4.手を伸ばせば、もっといいロープが掴めるのに

 通話の切れた携帯を、美和が受け取ったその瞬間だった。

 唐突にドアが開く。姿を現したナナミを見て、美和は無意識に一歩、後ずさっていた。それまでの、どこかぼんやりとふわついた雰囲気は消え、瞳に険悪な色を浮かべるナナミ。ドアノブに手を掛けたまま、視線をハルに向け、美和に移し、それから美和の手にしている携帯電話を睨みつけて。


「……何をしてるの?」

 再び自分に戻ってきた視線に激しい抗議の色を読み取って、美和はまた踵を後ろにずらす。


 代わって一歩前に出たハルが、ぺこりと頭を下げた。

「どうも。ハルです。杉本さんを連れ戻しにきました」


 怖がっているフリから、方向転換をすることにしたらしい。ハルはきっぱりとした口調で言って、美和を振り返る。「ね」という風ににっこりと笑ったハルに、美和もつられて小さく頷いていた。


「そういうわけなので、逃げます」

「だ、駄目だよ!」


 ナナミは目を大きく見開き、叫ぶような声を上げた。

「あなたたちがいなくなったら、私、サカキさんにどんな目に遭わされると思ってるの?」

 またも、ナナミの声が震えだす。

「駄目だよ、駄目だよ、絶対……」


 何事かと目を丸くするハルの顔を見つめながら、うわ言のようにつぶやいて、ナナミは慎重な足取りで後ろに下がり。

「鍵が……掛かってて、開かないもの、玄関のドアも。誰もここから出られないんだよ!」


「大丈夫。問題ありません」ハルは大きく頷いて、笑顔を見せる。「それなら一緒に逃げましょう。あいつが帰ってこないうちに」


 しかし、ナナミは激しく首を振りながら。

「無理だよ。逃げても捕まる。前もそうだったもの。絶対、絶対、無理だよ――」

 声を震わせながら後ずさると、素早い動きでナナミは外へ出て、止める間もなくドアをぴたりと閉める。


「あっ、ちょっと――」

 思わず追おうとした美和の腕をハルが掴んで止めた。


「駄目だよ!」ドアの外から、ナナミの叫ぶ声。「サカキさんに連絡するから! 今すぐ帰ってきて、止めてもらうから!」

 言葉の終わりのほうは、もうかなり遠ざかっていた。


「困りましたね……」

 美和の腕を解放し、ハルが嘆息する。

「彼女も、あれですよね。あの男に捕まっている?」


 美和は頷いた。「あの男に言われた仕事をしていて、今はあたしのことを見張っているように言われてるって。それでずっと、あの調子。あたしが逃げると、暴力を振るわれるんだって」


「なるほど。そういうことか」

 何か納得したようにハルは頷いて、思案顔で腕を組んだ。

「でも、それならなおさら、放って逃げるわけにもいかないし。仕方ない、連れていきましょう」


 美和に頷きかけて、ドアに歩み寄るハル。慌てて続きながら美和は問いかける。

「どうするの? こっち側からじゃ開かないみたいなんだけど――」

「言ったでしょ、問題ありませんって」


 微笑んでハルはドアに右の手の平を当てた。刹那せつな。風船でも割れたような鋭い音がして、ドアが弾け飛ぶ。数枚の板切れになって廊下に散らばった、ドアだったものに目をやって、ハルは少しばかり困ったような笑いを唇に浮かべた。


「あ、足元、気をつけてくださいね。ちょっと失敗しちゃった。玄関はもう少し綺麗に壊します」










「やっぱり、ここだね」

 暗くなってきた住宅街。アパートの塀の、透かし彫りの隙間から表を覗いていたハルは、塀の上に胸から上を出してつぶやいた。

「だな」

 同じような体勢で、キョウがこくりと頷く。

 二人の瞳は、向かいのアパートの一階の窓を睨んでいた。


 三十分ほどそうしている間に、二度ほど窓のカーテンがわずかに開き、二度目で室内から恐る恐るこちらを覗く男の顔を垣間見かいまみた。


「ひとりで遠くに逃げ失せるような度胸はないから、きっとカノジョの家に隠れている――杉本さんとマサシくんの読みは正しかったね」

「だな」こくり。


「さてと、それじゃどうしようかな」

 踏み台にしていた花壇の縁のブロックからぴょこんと飛び降りて、ハルが言う。

「楠見に連絡しても、杉本さんたちだけにしてこっちに迎えに来るのは不安だろうし」


「捕まえるか?」

 同じようにひょいっと地面に降りて、キョウがハルに目を向ける。


「そうだね。捕まえて、連れて帰るのが早いね」

「ん。けど、どうやって捕まえる?」

「あんまり詳しいことを考えていなかったね」

「だな」

「楠見もさ。指示が曖昧だよね。もっと的確な依頼が欲しいよね。俺たち小学生なんだしさ」

「だな」


 隠れていたアパートの門に向かって足を進めながら、ハルは宙に目をやった。

「移動はタクシーを捕まえればいいとして。素直に応じて一緒に来てくれるかな」


「眠らせるか?」

「それもひとつの方法ではあるけれど、俺とキョウとじゃ大人をひとり運ぶのは大変だよ」

「そっか」


 んー、とキョウは小さく眉を寄せ、少し考えて。

「タイマ使うか」


「うーん」ハルは軽く唸って首を傾げた。「それもひとつの方法ではあるけれど……人目につくといけないしなあ」


 二人して首を捻りながら、狭い道路を渡って向かいの渡辺悟が潜んでいるらしいアパートの入り口にたどり着く。

「とりあえずさ」ハルはアパートの通路に入りかけて。「呼び出してみようよ。逃げたらそのときに考えるってことでさ」


「ん。分かった」

 頷いて続こうとしたキョウを、ハルは手を上げて止めた。


「そうだ。追っ手が来たと思って窓から逃げるといけないから、キョウは窓のほうを見てて」

 言いながら、閃き顔になる。

「ああ、いっそ逃げ出してくれたら、捕まえやすいね」


 にっこりと微笑んだハルに、キョウも笑顔を作ってまた頷いた。

「ん。だな」




 キンコーンと硬い調子の呼び出しベルが鳴って、中で何かが慌しく動く気配がする。ハルはドアに耳をつけて中の様子を数秒間うかがっていたが、すぐに踵を返して建物の反対側に回った。

 ちょうど、裸足で窓から逃げ出したらしい渡辺悟が、地面に尻餅を着くような体勢で固まっているところだった。視線の先には、細身の日本刀の刃。刀を握るキョウが、その刃を悟の首筋からわずか数センチのところで静止させたまま、気配を察してハルを振り返る。


「ハル。捕まえた。やっぱこのまま連れてこう。手っ取り早いし」


「うん……」ハルは刀に目を留めたまま、言葉を捜して。「いま実際に見て分かったんだけど、やっぱこれは不味い」


「そっか?」

 少々不服の面持ちで言って、キョウは少しだけ刀を引く。


 ハルは二人に駆け寄った。

「サトルくん」呼びかけると、悟は錆び付いたロボットのようなぎこちない動きで、寄ってくるハルを振り返る。

「あのね。ちょっと一緒に来て欲しいんですど」


「は……な……? どこ、に?」

「楠見のところに。サカキを捕まえるために、話を聞かせて欲しいんです。それに、その後また警察で同じ話をしてもらうと思うけれど」

「だ……っ、けいっ……? 待っ……ジョウダン……っ」


 はあ、とハルは小さく息を落とした。

「それとも、抵抗しますか?」

 そう言って、キョウに視線を向ける。と、キョウは再び刀を悟の首筋に寄せる。


「ひぃぃっ」

 情けない声を上げて、悟は尻餅のまま後退しようと足をバタつかせるが、既に背中は壁にくっついて身動きが取れない。


「ああ、危ないですよ。動くと。その刀、本当に切れるから。間違って怪我するといけない」

「ひ、ひぃぃっ!」


 目を剥いて、引きつったような悲鳴を上げる悟。


「大丈夫ですよ」慰めるように、ハルは微笑んで。「サカキと違って、俺たちは乱暴はしませんから。ね」

「ん。話聞くだけだ」

「それに、選択の余地はないんですよ。一緒に来なければ、サカキに捕まるだけなんで。そっちのほうが良ければ、そうなるようにお手伝いしますが、来てもらえるなら安全は保障します。それが楠見の仕事ですから」


 笑顔のまま、ハルは悟に向かい合って目線を合わせるように腰を落とした。

「ただ、あんまり抵抗するようなら……」


 顔を寄せてきた子供から目を逸らすことができずに、悟はごくり、と音を立てて唾を飲み込む。


「ぶっちゃけて言うと、楠見はサカキよりも怖いですよ。サカキみたいな超能力者を何百人も抱えている組織のトップなんで」

 少しばかり笑みを小さくして、さらに顔を近づける。

「一見、良識派に見えるんですけどね、その気になったらヤバイですよあの人。顎先ひとつでね、サカキみたいなのが三十人くらい動くんです。サトルくんたちのこと、最初っから存在しなかったみたいにもできちゃいますよ」


 冷ややかにそう言って、ハルはおもむろに悟の背後のアパートへと視線を移す。

「この建物じゃ心配だな。眠っている間に襲撃されたらひとたまりもない。この手のアパートなら鍵を破るのも簡単だし。ほら、こういう具合に」


 ハルは地面へと目をやる。つられてそちらに向けた悟の視線の先で、拳ほどの大きさの石ころが、パシンと音を立てて砕けた。


「ひえぇぇぇ! なっ? いま――」

「朝になって目が覚めたら、たぶんどっかの港の倉庫の中ですね。まあ明日まで生きていればの話ですけど。ああ大丈夫。アルバイト先には『サトルくんは遠くへ引っ越した』とかなんとか言って、そういう証拠も作りますから。そこらへんは抜かりありません。でも、そんな工作はしないで済めばそっちのほうがいいんだよなあ」


 これ見よがしにそこで大きなため息をついて、ハルは悟に視線を戻し、それからにっこりと笑った。

 

「ねえ、一緒に来てくれます?」


「い、い、い、い……」

 悟は言葉にならない言葉を発しながら、やはりギクシャクとした動きで首を頷かせた。










 昔ながら、という雰囲気の喫茶店の、座り心地のいい革張りの椅子に浅く腰掛けて、美和はげんなりと何度目かのため息を落としていた。

 隣には、サカキのマンションを出るときからずっと声を上げて泣き続けているナナミ。

 美和とハルとで半ば引きずるようにして、途中からは迎えにきた楠見に肩を抱きかかえられるようにして、車に乗せられ連れてこられたナナミだったが、楠見がどれだけ言っても捕らわれていた籠から解放された喜びの色は微塵みじんも浮かばず、絶望に暮れるように泣いているだけだった。


 うんざりと視線を転じると、テーブルを挟んだ正面には雅史。目が合うと、気まずそうに顔を逸らす。その視線は美和の隣のナナミにぶつかって、面倒なものから目を背けるようにまたさまよって、手元の水のグラスに落ちた。


 ほかに客のいない店内。離れた席で、美和たちに背を向けて楠見は何件かの電話を掛けていた。少年二人は、サカキのマンションの前で別れてもうひとつの目的地に向かい、ここにはいない。


 店主らしい若い女性が、トレイにコーヒーカップを四つ載せてやってくる。ナナミに目を向け困ったように微笑みながらカップを置いたのと同時に、電話を終えたらしい楠見が携帯電話を胸のポケットにしまいながらこちらの席へとやってきた。

 楠見は美和と目を合わせると、軽く肩を竦め、椅子に腰を下ろしながらナナミに向けて少々身を乗り出す。


「ナナミさん……とりあえず、名字を教えてもらえるかな。それと、できれば住所と――」

 柔らかく問いかける楠見に、しかしナナミは答えずに、「わぁん」という声を上げてさらに激しく泣き出した。苦りきった顔で、楠見はまた吐息を漏らす。


「あのね。いいかな」わずかに身を引き、子供に話して聞かせるように。「きみはサカキという男に捕らえられて、能力を利用され仕事を手伝わされていた。そこまでは、合っている?」


「うっ、うぇっ」としゃくりあげるような声を上げながら、ナナミは答えずに顔を覆う。


「それで――いいかい? 俺たちは、サカキを捕まえる。奴にもうこれ以上悪いことはさせないし、きみは奴のところに戻らなくていい。だから、何があってもきみがまた奴に暴力を振るわれたりすることはないんだ。家にも帰れる」


 両手を広げ、言葉をる楠見。その口調からは、この手の説得に慣れているような雰囲気も感じられたが、それでもナナミの涙を止めることはできない。

 そもそもナナミがいつからどういう事情でサカキの元に捕らわれているのか、具体的に何をしていたのか、両親はどうしているのか、以前はどこでどう暮らしていたのか。境遇が把握できず、慰めの言葉に窮しているようでもある。


 肩を揺らして大きく嘆息し、楠見はそれからしばらく泣いているナナミを見つめていた。

 重苦しい沈黙の中に、ナナミの鳴き声だけが響く。が、そのうちそれも、次第に小さくなって。


「少し、落ち着いた?」

 腕を組んで椅子に深くもたれた体勢で、楠見が声を掛けた。と――


「……して」

 顔を覆った手の隙間から、ナナミが小さくつぶやく。


「……ん?」

「帰して。私を。サカキさん、の、ところにっ……戻してっ」


 意外な言葉に、美和は思わずナナミの横顔をうかがった。楠見も目を見張り、身を起こす。

「どうして? きみはもう自由だ。帰る必要なんかないんだよ?」


 やはり両手で顔を隠して、ナナミは大きく頭を振る。

「嫌だっ……サカキさんの、ところに、帰る……帰りたい……帰りたい」


 美和は、楠見と目を合わせた。ついでにその隣で不思議そうに目を丸くしてやり取りを見守っている雅史とも視線を合わせ、またナナミに目を戻し。

「ねえ。なんで帰りたいの? だって、酷いことをされるんでしょ? 殺されちゃうかもしれないって……」


「だけど」ナナミは震えるように言葉を発した。「怖いこともあるけど……優しいこともあるもの。酷いこともするけど。でも、必要だって、言ってくれるもの……」


 必死に言葉を手繰るナナミ。楠見は、長い吐息を落としてまた背もたれに背を預ける。


「誉めてくれるもの。誰も、誉めてくれなかったの……サカキさんしか……私は……サカキさんの、ところに、帰らないと……」


(ああ――)

 何か、すとんと胸に落ちてくるものがあって、それが胸の中でざわざわと不快な音を立てだして、美和は唇を噛んだ。

(おんなじだ)


 心の波立つのを抑えて、美和はナナミの肩に手を回す。


「バカだね」


(あんたも、あたしも)


 ナナミは顔を覆っていた両手をほんの少しずらし、泣き腫らした瞳をちらりと美和に向ける。


「……バカだよ」


 ぐすり、とナナミが鼻を啜った。こちらに向けられている、悲嘆と困惑と、抗議らしいものとがない交ぜになったような視線に美和はいたたまれなくなって、勢いよく身を起こしてテーブルの端にあった紙ナプキンを取りナナミに押し付けた。


「ほら。拭いて。それとも顔洗ってくる?」


 ナナミは思わずという感じで受け取った紙ナプキンに目をやって。その視線が自分に戻ってくるのを待って、美和は言っていた。


「ねえ。バカだし、ずるいよ。――ううん」目を伏せて、ゆっくりと美和は首を横に振る。「あたしのことだね、これ。認めてもらえないからって、拗ねてさ。大して努力もしてないくせに。たまたま手近にあって手に取りやすかったボロいロープに捕まって。これしかないからしょうがないんだってさ。そんなものにしがみついてちゃいけないって、分かってるのに……こうしてるしかないんだって言い訳して」


 自分で言っていても堪らなくなって、美和は宙に目をやった。気を抜いたら涙が出てきそうな気がして、無理やり唇の端を引き上げる。

 ナナミは顔を覆っていた手を外して、ぼんやりとした瞳を美和へと向けていた。


「ちゃんと……手を伸ばせば。もっといいロープを掴めるのにさ」


 もう少し、頑張れば。

 掴んでいたロープを、一度手放す勇気さえ出せば。

 必ず――。


「ねえ」美和は、ナナミの肩に載せていた手に力を込め、彼女の肩を揺するようにしながら。「分かってるでしょ? サカキのしていることが悪いことなんだって。それに利用されてるんだって」


 そのまま、わずかに身を乗り出してナナミの顔を覗き込む。


「そんなことじゃない。もっと、いいものを掴めるよ……あんたも、あたしも。感謝されて、認められて……自分の能力に満足できるような使い方があるよ。サカキじゃない。素晴らしい能力なんだって、あんたのこと必要だって、言ってくれる人がいるよ」


 言いながら、美和は楠見へと顔を向ける。「ねえ?」


 一瞬目を見張った後、楠見は笑って力強く頷いた。

「ああ」


 いつの間にか、ナナミは泣き止んで、それでもまだ零れ落ちそうな大粒の涙を浮かべた瞳でぼんやりと美和と楠見とを見比べた。

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