誰かの棚の下には、希望が灯っている。

 実家に戻ってから困っていることのひとつに、階段を駆け降りられなくなったことがある。

 もう何年もエレベーターを使う生活だったので、足が忘れてしまったらしい。


 足を下ろした一瞬、着地のバランスが取れずに止まってしまい、結局不格好に降りる羽目になる。

 還暦過ぎの父のほうが、よほどスムーズに降りてくる。実に遺憾である。



 協調性運動障害、というものがある。

 素人目には手の不器用さや、器械運動での動きのおかしさがよく目立つ障害だ。

 私はその診断を受けてはないけれど、発達障害を疑うきっかけとして医師に考えられる程度には、体育の実技がぼろぼろだった。


 二重跳びを理解したのは高校に上がってから。

 いまだに開脚後転はできない。鉄棒も前回り以外できない。

 筆記で高得点を出して、ようやく「5段階の3」が付く程度には常に不得意だった。


 運動嫌いの子供の例にもれず、私は日々図書室に入り浸った。

 小学校の図書室のすみで、「赤毛のアン」と「大草原の小さな家」といくつかのファンタジーをくり返しくり返し読んでいた。

 地味に社会科見学系のシリーズも好きだった。


 図書室が一種のシェルターにしやすかったのは訳がある。

 我が家には1000冊以上の本があって、その大半がしまわれていたものの、私は常に壁いっぱいの本棚とともに過ごした。

 当然親は私にも本を買い与えたので、本棚のそばは何をすればいいか「理解できる」「安心な」場所だったのだ。


 それは保育園でも発揮され、私は教室にいるのと同じくらい園長室の本棚の前にいた。

 担任の保育士がうまく誘導しなければ、外遊びをまるでしない子供になるところだったほどだ。


 絵がかいてあるだけの絵本は苦手で、文字のついているものを好んで読んだ。

 そのまま小学校でも、中学校でも、高校でも私は図書室で過ごした。



 今思うと、別に読書が好きだったわけではなかったと思う。

 当時の子供にとって、一番簡単に手に入る知識が、紙の上の文字情報だった。それだけだったのではないか。


 私はいつも、何かを知りたくて本を読んでいた。役に立とうが立たなかろうが、目をひく新しい知識は快楽だった。

 小説はもちろん、ライトノベルや同人誌すら、私にとっては目新しい「知識」を学ぶものであって、物語を楽しむものではなかったのだ。



 だからこそ、私は迷ったとき、悩んだとき、本棚に助けを求めた。

 それは年々増えていく我が家のものでもあったし、近所の本屋や遠くの大型書店でもあったし、学校の図書館でもあった。


 棚を眺めて歩いていると、不思議と必要なものがやってくる。

 問題はそれに付随して、大量の読みたい本ができることだった。

 最大で100冊近く借りたこともある。図書室の仕事を手伝っていた恩恵だった(ちなみに3分の1くらいしか読めなかった気がする)。



 インターネットが普及して、情報に行き会う頻度は増した。


 私が学生になったばかりの頃は、ちょうどブログの黎明期で、無数のテキストがネット上に噴き出していた。

 それまでにもメールマガジンやウェブサイトといったものは無数にあったが、「文章だけを書けばネットのコンテンツになる」先駆けは、ブログであったと私は思う。


 あちこちのブログをザッピングしながら、人間の生きる姿そのものがコンテンツになりうることに、私は不安と興奮を覚えた。

 多分、忙しさを自覚できていないという意味での「暇な」大学生だったからだろう。

 他人のささいな日々の記録は、どれも楽しかったのだ。



 生活リズムが壊れて留年し、心身大荒れの中で文献を集め、どうにか卒論の準備をしていくうちに、私はふとあることに気づいた。


 誰かの本は、その人の「棚」でできている。

 そこには書物があって、ゲームがあって、音楽があって、映画があって、その人自身の記憶や経験や学びがあって、それらが濃縮されて一冊になっている。

 それを読むから、私は調べを短縮することができている。


 当時はその程度までだったけれど、最近はさらにこう思う。


 こうして「誰かの棚の濃縮」が集まった、別の「誰かの棚」はどんなことになるだろう。

 濃縮と掛けあわせを繰り返して、「一冊」はどうなっていくんだろう。



 私は、誰かの棚の下で育ってきた。


 それは上に行くほど無限に散らばる吊り下げ棚の群であり、そこから「濃縮」が滴っては、下へ少しずつ流れていく。

 滴りは本になり、記事になり、つぶやきになって、どこかの棚へ溶けてはまた滴っていく。


 そうして落ちてくる滴りを、私は手の中で受け止める。

 受け止めても、ほとんどのことは消えてしまう。

 それでもぬれた跡を少し残して、私をわずかずつ変えていく。


 その先にできる「本」を、見たいと思った。



 とはいえ、それがエッセイという形になるつもりはさらさらなかったし、発達障害の話をここまでするつもりもなかった。


 実はここ数年、自分の特性や症状について書くことを勧められてはいたのだけれど、どうしても書く気にはなれないできた。


 発達障害の当事者の本はあちこち出ているし(今度KADOKAWAさんでも栗原類のを出すそうだし)、ちょっと気をつけて調べればネット上にいくつも本音が飛び交っている。

 それらを読みながら、私にとって怖い点があったために、ずっと書くのをためらってきた。



 私は、私の話をすることで、「発達障害の私」になるのが怖かった。

「発達障害」という大きな概念に、私自身が食われてしまうことが怖かった。


 障害も特性も、私の一部で全部ではない。

 けれど、安易に語れば「発達障害」に引きずられることを直感していた。

 他人が私をどう見なすかはさておいて、私がまず自分の言葉で話せるようでないとダメだと考えていた。



 まさか創作とかコミュニケーションとかで悩み落ち込んでるとこに「障害者とは言えない」って医者に言われて、ぐちぐちするうちにぷつっときて第1話書いてたとは思わなかったよね!


 直前に読んでいた『あたし研究』の影響は大きいし、何にも考えてなかったわけではないけれど……だいたい衝動性で人生動かしている気がする。



 まあネット上では3年ほど前から公開はしてたので、そのうちに受容が進んでいたんだろう。

 やってみればネタが尽きる恐れよりも、文章がすぐ終わってしまうことのほうが難儀だった。


 なにせ、エッセイなんてろくに書いたことがない。

 ブログの更新もさぼっていたし、アウトラインや構成を立てる書き方も苦手だ。

 ちなみに高校時代、小論文模試の点数は最高で30点だった。


 しかたがないので、全部上からリアルタイムで書いた。

 この文も今考えて進めているものだ。

 おそらくこのシリーズ全体が、不格好に階段を降りるような、がっくんがっくんした文章ばかりだろう。


 いつかなめらかに降りられるようになりたいと思うが、今はここまでとして、それはそれでいいかと考えることにしている。

 そこを気にして書かなければ、私は自分のうちにある望みや祈りにも気づかなかったし、1万1千以上もの訪問をいただくこともなかった。これは有難いものだ。


 ……それにぶっちゃけ形にしてしまえば推敲はいくらでもできるしな!(ただし構成で地獄を見る)



 閑話休題。


 大学生のアン・シャーリーが、レポートまっただ中で友人に言う。


「遠い未来に現れる天才のために、その一歩分でも私たちが手助けできるというのは、素敵なことだと思わない?」


 自信すごいな?! と感じる反面、こうも思うのだ。


 どんな天才も、誰かの棚の下にいて、滴りを受け取ることで才を発揮していく。

 それを営々とつないでいくのは、大勢の「一冊」なのだと。

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