3.というわけで、助けにきました

 美和は膝を抱いてソファに座り込み、じりじりと背中に乗っかってくる不安にひとり耐えていた。

 室内には時計はないが、窓の外はすでに薄暗い。ここへ来てからは時間の感覚がなくなっていて、どのくらいこうしているのかよく分からなくなっていた。


 ナナミと名乗った少女は、幾度となく部屋を訪れ、少しずつ美和との会話を試みようとしていた。そのたびに同じ質問と沈黙で返す美和に、小さくため息をついて悲しげに部屋を出て行き、それでもまたいくらも時間の経たないうちにドアを開ける。

 何度目かのときに持ってきたクラッカーと牛乳が、目の前のテーブルに置かれていた。


『お腹すいたでしょ? これ、食べて』

 ふんわりと、暗い瞳を細めて笑顔を作るナナミに、美和は薄気味の悪いものを感じて食べ物に手をつける気分になれなかった。ハンストなど意味はないだろうが、食欲がわくはずもない。


 ナナミは切実に、話し相手、あるいは一緒に過ごす友達を欲しているようだった。その様子と、断片的に語る内容から、美和は苦い想像をする。

 雅史や悟に、例の宝石を探し出させる。あるいは楠見から、宝石を取り戻す。その取引のための人質として、美和はここに監禁されているのだろう。けれど、サカキがその目的を果たした後で、美和が解放される見込みは薄く感じられて――。

 ナナミのように、ごくわずかな生活必需品と食料だけを与えられながら、捕らわれてここから出られないようにさせられるのだ。少しでも反抗を示したりすれば、暴力を振るわれて。

 その想像に行き着くたびに、背筋がぞっとして体が震えた。こんな「仕事」に関わってしまったことに、涙が出そうになる。だが、後悔しても、遅かった。


(誰か、助けて――)


 脳裏に思い浮かべたのは、楠見の顔。力になってくれると、そう言った。暗闇の底から美和を引き上げてくれる、力強い腕に思えた――けれど、彼は無事でいるのだろうか?




 軽くドアをノックする音がして、すぐに扉が開く。

 何度目かの遠慮がちな薄い笑顔で、ナナミが姿を現した。

「まだ食べてないんだ。お腹、空かないの?」


 口を開けば、きっと同じ質問が飛び出すだけで。黙って目を逸らした美和に、ナナミはまた、小さなため息をつく。


「食べておいたほうが、いいよ。サカキさんが帰ってきたら、食べ物を取り上げられちゃうかもしれないから。機嫌が悪いと、何も食べさせてもらえないんだ」

 ふう、とまた息をつきながら、ナナミはわずかに顔を俯かせた。


「その、サカキって人は」美和は、目を逸らしたまま小さく声を上げた。「いつ帰ってくるの?」


「さあ」ナナミは首を傾げる。「今日中には一度、戻ってくると思うけど」


 緊張が、体に戻ってくる。数時間以内に、あの男は帰ってくるのだ。そうして、美和をどうするのだろう。どうにかそれまでに、ここを逃げ出すことはできないだろうか。


 方法は、頭に思い浮かんでいた。美和の能力を使えば、ナナミという少女がもしもそれを阻止しようとしても、強行突破して部屋を出ることができるのではないかと。

 けれども。

 外に出る方法をぼんやりと思い浮かべ、部屋の出入り口のドアをじっと睨んでいる美和に気づき、ナナミはハッとしたように美和へと目を向ける。


「何を……考えてるの?」

 慌てた口ぶりで、美和と、その視線の先を見比べるナナミ。


「だ、駄目だよ――」言いながら、美和の視線を遮るべく、ドアとの間に体を割り込ませてきた。「ここを出てったりしちゃ、駄目だよ。戻ったってサカキさんに見つかるんだし、無駄だよ。それに――あなたがいなくなたら、私が――」


 そこまで言って、また声を震わせたナナミに、美和は堪えきれずに視線を向けた。そして、うんざりと大きくため息をつく。彼女に対して特別に思うことなど何もないが、それでも、自分のせいで彼女が暴力を振るわれるなどと言われれば、あっさりと見捨ててひとりだけ自由になれるほど冷酷にもなれない。


「ねえ」美和の両腕を掴み、ナナミはうかがうような、機嫌を取るような曖昧な笑顔を作る。「ここで、一緒にサカキさんの仕事をしようよ。ずっとここにいようよ」


 答えられずに、美和は目を逸らした。そのとき。腕を掴むナナミの手が、一瞬ビクッと震えて。ナナミはにわかに緊張した面持ちで、ドアのほうへと目をやる。


「帰ってきたみたい」

「……え?」


 視線を追って、しかしその先にはなんの変化もなく、誰かが来るような物音も聞こえず、戸惑いながら美和は唾を飲み込んで。

「帰ってきたって……? あの、……サカキって人?」


 質問には答えずに、ナナミは美和から手を離し、ドアへと目を向けたまま小さく首を捻った。

「あれ……? 誰だろう、あれ……」

「え……あれって?」


 ナナミはやはり、美和の質問など耳に入っていないように、ドアに向かってふらふらとした足取りで歩いていき、かませてあった棒を外すと部屋を出て後ろ手にパタリとドアを閉める。

 追いかけて、美和はドアに耳を当てた。

 どこか別の部屋のドアが開いて閉まるような音が聞こえたのは、しばらく経ってからだった。不機嫌そうな男の低い声。


(帰ってきたんだ――)

 動悸を抑えて、ドアの外から聞こえてくる音をどうにか拾おうとする。話し声は続くものの、内容は聞き取れない。ナナミに対して何か言っているような気配はあるが、それに答えるナナミの声は聞こえてこなかった。

 少し経って声が止むと、またドアの閉まる音。そして、こちらに誰かが向かってくるような足音。――ひとりではない――?


 慌てて身を離した瞬間、ドアが開いて、顔を覗かせた人物に美和は思わず目を見開いた。

「あ、あんた……!」


「あ! 杉本さん!」

 続く美和の言葉を遮るように、声を上げる少年。

「良かった! 無事だったんですね、『お兄ちゃん』たちも心配していて。大丈夫ですか? 怪我とかないですか?」


 そう言いながら、少年――「キョウ」の兄の、たしか「ハル」と言っていた――は美和に駆け寄る。後ろから続いて姿を見せたナナミが、ハルが室内に入るのを確認するように一度中へと視線を走らせた。ちらりとそちらを気にして、ハルは唐突に顔を歪ませ美和へと駆け寄って。


「うわーん、怖かったよー」

「えっと……」

「酷いよ。『お兄ちゃん』に言われた通りの場所に行ったらね、いきなり怖い大きな男が現れてね。ここに連れてこられたんだ! ボクたちこれからどうなるんだろう。怖いよーうえーんうえーん」


 両手で顔を覆い泣きべそをかくような声色で言って、ハルはちらりとまた背後を気にする。

 ナナミは無表情にしばらくこちらを見ていたが、やがて興味を失ったかのように小さく息をついてドアを閉め、姿を消した。

 顔を覆った手の隙間から横目でそれを確認すると、ハルはぴたりと泣き真似をやめて美和の目を見つめ、きっぱりとした口調で。


「というわけで、杉本さん。助けに来ました」

 小さく首を傾げるようにして、にっこりと笑った。


「えっと。ハルくん、だよね。ひとりなの?」

 戸惑い気味に訊ねた美和の肘を取って、ハルはソファを目で示す。


「ひとまず座ってください」

 促されて、美和はソファに腰掛けた。隣にハルが、ぴょこん、という動きで座る。そうして少年は、上半身を美和に向けて、あたりを窺うようにちらりと見渡してから顔を寄せた。


「普通に、大声を出さないで聞いてください。聞かれてはいないと思うけど、きっとから。余計な動きはしないように――」


 ごくりと唾を飲み込んで、美和は小さく頷く。なぜ彼がここに来たのか、しかもひとりで? 状況がまったく理解できない。


「例の男。サカキっていう」

「う、うん」

「あいつから、マサシくんたちに呼び出しがあったんです」


 必死に事態を把握しようと頭を働かせていた美和は、ハルの言葉に目を見開いた。

「雅史と、会ったの?」


「俺はすぐにこっちに来ちゃったから会っていないけれど、楠見たちと合流しているはずです」ハルは微笑んで頷く。「携帯電話を、忘れていったでしょう?」

「ああ――」


「そこに、マサシくんから電話が掛かってきて」

 ハルは、さらに身を乗り出すようにして、美和に顔を近づけた。

「それで、マサシくんたちの代わりに、俺があの男の指示した場所に行ったんです。『お兄ちゃんに、ここに行けって言われたんだ。お兄ちゃんたちは少し遅れてるから、ちょっと待ってて』って。そうしたら、ここに連れてこられました」


 再び美和は、目を見張る。

 が、ハルはなんでもないことのように、


「良かった。あの男、キョウと顔を合わせてるんで、俺のことも疑うんじゃないかって心配したんですけど。わりとあっさり信じたみたいです。それに、ここに来たおかげでいろいろ分かりました。ずっと疑問に思っていたんです。これであらかた解決。良かった良かった」


 あっけらかんと言われたが、美和の心中はそれどころではない。なんて無謀なことを。子供ひとりであの危険そうな男に会いに来るなんて? そう言いたいのを察したように、ハルはにっこりと笑って。

「大丈夫。あの男の能力は分かっているし。ここまでのところ、作戦通りに進んでいます」


「作戦って……?」

「楠見は既にこの場所を把握しているはずです。いま警察の人が、サカキって男のことを調べているんで、それを待っているんです。それまで俺は、とりあえず杉本さんのガードをするためにここに来ました。状況を見て、可能だと判断したら二人で逃げ出すようにって言われてるんだけど、無理でもいずれ助けが来ます」


 力強く言われ、場違いにも安堵に似たため息が漏れる。「助かった」などと言える状況にも思えなかったが、それでも先ほどまで胸に圧し掛かっていた重しがわずかに軽くなったような気がしていた。


「楠見……サンも、無事なんだね」

「はい。元気ですよ。怒ってますけどね」

「……怒ってる?」

「はい。あんまり表には出さないけれど、あれはかなりキてますね」


 悪戯っぽく笑ったところで、出入り口のドアが開く。ハッとしたようにハルはそちらへと視線を走らせ、それからまた、わざとらしく両手で顔を覆った。


「うえーん、杉本のお姉さん、ボク怖いよー」

「え? えっと……あの……」


 ナナミがドアを開け、先ほどクラッカーと牛乳を載せてきたのと同じ盆に、今度はクッキーとオレンジジュースを載せて入ってきた。

 彼女は、泣き真似を続けている少年を不審げに見つめながら、黙ってテーブルの上にそれを置く。美和との間に割り込んできた邪魔者、とでも思ったのかもしれない。煩わしそうな視線で、しかしやはり無言で部屋を出て行った。


 指の間からそれを確認し、ハルは泣き真似をやめる。そうして、子供のものとは思えない、少々険しい視線を、ナナミの去っていったドアに向けて。

「うん。やっぱりね。そういうことだったんだ。納得納得」

 何かが腑に落ちたというように大きく頷いたハルに、美和は遠慮がちに声を掛けた。


「あ、あのさ、ハルくん」

「はい」

「その……泣き真似、ものすごく嘘っぽいから、やめたほうがいいと思うよ」








 前方の歩道脇に少年の姿を見とめ、楠見は車を脇に寄せて停めた。

 するりと寄ってきた車に、それまで頭上、マンションの一室の窓を見つめていた少年が目を向ける。


「キョウ、ご苦労さま。――ここか?」

 車を降りて訊ねると、キョウはこくりとひとつ頷いた。


「ん。この建物に入ってった。たぶん、あの部屋」


 指差したのがどの窓なのか、判然とはしないが、キョウには兄の居場所が分かっているのだろう。


「サカキは、どうしたかな。まだ部屋にいるのか?」

「いない。すぐにどっか行った」

「そうか――」


 楠見から視線を外し、キョウはまた、一点を見つめる。

 運転席に戻り、楠見は後部座席を振り返った。


「『サカキ』の入っていった部屋を見つけたよ。杉本さんもここにいればいいんだけどな」


 後部座席に身を小さくして座っていた雅史が、固い表情で小刻みに頷く。


「悟くんは? 連絡取れたかい?」

「いや……あいつ、電源も切ってやがる」


 苦々しい口調で、雅史が小さく言いながら、また電話を掛け始める。

 楠見という目的の知れない人物がやってくるのを警戒したのか、それともサカキが店まで来ることを恐れたのか、彼は雅史を残してどこかへ行ってしまったらしい。

「下手に動いて、サカキに捕まってなきゃいいんだけどな」


 言いながらウインドウ越しに前方に目を戻すと、キョウが、手に持った携帯電話を視線の先に向けてかざしていた。









「そろそろ、いいかな」

 独り言のような調子でそう言って、ハルはソファから立ち上がり窓辺に寄る。なんとなく一緒に立って窓の外を見下ろして、美和はまたもや目を見張った。

 向かいのアーケードの歩道で、こちらに見せるように携帯電話を手に掲げている少年――。


「杉本さん! あの電話。あれをここに、引き寄せて!」

 ハルは美和に顔を向け、早口に言う。


「あ、うん――」答えて、美和は少年の持つ携帯電話に意識を集中させた。








 視線の先で、キョウの手から携帯電話が消える。

 すぐに少年は、くるりとこちらに向かって駆けてくる。楠見は助手席のドアを開け彼を迎え入れながら、たったいま彼の手から消えた携帯電話へと電話を掛けだした。

 すぐに、ハルが電話に出る。


『楠見』

「ああ、ご苦労さま。無事か?」

『うん。杉本さんもいるよ』

「そうか、良かった。それから? ほかに誰かいるか?」

『若い女の人がひとり。それだけみたい』

「若い女――」

『うん。たぶん、『遠隔透視リモート・ビューイング』の能力者だ』


 リモート・ビューイング。

 何か、胸にすとんと落ちてくるものがあった。彼女が、サカキの仕事に協力していたのか。


「そうか。分かった。それで。逃げ出せそうか?」

『強行突破しようと思えばできると思うけど……彼女はどうする?』

「抵抗しないようなら、一緒に出てきてくれ。無理ならひとまず杉本さんだけ連れ出すんだ」

『分かった』


「くすみ」通話を切ろうとしたところで、助手席からキョウが袖を引いた。

「ん?」

「俺もハルと話す」


 作戦通りとはいえ、サカキに捕らわれた形になっている兄を心配しているのだろうか? そう思って、楠見は電話を渡す。

「手短にな。リモート・ビューイングの能力者がいるんだ」

「ん。――ハル。どうだった?」


 わずかに興奮したような声で電話の向こうに訊ねたキョウだが、相手の返事を聞いて少々顔を曇らせる。

「そっか。――ん――ん。――分かった」

 何故だか消沈しながら、電話を切って返してきたキョウ。


「どうした? 何か問題があったか?」

 訊くと、キョウは至極深刻そうな顔で、頷いた。

「ハル、失敗したって」

「失敗?」

「ん。泣き真似、ヘタクソって言われたって。帰ったら練習するって」

「…………お、おう」

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