2.あなたもサイなんでしょう

――聖者の行進がやってくるとき

――聖者の行進がやってくるとき、

――ああ神様、私もその群れの中に入りたい


――楽団が音楽を鳴らし始めるとき

――そう、楽団が音楽を鳴らし始めるとき、

――ああ神様、私もその一員になりたい




 窓の外から聞こえてくる軽快な音楽を、ぼんやりと耳に入れながら、美和はゆっくりと目を開けた。布張りの硬いソファに横たわって、眠っていたらしい。

 自分がいったいどこにいるのか把握できず、わずかに身を起こし、周囲を見回す。そうしながら意識を探り、身に起きたことを思い返して。


 緑楠学園の、あの古めかしい建物。そう、その芝生の中庭。そこで。

 あの男と。目が合って。あの男はニヤリと笑って……。


 そこから記憶がない。どうやら自分は意識を奪われ、ここに連れ込まれたらしい。

 ソファにテーブル、小さな椅子。そんないくつかの家具が無造作に置かれただけの、殺風景な部屋。美和のほかに人の気配はない。

 考える間もなく起き上がりドアノブに取り付いたが、鍵が閉められているのかびくとも動かない。

 諦めて、反対側へと駆け寄り腰の高さほどの窓から外を見る。やはり鍵は固定されており、美和は震えるように大きく息をついた。


 眼下は商店や雑居ビルの並ぶ、にぎやかな通りのようだった。歩道に設えられたアーケードの屋根が邪魔をして、店や行き交う人の姿はほとんど見えない。

 その通りの中にある、この建物はマンションか、やはり雑居ビルなのか。向かいの建物からはかるに、五、六階くらいの高さ。

 なんとなく耳に届いていた音楽は、商店のスピーカーから流れるクリスマスソングのようだった。


 外にいる人間が、どうにか美和の窮状に気づき、不審に思って通報してくれれば。そう考えたが、人の姿は遠くの交差点の信号が変わったときにぱらぱらと見える程度で、向こうからこちらを見上げるような視線は期待できず絶望に暮れる。


(そうだ、電話は――)

 そう思って、寝かされていたソファに戻り、周囲を見渡す。美和の持っていたはずの小ぶりのトートバッグは、見える限りにない。あのバッグ、どうしたっけ……気持ちを焦らせながら、必死に記憶を探るが、「学園事務棟」の事務室らしい部屋に入ったあたりから自分の行動をよく覚えていない。


 取り寄せられないだろうか。ふと思い立ち、バッグを思い浮かべる。どこにあるのか分からないものを取り寄せるということが、出来たためしがこれまでにない。どんな場所にどのように置かれているのか。そのイメージが必要なのだ。それでも、藁にも縋る思いで美和は目を閉じ、雑念のうずめく思考を懸命に集中させようとする。

 数分の間そうしていると、ドアをノックする音が耳に割り込んだ。


 例の男が現れるのかと。一瞬身構えた美和だったが、遠慮がちにドアを開けて姿を見せたのは、小柄な若い女性。

 ドアはどうやら、内側からはノブが回らない構造になっているらしい。女性は慎重な動きで短い棒のようなものをドアの隙間にかませ、こちらを向いた。


 美和とさほど変わらない年頃だろう。もしかしたら高校生かもしれない。ほっそりとした顔。緩く三つ編みにした、背中まである黒い髪。伏しがちのおもてを長い前髪が覆って、暗い印象を受ける。

 その弱々しく、それでいて揺るぎのない一重瞼の黒い瞳に、なんとなく心の内まで見透かされているような薄気味の悪さを感じて、美和は小さく身震いした。


「目が覚めたんだね」天気の話でも始めたかのような何気ない口調で、女性は言う。「お腹空いてない? 喉渇いてない? 食べ物くらいなら、あげてもいいって。サカキさんが」


「サカキ……って」戸惑いながら、美和は聞き返した。「あの男? あたしをここに連れてきた? あんた、あいつの仲間なの? どうしてこんなこと……あたしをどうするつもりなの?」


 口を開けば、聞きたいことは次から次へとあふれ出した。目の前の若い女は、わずかな間、美和をじっと見つめていたが、やがて煩わしそうに小さく息を落とすと、

「順番に答えるね」と、つぶやくように言った。


「まず、サカキさんはその男。逆らわないほうがいいよ。大人しく言うことを聞いていれば、別に何もしないから。それで、私はサカキさんの……仲間って言うのかな、あなたたちから見たら。サカキさんに言われた仕事をするだけ。それから、なんだっけ」


 じっと美和の目を見つめたまま、抑揚のない口調で一息に言って、少しだけ視線を斜め上に向けて。

「ああ、そう」つぶやいて、また美和へと目を戻す。「どうしてこんなことっていうのは、あなたのほうが良く知ってるんじゃないの? サカキさんは私には詳しい話をしないから。あなたのした仕事に、何か問題があったんでしょう? これからどうなるのかは、知らない。たまにこういうことあるけど、ここにいるのはみんな、長くても三日くらい。その後のことは私には分からない」


「こういうことって?」

「知らない人が、ここに連れられてくるの。だいたいサカキさんの仕事に失敗したり、問題ありと見做された人。それから、サカキさんのことを追っている人」

「追っている?」

「そ。警察だって名乗った人がいたよ。調査会社の人もね。みんなが自分のこと話すわけじゃないから、ほかの人は知らないけど」

「……警察って……?」


 女は立ったまま戸口に寄りかかり、うんざりしたようなため息をついた。

「質問が多いな」

 そう言って、けれどまた、目を上げる。

「まあ、いいや。話し相手がいなくて退屈してたとこだしね。私の知ってる程度のことなら話しても怒られないし。警察のことだっけ」


「どうして警察が……? ……警察も、ここへと連れてくるの? こんな風に?」

 背筋がヒヤリとするのを感じながら、美和は呆然と聞く。この女性が信用できる人間なのかどうかは分からないが、質問を重ねずにはいられなかった。


「だいたいあなたと同じ。意識を奪って連れてきて、ここに監禁してたね。警察に追われるようなことをしてるからね。知ってるでしょ?」

「連れてきて、どうしたの?」

「さあ。話をしたり、かな。私は……ようにしてるから。ここから連れられていった後もね」

「連れられて……?」


 聞けば聞くほど嫌な予感に胸が潰されそうになるが、それでもやはり、美和は疑問を押し留めることができなかった。沈黙すること自体が恐ろしい。そんな心境で、無理やり唾を飲み込んだ。

 女性は美和からふっと視線を逸らし、床に目を落とす。


「また眠らせて、夜中にどこかに連れてったよ」


 両腕の肌があわ立つのを感じて、美和はサッと後ろを振り向いた。窓の外。通りの信号が変わり、歩道を人が行き交う。あの中の。誰か一人でも、今ここに美和が閉じ込められていることに気づいてくれれば――。

 窓に駆け寄り、ガラスを叩く。


「誰か、助け――」叫び掛けたところで、それまで戸口にもたれていた女が動き、美和に駆け寄って肩を掴んで窓際から引き剥がす。


「やめて! 余計なことはしないで!」


「何すんの! 離してよ!」


 美和は身を捩って彼女を振り払おうとするが、か弱そうに見えた女性の力は意外に強く、全力で突き飛ばされ窓から遠ざけられて弾みで床に倒れこんだ。


「だめだよ、ここで叫んだって聞こえない」女は怒ったような口調で、しかし表情には悲しげな色を浮かべて言う。「お願いだから、サカキさんに逆らうようなことはしないで。あなたがいなくなったり問題を起こしたりしたら、私が後で、殴られる」


「……え?」

「言ったでしょ。私はサカキさんに言われた仕事をするだけなの。今はあなたのことを見張っているように言われているの。失敗したら、酷いお仕置きをされる。もしかしたら、殺されちゃうかもしれない」


 どんな想像をしたのか。女はぶるりと身を震わせ、両腕を抱いた。そうして、床に座りこんだ格好になっている美和を見下ろし、

「あなたも、サイなんでしょ?」

 断定する口調で言う。


「あ、あたしは……」

「分かる。サカキさんが仕事をさせるの、だいたいみんなサイだから。それも、攻撃力のないESPが中心。失敗して連れてこられるのは、みんなそういう能力のサイ」


 美和は、目を見張って目の前の女を見上げていた。

 彼女はまだどこか痛むような顔で、また大きくため息をつく。そうして。


「大丈夫だよ」口もとだけを引き上げて、薄く、笑った。「サイは貴重だから、あなたが逆らったりさえしなければ、消されたりはしない。珍しい能力の持ち主だから、まだ有用だって、そんなようなこと言ってた。ちょっと不自由だけど、ちゃんと必要なものはもらえるし、生活できるよ。逆らったり、失敗したりさえしなければね」


 そして、しゃがみ込んで、かすかな笑顔のまま右手を差し出す。

「ね、これから一緒に、ここで仕事するんだよ。仲良くしようよ。私はナナミ。あなたは?」


 そう言ったナナミの冷たい笑顔に、今度は美和が身震いする番だった。










「電話会社に照会しました。たしかに、杉本美和の携帯電話に間違いありません」


 診療所の大きなテーブルを囲んで座っている楠見と、ハルとキョウの顔を眺め渡しながら、船津刑事は深刻そうな口調で断言した。

 少し離れて自分の机に向かっていたマキが、音を立てながら椅子に寄りかかってちらりとこちらを振り返る。

 ハルとキョウは、揃って息を呑み込み、神妙に顔を見合わせた。


「これが、この建物の中に落ちていた、と?」

 そう聞いた船津に、ハルとキョウは視線を向ける。


「事務室の、中庭寄りの通用口にバッグごと落ちてたって、事務の梅田さんが」

「バッグ持って、診療所こっちに来たんだ」

「いま事務棟の中にはほかに人がいないからって。持ち主を知らないかって、聞きにきたんです」

「そしたら電話が鳴ったんだ」

「ちょうど、バッグを渡されたときに。それで、ポケットに携帯が入っているのを見つけて」

「くすみの番号だったから、出たんだ」


「つまり……」楠見は顎に手を当てて、考えながらまとめる。「杉本さんは、この建物の中にいた。そしてバッグを……持ち物を全部置いて、消えた。ちょうどそのとき、謎の大男がこの建物の中にいた――」


 聞きながら、船津は眉間のシワを深くする。

「嫌な想像ですが、その謎の大男が杉本美和を連れ去ったと考えるのが順当でしょうね」


 楠見は頷くことができなかった。だが、船津の「想像」に疑いの余地はないだろう。持ち物を置いてそのまま消えるなど――。

 苦い思いを一旦押し込めて、楠見は船津と目を合わせる。


「船津さん、例のダイヤモンド……いや、正確に言うとダイヤモンドの箱に入っていた紙かな。あれについては、何か分かりましたか? あの男は何を追っているんだろう」


 船津は小さく頷いて、少々声を低くした。

「一部が暗号化されていて、まだ解析中ですが、いま分かっているところでは、とある大手企業とその関連会社の情報のようです。事業の動向や株価、それに決算前の今年の収益見込み。これは、まだ世間には公表されていません」


 先日見た紙切れ。そしていま船津の口にしたそれらのキーワードが頭の中で結びつき、楠見は船津に向けて眉を顰めた。


「……インサイダー取引の材料、ですかね……」


 再び、今度は大きく船津が頷く。「その疑いがあります」


「インサイダーとりひきってなんだ」

 声を割り込ませたキョウに、ハルがにっこり笑って、

「悪いことだよ」と恐ろしくアバウトな説明をする。


「サイか?」

「サイもサイダーも関係ないよ。株式の問題なんだ」

「株式」

「うん。でも俺もあんまり詳しくないんだ。中学校に入ったら、学校で習うんじゃないかな」

「……大人んならないと分かんないことばっかだ」


 ムスッと口を尖らせたキョウに、ハルは困ったような表情を作った。

「ごめんね」

「ん。いいよ」


 誰かが機密書類を宝石の箱にしのばせ、宝石店を中継して他人に受け渡そうとした。それが本来の受け取り手に渡る前に、あの男が杉本美和たちを使って奪おうとした。

 ハルとキョウの報告にあったとおり、「宝石店から盗み出したのは二つ、質屋に売ったのはそのうちのひとつ」だとすれば、その時に、指示されたものを取り違えたのかもしれない。


 さらには、盗まれた宝石店も、警察に盗難届けを出すでもなく沈黙を保っている。宝石店の人間が、取引に関わっているのか。あるいはその店を介して、恒常的にその手のやり取りが行われているのかもしれない。

 そして例の男も。美和たちを利用して――ことによると、ほかにもサイを使っているかもしれない――金になる情報を奪い、売り捌いているのか。


「なんだか、話が大きくなってきたな……」

 ため息をつきながら、楠見は腕を組んで椅子の背もたれに寄りかかった。


「ともかく」船津はまた三人を見渡して。「戻って、その大男のことを調べます。常習的に犯罪行為を行っているなら、前歴が何かしら残っているかもしれない。……体の大きな男、というだけでは、ちょっと難しいですが」


「船津さん」

 楠見は腕組みのまま、視線だけ船津へと上げた。

「はい?」

「傷害事件や器物損壊はどうだろう。もしかしたら、その方面でも、あの男の前歴が見つかるかもしれません」

「……傷害、ですか」


 これまでは出ていなかった発想に、船津は一瞬首を捻ったが、少し前に楠見の身に起きたことを思い出したのかすぐに納得した顔になる。

「しかし。他人を殺傷した前歴があるとしても、超能力を使った犯行なら――」


「いえ」船津の言いたいことを察し、楠見は遮った。「超能力、と言っても、彼の能力は、手を触れずに離れた物体に影響を与えられる種類のものじゃない。直接相手やモノに打撃を与えなければならないから、目撃者や証拠は残る可能性があります。もしもそんな事件を起こしていたらの話ですが」


 船津は少しの間、顎に拳を当てて考え。

「……あの男の能力は、分かっているんですか?」


「トランサブ――」

「トラン……?」

Transubstantiationトランサブスタンチエーション――物質の性質や形状を変える能力というのがあります」


「そういうのがあるんですか」

 驚いたように唸る船津。その向かいで、キョウは目を丸くして、「それだ」という顔をした。


「何をどのように変質させられるかは、かなり個人差があります。だから一概に説明はできませんがね。あの男は、自分の体の硬度を変えた。鉄とか石とか……触れた感じでは、そんなような硬い物質に変化したように思いました」


 そうだな、とキョウに目を向けると、キョウは真面目な顔で大きく頷く。

「離れた場所にあるモノを変質させる者もいますが、あの男は――」

 言いながらまた、彼とぶつかり合いその能力を見たはずのキョウへと目をやると、やはり少年はこくりと頷いた。


「たぶん、自分の体だけだ」

「やっぱりな。しかも、体の一部分しか変えられない」

「たぶん、そうだ」


 はっきりと頷くわりに口調は心もとないが、この少年には相手の能力の質や大きさを見抜くという特殊な能力がある。相手がどういう種類のどの程度の能力者であるのかという判断にかけては、信用していいだろう。


「分かりました。そちらを頭に置いて、ちょっと調べてみます」

 戸惑い気味ながらも請合って、船津は椅子を引いた。


「お願いします。こちらは至急、杉本美和の自宅に行ってみます」

 それで彼女が見つかればひとまず一件落着だが、そんな期待は持てないだろう。しかし。「津本雅史と渡辺悟。彼らに――彼らも捕まっていなければですが、接触して話が聞ければ、何か手掛かりが掴めるかもしれません」


 言いながら楠見も立ち上がろうとしたところで、一瞬シンとなった空間を、唐突に震わせるような音が鳴り出す。テーブルを囲む全員の視線が、テーブルの中央に置かれていた携帯電話に集まった。


 楠見と船津は身を乗り出し。ハルとキョウはテーブルに乗りかかるようにして。携帯電話の着信表示を覗き込み、それから一同、顔を見合わせる。


 電話に表示された発信者の登録名は、「マサシ」だった。

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