5.あんまり嬉しいと、駄目なんだ
ファミリーレストランの駐車場に車を停めたまま、近くのアパートまで楠見とキョウは美和を送ってくれた。何かあればすぐに連絡するよう再び念を押されて。
軋む階段に足を掛けたとき、楠見が後ろから小さめに声を掛けた。
「そうだ、また次のリクエストしてもいいかな」
「……気分による」
暗がりで、楠見は笑ったようだった。
「『アメージング・グレース』を頼むよ。前に歌ってただろう? リクエスト料、前払いにする?」
「……いいよ。さっきのコーヒー代ってことで」
美和も少しだけ笑って、階段を上る。そうして部屋のドアを開けるまでのわずかな時間、美和は先ほどの会話の内容を反芻する。
今やっていることをやめるなら。チャンスだった。自分に言い訳をしながらずっと続けていくことは、できない。
何よりも、自分が変われるかもしれないという期待が胸を占める。
これまでに見たことのなかった希望が、目の前に開ける。
それで一瞬、忘れていた。都合の悪いことを、束の間。
「おぉ美和。遅かったな」
ドアを開けると、タバコの臭いとテレビの音、雅史の声に迎えられる。
「うん。ただいま」それだけ言って、美和はギターとバッグを置き、洗面所に向かおうとする。が、すぐに雅史に呼び止められた。
「これ。あの宝石、売ってきたぜ」
差し出されたのは薄い封筒。
大通りに出ている看板で見たことのある質屋の店名が、下のほうに印刷されている。中をあらためると、一万円札が五枚入れられていた。
「もうちっと行くかと思ったんだけどな。けっこうでかかったから。カンテイショ? だかがねえからっつって、それだけにしかならなかったけどさ」
美和とは目を合わせずに、テレビのほうへと顔を向けたままぶっきらぼうにそう言う雅史。
これは、「正しくないこと」をした、証拠。封筒から顔をのぞかせる一万円札を見つめて、美和は唇を噛む。
札を戻し、そのまま雅史に封筒を返そうとして――やめた。
代わりに封筒にある、店の住所と電話番号を確認し、バッグにしまう。
洗面台で顔を洗って、美和は鏡に向かって大きくため息をついた。
そこに映るのは、汚れた、罪を犯した人間。
『お前の能力を使って稼ぐんだ。できるからやってんだ、問題ねえだろ』
雅史の声。それは、美和が自分に対して使っていた言い訳だった。そう。言い訳だってことは、いつも心のどこかで認識していて、それがずっと棘のように心に刺さっていた。
できるからやっているんだ。だけど、それは誰のためにもなっていない。感謝されて、認められて得た金ではない。分かっている。分かっているのに、いつまで続ける?
テレビに目をやりながらタバコに火をつけた雅史の背後を素通りして、美和はベランダに出た。
夜の冷たい空気に、少しだけ気分がシャキッとする。
もう、やめよう。と思う。
キレイになれるだろうか。
『誰かから感謝され認められて、自分自身でも満足できる能力の使い方が、できるはずだ』
できるだろうか。
無意識に、小さく口ずさんでいた。
――アメージング・グレイス なんという美しい響き
――私のような者さえも、守ってくださる
『あんたのその能力もね、持って生まれた、素晴らしい能力だよ。だから、持たせてもらえたことに感謝して、大事にするんだよ』
彼女の言葉を思い出していた。それにその歌声。彼女の歌うアメージング・グレイスは、本当に美しい響きで。包み込むような温もりと、力があって。あんな風に歌いたいって、ずっと思っていた。
できるだろうか。あたしにも。
――かつて迷い、道を見失っていた私は、いま見出され救い出された
――かつて何も見えなかった私の目は、いまは見開かれている
真っ黒な空から、ふわりと白いものが舞ってきた。
これで、いいんだろうか。
駐車場に戻る道を歩きながら、楠見は自分への問いを繰り返す。
分かっている彼女の罪をあげつらい、認めさせ、能力を奪って警察に連れて行くこともできた。
それをしないのは、彼女に自分で立ち直って欲しいから。確実にそれが、彼女のためだと思うから。しかし、本当にそれで、いいのか?
もしも彼女が更正できなければ。良心を取り戻さなければ。
『きみは、『サイ』に近すぎる』
マクレーンの説教を、また思い出す。
それはサイたちのためなのか。目の前にいる人間を傷つけたくないというだけ、単に楠見が、やはり優柔不断で臆病であるということに過ぎないのではないだろうか――。
たとえば世の治安であるとか、人々の財産であるとか、生命であるとか。もっと多くのサイたちの、身の安全であるだとか。大きなものを守るために、ひとりを犠牲にすることが必要なときも、あるのかもしれない。けれど、そのような決断が。自分にできるのだろうか。
「くすみ。チキン」
唐突に、隣を歩く子供が上げた声に、楠見はがっくりと肩を落とした。
「……なあ、キョウ。たしかに俺は
「ん? 学校で習った」
キョウは楠見を見上げ、答える。
「そうか。学校か。勉強はちゃんとしないとな。そうなると俺は、『そうかちゃんと習った言葉を覚えて使って偉いな』としか言えないよ。……けど、けどな。それは五年生の勉強する内容として適切かな。ちょっとカリキュラムを見直させてもらおうか。何の授業で習った? 国語か? 英語か? 社会科か?」
「ホームルームだ」
「そうか。それはテコ入れが難しいな。それぞれの先生の裁量に任せている部分が大きいからな。まあ、
「ん。クリスマスだからだ」
「ああ、そうだよな」
「クリスマスには、チキン食べるんだ」
「そうだな。クリスマスには……ん?」
足を止めるとキョウは、「あれ」と通りの向こうを指差した。
閉店間近のスーパーが、店先に机を出して、フライドチキンのパックを販売している。
自分が非難されているわけではないことに安心し、楠見はキョウの頭に手を載せた。
「買って帰ろうか」
「んー」キョウは少し考えて、「いいや」と軽い口調で言って歩き出した。
おや、と思い、楠見は歩きながら身を屈める。
「どうした? そういやパフェも二つしか食わなかったし。どっか具合でも悪いか?」
「違う」と、目を伏せるキョウ。
ずっと黙って聞いていたが、美和との会話に、何か思うところがあったのだろうか。この子は、自分の気持ちを言葉にすることが苦手なのだ。
もう一度頭を撫でて、
「買っていこう。ハルにもお土産を持っていかないと、遅くなったから怒ってるかもしれないしな。帰って一緒に食べろ」
キョウの肩に手を掛けて来た道を戻り、通りを渡ってスーパーで山ほどのチキンを買う。
袋を受け取った楠見に、キョウがまた「くすみ」と声を上げた。
「今度はなんだ。ケーキか? トナカイでもいたか?」
「雪だ」
見上げると、暗い空からチラチラと雪が舞ってきたところだった。街灯の白い明かりに、細かいそれは光るように浮かび上がる。
「ああ。降ってきたな」
「積もるか?」
「いや。まだ十二月だしな。雨になるって予報でもなかったし、すぐに止むだろ」
するとキョウは、不満そうな顔をする。
「東京はあんまり雪が積もらないって、マキが言った」
「そうだなあ。一月か二月くらいには、多少は……俺も長く住んでないから分からないけど、何度も積もったって話は聞かないなあ」
「そっか」
「積もったほうがいいのか? 雪が好きなのか?」
「んー、まあまあだな」
楠見は苦笑する。
「そうだ。なら冬休みに、雪のあるところに連れてってやるよ」
「まじか」キョウは目を輝かせて、しかしすぐに嬉しそうな様子を消す。そうして苦いものでも口に入れたような顔で。「んー。やっぱいいや」
「いや。行こう。俺は雪が見たい」楠見は力いっぱい決意する。「ハルも、マキも鈴音さんも誘って、みんなで雪を見に行こう」
「みんな」キョウは口もとを膨らませて、嬉しさを我慢しているみたいな表情になる。
「ああ。その前に初詣だ。それより前に、ベルツリーでクリスマス・パーティーをするぞ。そうだ。クリスマス・プレゼントだ。なると巻きだったな。十本な」
「……十本は、やっぱいいよ」
(……なんだ?)
様子がおかしいぞ。なんだって突然この子供は、遠慮を覚えた?
「どうして? 喜んでたじゃないか」
楠見は腰を屈める。覗き込むが、キョウはどこか困った顔で、ふっと目を逸らした。
「十本は無理だ」
「無理?」
「ん。あんまり嬉しいと、駄目なんだ」
目を伏せたままこくりと頷いたキョウに、楠見は小さくため息をつく。
「そうか」それから腰を起こして。「それは、困ったな」
「困った?」キョウが顔を上げ、首を傾げた。
「ああ。俺たちはみんな、お前が嬉しいのが、嬉しいんだ。けどそれが駄目だとすると。困るなあ――」
顎に手を当て、考えるようにして言うと、キョウも難しい顔で、黙り込む。
楠見はチキンを持っていないほうの手でキョウの肩を抱いて、歩き出した。
「キョウ、ちょっと雪を見ていこうか」
公園のベンチに並んで腰掛ける。楠見が渡したおしるこの缶を、キョウは最初それで暖を取るように、しばらく大事そうに両手で持っていたが、促されてプルタブを開けた。
気温は低いが風はなく、雪はゆっくりと、舞うように少しずつ落ちてくる。
地面や体を濡らすほどではなく、肩に載った雪を叩くとはらりと散った。
「前にいたところは」自分も缶を口に当てながら、楠見は舞い落ちる雪に目をやって聞いた。「雪が積もるところだったのか?」
「積もるとこもあったな」頷くキョウ。
「何度も引越ししたのか?」
「んー。そうかな」
楠見と出会う前のキョウのことを、楠見は彼本人の口からほとんど聞いたことがない。話したくないのか、話す必要を感じていないのか、それともよく覚えていないのか。
彼の一年前よりももっと前の暮らしは、ハルから断片的に聞いただけだが、ハルにしてもすべて知っているわけではないようだった。
「キョウ。俺はなあ」
「ん」
「サイが好きだな」
キョウは、不思議そうな顔で首を傾げた。楠見はそれに笑う。
「だって、凄いもんな。手を触れずに物を動かしたり、他人の心が分かったり。な。勉強が得意な子も運動が得意な子もいるけれど、キョウ、お前と同じことができる人間はいない。凄いことだぞ」
難しい顔をしている少年の頭に手を置いて、ぐしゃぐしゃと撫でる。あまり強く撫ですぎて、頭がぐらぐらと揺れてキョウは「わわわ」と声を上げた。
「けどなあ」楠見は手を止めて。「凄いんだぞって、誰かが教えてくれる前に、それを隠さなきゃならなくなっちまう。もったいないよなあ」
公園の中央に立つ電灯が作る、光の輪の中を、細かい雪の粒が舞う。それらは地に着く瞬間に転がるようにわずかに地面を走り、すぐに消えた。
そちらに目をやりながら、楠見はキョウの肩を抱き寄せる。
「俺はな。サイの能力を持っているみんなが、自分の能力を好きになって、それを活かして笑って暮らせるようにしたいんだ」
キョウは、楠見を上目遣いに見上げた。その視線に応えて。
「お前や、ハルや、さっきの杉本さんがな。その能力のために傷ついたり、泣いたりしなくてもいいように。世の中に遠慮したり、引け目や疎外感を感じたりせずに……難しいか?」
「バカにすんな」
「ハハハ、そうか。お前たちが、ほかのみんなと同じように好きなことをして、好きなもんを腹いっぱい食べて、なんの心配もなく暮らせて……それはな、世の中全部をそういう風にするのは、たしかに難しいよ。けれど、そういう場所を作りたいんだよ」
「ん」
こくりと頷く少年の肩を、楠見は優しく叩く。
「それにはお前の力が必要なんだ。俺に力を貸してくれるかい?」
「ん。いいよ」
サイの少年は、また深く頷いた。
「よし、いい子だ」その頭を撫でる。「それじゃ、クリスマス・プレゼントは、仕事を手伝ってくれたご褒美だ。なるとでもチキンでもケーキでも、好きなだけ食っていいぞ」
笑いかけると、キョウも小さく笑う。
その反応に安堵して、じゃあ行こうかとベンチに置いた荷物を手に取り、ハッとなった。
「しまった。チキンがすっかり冷たくなっちまうぞ。おい、お前んちに電子レンジはあったな?」
「ん。ある」
「じゃあハルに温っためてもらえ。……怒るだろうか……」
気を重くしながら立ち上がる。
雪はすぐにも止んでしまいそうな力のなさで、それでもまだ、細々と降り続けていた。
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