注文をしてしまうのだと思う。

 親や周囲の理解がないと、余計に欠陥扱いされるしね。

 自意識が原因でないものの自己責任を求められるのって、しんどいよ。


 私も「健常者」に焦がれたことはあるし、今の日本ではでないことを抱えている身だから、ちりちりとしんどいこともある。

 教育が進んでいく子供世代を恨んで羨んだこともあるし、何もマイナーに生まれたかったわけじゃないのに! と心内叫んだこともある。


 診断されて8年がたった。

 8年のもがきの中で、私がようやく知ったひとつのこと。


 発達障害は私のベースだ。

 でも、


 周囲が健常者に近いだの障害者に見えないだの言おうとも、私は自分として、生き方に責任を取らなくてはならない。

 でも、でなくても、それは当たり前に行うことで、多分行えることだ。


 今は、ただ誰でもなくになりたいと願う。

 健常も障害も、多分きっと、どうでもいいのだ。

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