5.それは、きみ自身の才能に対する冒涜だ
十二月の東京はどこも人の移動が激しいようで、ようやく見つけたコイン・パーキングは、目的の家から一キロ近く離れていた。
日は落ちかけ、車を降りると冷たい風が吹く。
楠見は助手席から降りてきたキョウのマフラーをしっかりと巻いてやり、手袋をはめるように指示し、連れ立って住宅街を歩き出した。
上っているこちらが申し訳なくるような苦しげな音を立てる鉄製の階段を上り、目指す部屋の前に立つ。玄関の扉にネームプレートが貼ってあるが、シールに「杉本」とマジックで書いただけのもの。
小物も植物なども置かれておらず、女性の部屋であることを示すものも一切なかった。ドアの脇にごくオーソドックスな全自動洗濯機。これでは雨ざらしだ。
旧式のチャイム。押すと「ピンポン」という懐かしげな音がしたが、応答はない。
キョウと顔を見合わせ、少し待ってもう一度チャイムを鳴らす。
「留守かな」つぶやくと、キョウは楠見に目を上げた。
「見てくるか?」
「……いや、いいよ」
午後五時前。勤め人や学生なら、まだ帰っていなくても不思議はない。あるいは、またどこかの駅前あたりで歌っているのか。
これで諦めようと、三度目のチャイム。少しして、中で人の動く足音がした。またキョウと目を合わせる。
ドアが少しだけ開く。顔を覗かせたのは、女性シンガーと同年代に見える若い男だった。
「なに。誰?」半分だけ顔を見せて、ぶっきらぼうに聞く。くたびれたトレーナーにジーンズ。眠ってでもいたのか、長めの茶色い髪はボサボサで、それをかき上げながら訝しげな視線を楠見に向ける。漂ってくる、タバコの臭い。
「突然すみません」楠見は一応、礼儀正しく微笑んで挨拶をすることにした。「楠見と申します。こちらのお宅に――」
言いながら、彼女の名前をどうにか調べておかなかったことを後悔する。だが、男は気にした様子もなく、欠伸をかみ殺すような顔をした。
「若い女性がいらっしゃいますか? 杉本さん――ええと、なんて言ったかな。申し訳ない、住所は控えたんだが、名前を失念してしまった」
「……美和のこと?」
「ああ、美和さん」屈託のない笑顔を作って、楠見はやっと思い出した、という風を装った。「駅前で、歌を歌ってらっしゃいましたね」
「あんた、何?」
「先日、この子の落し物を拾ってもらったんですよ。助かりました」
楠見は脇に立っている子供の肩に手を置き、できるだけ爽やかに笑いながら適当な理由を伝えた。念のため手土産を準備したのは正解だった。
「それで、お礼がしたいと思って。これ、ほんの少しですが」
男はまだ疑いの拭いきれない表情で楠見を見ていたが、キョウを一瞥し、楠見の差し出した小さな菓子の箱に目をやり、さらにもう少しだけドアを開けて「どうも」とつぶやきながら受け取った。
「美和さんは、お出かけですか?」
「買い物。そのうち帰ってくると思うけど?」
面倒臭そうな気持ちを隠そうともせずに放たれたその言葉は、帰ってくるまで待たせてやる、などという意味ではないらしい。男はもう用は済んだだろうと言わんばかりに、何も言わずドアを閉めた。
楠見は改めてキョウと顔を見合わせ、軽く肩を竦めると、キョウの背を押して部屋を後にした。
「少しだけ待ってみようか」アパートの敷地を出ながら言うと、キョウはこくりと頷く。
「寒くないか?」
「へーきだ」
「そうか」
楠見は微笑んで、道の向こう側にある自動販売機を顎で示した。
「あったかい飲み物でも買おうか」
「ん」
「何がいい? ココア? お。おしるこもあるぞ」
「おしるこってなんだ」
「よし。飲んでみろ」
キョウにおしるこを、自分用に缶コーヒーを買って、アパートの見える位置にある月極め駐車場の、腰の高さほどのブロックに腰掛ける。あたりは暗くなり、風はますます冷たい。
「寒くないか?」
隣でおしるこの缶を不思議そうに見ている少年に、再度聞く。
「ない」と答えた少年のマフラーと手袋がしっかり装着されているのを、楠見は横目で確認する。
致命的に自己管理能力のないこの子供を、寒空のもと付き合わせて風邪でも引かれては、こいつの同い年の兄貴の怒りは計り知れない。
楠見の心配を他所に、キョウは慎重におしるこに口をつけた。熱い、という顔をした次の瞬間に、両目がぱっちりと見開かれる。この反応があるから、この世間知らずの少年に新しいモノを与える楽しみは
「その、杉本美和さん、だけどな」並んで座って缶に口をつけながら、楠見は問う。キョウが、缶を口に当てたまま視線を上げた。「彼女の能力は、アポーツだけかな」
「んー」と、キョウは少し考えているような間を置いた。「だと思う」
「能力の大きさは、どの程度だ?」
「んー、まあまあだな」
「サイフよりも大きな物を移動させることができると思うか?」
キョウは首を傾げた。
「サイフよりは、たぶんな。あんまでかいのは、ムリだ」
「そうか」
ハルとキョウ。「サイ業界」の名家、
そして、神月家の伝えるもう一つの能力。
「お前やハルみたいな種類の
「ん。ないな」
キョウはこくりと頷いた。
「とすると、会っても俺たちに危険はないな」
「ん」
キョウはまたおしるこを一口飲んで、楠見にうかがうような視線を向けた。
「会ったら、斬るか?」
それこそが、キョウにはできてハルにはできない、神月家にも数百年に一人しか生まれないという能力。
「いや……」楠見はわずかに思考して、首を横に振った。「斬らなくていい」
「ふうん」
キョウは意識の大半をおしるこに奪われてしまったように、無表情に相槌を打った。
「能力を奪うのは、彼女が能力を悪用することしか考えていないとき。それか、彼女がそれを希望してからだ。じゃないと、彼女の能力を『正しいこと』に使うチャンスもなくなっちまうだろ?」
キョウは、楠見の言葉を咀嚼するようにまた少し考えるような間を空けて、頷いた。「ん。分かった」
しばらく黙って、楠見は彼女に会ったときの対応を再検討する。喜ばれはしないだろう。警戒心を抱いているはずだ。とすれば。
「くすみ」キョウが、おしるこの缶を持ち上げて困ったような目で楠見を見た。
「どうした」
「まだこん中に、つぶつぶがあんだ」
「……つぶつぶだけか? 汁は全部飲んじまったのか?」
「そうだ」
「じゃあ、しょうがないな。つぶつぶは諦めろ」
キョウは不満げに、缶の口に片目を当てて中を覗き込んだり缶を振ったりしていたが、ふっと何かに気づいたように曲がり角の方向へと顔を上げた。つられてそちらに目をやると。人の歩いてくる気配。
角を曲がって現れたのは、果たして先日の、アポーツの女性シンガー。杉本美和だった。コンビニあたりの買い物袋を手に提げ、楠見たちには気づかない様子で歩いてくる。
楠見へと目を向けたキョウに頷いて、立ち上がる。女性の瞳がこちらを向く。と――。
一瞬歩を止めるとさっと身を翻し、美和はいま来た方向へと向かって走り出した。
「捕まえるか?」立ち上がり、緊張感のない口調で聞くキョウ。
「ああ、頼む」楠見は頷く。「話を聞くだけだからな。足を止めさせるだけでいい。『タイマ』は出すなよ」
「分かった」の、「分か」あたりで、キョウは楠見の視界から姿を消していた。
驚くべき跳躍力を見せ、住宅の塀の上へと軽く足をつくと、さらに跳び、角のマンションのベランダを足掛かりにして木立の向こうに消える。
追いかけて角を曲がると、街灯の弱々しい明かりの中、五十メートルほど先を美和が走っていた。その目の前へ、住宅の塀や屋根を伝って追い抜いたキョウが軽い足取りで降り立つ。美和は突然降ってきた少年に、足を止めて。
即座に踵を返し戻ろうとするものの、後ろから楠見がやってくるのを見ると観念したように動きを止める美和。楠見はゆっくりと、彼女に近寄った。
「なんなの、あんたたち」美和は、近づいてくる楠見を、驚きと困惑の入り混じった顔で迎える。「なんで――」
「きみに会いに来たんだよ。こないだは、話の途中でいなくなっちまうから」
楠見は笑顔を見せる。楠見の脇に駆け寄ってきたキョウの頭をよしよし、と撫でて。
「話なんかないんだけど」
「そうはいかない。こちらはミュージック・チャージを払って、まだリクエストに答えてもらってない」
美和は険悪そうに舌打ちをして、コンビニの袋を肘にぶら下げたままバッグをあさり、サイフを取り出すと中から一万円札を抜き出して楠見のほうへと突き出してきた。
「返すよ」
楠見は腕を組んで、一万円札に目をやり、もう一度、美和の顔を正面から見る。
美和はバツが悪そうに、金をこちらへ差し出したまま目を逸らした。
「きみは」楠見はそんな美和を見つめながら、口を開く。「そんなにいい声をしているのに。きみの歌を聴きたい人間が、その声のために払おうとする金よりも、なんの縁もない他人の懐から盗った金のほうがいいっていうのかい?」
「あたしは……」美和ははっとした表情になり、反論しかけたが、言葉にならずに途中で押し黙る。
「駅前で、あれは金を持っていそうな人間を探す間の暇つぶしに歌っていただけなのかな。だったら勿体無いを通り越して、音楽に対する――いや、きみ自身の才能に対する冒涜だね。せっかく素晴らしいものを持っているのにな」
美和の表情は徐々に変わっていた。不機嫌な様子は残しつつ。目を逸らしたまま心持ち口を尖らせたその表情は、怒っているようでも戸惑っているようでもあり、そういう顔をするとやはり、まだ少女と言ってもいい年頃に見えた。
「そんなんじゃ、ない」
つぶやくように言って、楠見のほうへと差し出したままになっている腕を、ほんの少しだけ引っ込める。
「だったらしまいなさい。それは先日いい声を聴かせたもらったお礼と、次のリクエスト代だよ。応えてくれるつもりがあるならね」
再び笑顔を作って言うと、また少し腕を引っ込め、それでも札はしまわずに美和は、目を逸らしたまま言葉を探すような間を置いた。
あんたに聴かせる歌なんかない、だとか、さっさと帰れ、だとか。そんな雑言が繰り出されるかもしれないと思ったし、実際にそんな言葉を発したい様子に見えたが、美和の口から出てきたのは意外と落ち着いた、言い訳めいたような声だった。
「ムリだよ。ここじゃ駄目だし、準備してないし。すぐには」
内心でホッとして、楠見は微笑む。彼女の良心に賭けてみてもいいか――そう思った。
「無理やり歌わせるほど無粋じゃないよ。今度、調子のいいときに聴かせてくれ」
そう言うと、美和はやはりバツの悪い顔で札を持った手を下ろした。大きくため息をつく。
「……なんで、分かったの? あたしのしたこと」
「分かる人間もいるんだよ。誰にも知られずなんて、そうそう上手く行くことじゃない」
美和は不可解そうな顔をする。それ以上、説明をすべきかどうか楠見は少し迷った。が、結局何も言いだす前に、美和がふて腐れたように鼻を鳴らす。
「それで……あたしを、警察に突き出すために来たわけ?」
「そんなことはしない」
「どうして? 見てたんでしょ」
「きみが犯罪行為を働いたという証拠は何もないだろう?」
怪訝そうに眉を寄せる美和に、楠見は苦笑した。
「誤解があるようだけれどね。警察や検察は、そんなに横暴でも単純でもないよ。徹底的に証拠を調べて、確実にコイツが犯人だって分からなければ処罰したりしない。『超能力を使って他人のサイフを盗みました』『超能力でそれを確認しました』は、法律の世界じゃ受け付けられない」
「そう、なの?」
戸惑い気味に言う美和に、楠見は少しだけ厳しい表情を作った。
「ああ。だけど、分かっているか? 裁かれない。罰せられない。それは、赦してもらうこともできないってことだよ」
大きく見開かれた美和の瞳が、二、三度、ゆっくりと瞬き。
そのたびに、瞳の奥で気持ちの揺れているのが分かった。
楠見は、だから、言葉を繋ぐ。
「きみがもしも反省していて、二度とああいうことをしないと誓えるなら、俺はきみの力になれる。だから――」
だが。
「おい、美和ぁ! なにやってんだよ、お前はよ!」
楠見の背後から、唐突に大きく叫ぶ声。
先ほどアパートにいた男が、角を曲がって歩いてくる。キョウが少しだけ楠見のほうへと身を寄せた。
「なかなか帰って来ねえから、見にきてみたら……」そう言って、男は楠見へ不信感を剥き出しにした視線を投げつける。「なに、あんた。まだいたのかよ。こいつになんか、ややこしい話でもあんの?」
「違うよっ」
口を開きかけた楠見を制して、ぽつりと言ったのは、美和だった。
「悪い。ちょっと話してただけ。用は済んだよ。ね」美和は楠見にそう言い、男の肩を押す。「もう帰るから」
「あ? なんだよ、迎えに来てやったのによ」
「いいから。ほら、ビールとタバコ。これ待ってたんでしょ」
言いながら男を十メートルばかり先まで押しやって、それから「ちょっと先行ってて」と告げ少しだけ楠見たちのほうへと戻る。
そして、そのまま進んでいく男を気にしながら、楠見に向き直ったとき、彼女の瞳は強い光を――それは強がりという種類のものにも見えたが――取り戻していた。
「ハッ」どこか虚ろな声で、美和は軽く笑う。小声で。「反省って? 馬鹿じゃないの? 反省するくらいなら、最初からやってないって」
「……そうか」
「へえ。警察には捕まんないんだ。いいこと聞いた」
「捕まらないとは言ってない。捕まっても裁かれたり罰せられたりしないだろうと言ったんだ」
「言い訳はいいよ。だけどあたしは自分の能力を使って金を稼いでいるだけだよ。反省? なんで? 馬鹿じゃないの?」
繰り返して、美和は「じゃあね」と言って、すでに角を曲がろうとしている男の後を追いだした。
楠見はため息をつく。
キョウが、コートを引っ張った。目をやると、楠見を見上げている真っ直ぐな瞳。
「斬るか?」
「いや――」
考えながら口を開こうとしたとき、離れた場所から美和が楠見とキョウのほうを振り返った。
まだ少し、怒ったような顔で、一瞬言いよどんで。
「……日曜日は、ニコタマか溝ノ口」何かの謎掛けみたいな口ぶりで、早口に言う。「火曜と木曜の夜が高円寺か荻窪。あとはどっか適当に、小田急沿いの大きな駅」
顔を背けたまま。
「誤解しないでよ。リクエスト代もらった分を、聴かせるだけだからね。どっかで会ったら、歌ってやってもいいよ」
「美和ー?」角からまた男が顔を覗かせると、美和はすぐに駆けていった。
楠見は改めて、大きく息をついた。コートを掴んでいる少年に視線を向ける。
「振り出しかな」
「そっか?」
「いや、多少は前進したのかな」
「そっか」
「ああ。……ちょっと解決を急ぎすぎたな」
「ふうん」
大真面目な表情で気の抜けたような返事をする少年の頭に、楠見は手を載せる。
「まともに自己紹介もできなかったもんな」
もっと、別のアプローチを考えるべきだったのだろうか。ささやかな後悔と、それでも「別の方法」を取るということを決めかねている優柔不断さ、臆病さへの自己嫌悪。それらに、楠見は内心でまたため息をついた。
「いつも、同じ失敗をするんだ」
「そっか」
真剣な瞳で頷く少年の頭に手を載せたまま、楠見は促す。
「帰ろうか」
「ん」
「付き合わせて悪かったけど、また出直しだ」
「ん。いいよ」
階段や通路の明かりさえ怪しげに点滅している美和のアパートの前を通り過ぎ、少し進んで家並みの塀や窓ごとにクリスマス・イルミネーションの煌々と瞬く住宅地を歩いて、駐車場への道を引き返した。
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