2.決して目に映らない。知らない者には知覚できない
キャンパスから雪の塊が完全に姿を消す季節がやってくるのは、広いアメリカの中でも比較的遅いほうだったと思う。
その時期になるといつも、正門と研究棟の間の一角に、細かい
その花の季節がやってきたのを視界の端で確認しながら、楠見はしばらくぶりに超心理学研究室へと足を運ぶ。ひと気のない静かな研究室。ウィルソン教授の部屋の戸をノックすると、ちょうどドアの近くにいたらしい老教授はすぐに内側からドアを開けて楠見を迎えた。
「やあクスミ。しばらくぶりだね」
「ええ。なかなか来られず失礼しました。論文が、かなり大詰めで。ここのところは家に帰って寝る暇もないくらいだったもので」
笑顔でそんな文句がすんなりと口から出てきたのは、楠見自身が自分に対してずっとしてきた言い訳だったからだろう。
忙しかったのは事実だが、隣の棟の研究室にちょっと様子を見にくる暇さえなかったわけではない。ただ、足が遠のいていたのだ。
じわじわと瓦解していく研究室。日毎に活気をなくすメンバー。黙りこくって物思いに耽っている時間が長くなったウィルソン教授。教授や大学、支援者、そして誰ともないほかの何かに対する、小さな怨嗟の声。すべてを放り出して消えたマシューへの恨み言――。それらを見たり聞いたりするのが憂鬱で。
「他人が十年以上もかける課程を、その半分以下でやっちまおうって言うんだ。そりゃあ大忙しだろうさ」
楠見の本音は分かっているのかもしれないが、ウィルソンはそう答えてさっぱりと笑う。その笑顔に屈託は見られなかったが、教授はほんの少し見ないうちになんだか老け込んだように見えて、楠見は言葉に詰まって。
「その……帰国の日取りが決まったので、ご報告と。それからこれまでのお礼をと思って」
「おお」と老博士は大げさに目を見開いた。
それから、「そうかね。そうか……」と考えるように室内へと目を逸らし。
「きみも、いなくなるんだなあ」
その口調には寂しい色合いが混ざっていたが、ウィルソンはすぐに表情を明るくする。
「いや。めでたい理由で人が去るのは、喜ばないとな。どうだい、コーヒーでも? 研究室のメンバーは、ここのところ移転先探しや就職活動で出払っててな、お茶にも付き合ってくれんのだよ」
「いただきます」
微笑むと、ウィルソンはほっとしたような息を漏らした。
ウィルソンは、研究室の整理をしていたようだった。
棚のいくつかは空になり、大量の本が床にロープをかけて積み上げられ、壁に貼られていた予定表やらなにやらの様々な紙が剥がされて雑然と隅にまとめられていた。
前に来たときにはまだそこここに置かれていた研究者たちの私物も、かなり減っていて、この部屋に恒常的にいる者はもうほとんどいないのだろうと楠見は想像した。
あの事件以来、訪ねてくるごとにウィルソンは楠見に「マシューの行く先を知らないか」と訊いた。それは彼の居所そのものを本気で知りたがっているというよりも、父親が息子の安否を気遣うような雰囲気で、どこか痛々しくて。
楠見にさえマシューの居所を明かさないマクレーンの賢明さに、舌を巻く思いだった。知っていれば、この博士にだけはつい言ってしまっていたかもしれない。
「散らかっているだろう?」
ぼんやりと本棚や机に視線をうろつかせていた楠見に、ウィルソンは苦笑混じりに言う。左右の手にカップを持って、ひとつを楠見の目の前に。もうひとつに口をつけながら、緩慢な動きで向かいの椅子に腰を下ろして。
「ここを引き払う準備をしなけりゃならないんだがね。何十年もいたものだからな。物が溜まってしようがない。進まなくて困っているんだよ」
「それほど急ぐ必要はないでしょう? 夏休みまではまだ少しあるし」
コーヒーを一口飲んでそう言った楠見に、ウィルソンは肩を竦めて。
「愛着があってねえ。業者なんかに頼んで慌しく撤去させちまえば余計なことを考えたりせずに済むんだろうが、そんな気分にもなれないんだよ」
ぐるりと室内を見渡して、ウィルソンはカップをテーブルに置いた。
「こういう気持ちってのは、日本人のほうが強いもんなんじゃないかね? 物にも魂があると見做したり、祭ったり、挙句は物が神性を持って人間を祟ったり? 死者の霊だとか幽霊・妖怪だとかにしてもそうだが、心霊現象全般に、欧米にも存在はするが日本のほうが幅広くて奥が深いように思える」
少々この老博士の精神状態が心配になりながら、楠見は曖昧な笑いを浮かべる。
「多神教の国ですからね。そうはいっても、基本は『だから物を大事にしましょう』って教えですよ。子供の頃にね。大人が子供に、『そんなに乱暴に扱ったら、物が痛がるでしょう?』って。言う大人だって本気じゃないけれど、言っている間にそんな気もしてきて、あんまり粗雑には扱えなくなりますね」
「ふむ。きみはリアリストだな」
「俺だって、自動販売機を蹴飛ばしている子供を見かけたら、そう注意しますよ。蹴ったりしたら内部の電気配線の接触がどうのなんて説明もできないし、手っ取り早いし。でも、物にも気持ちがあるだとか、死んだ者の魂が存在するだとか、そういうのは俺はあんまり……」
苦笑気味に言いながら、楠見はウィルソンが面白そうな顔で楠見を見つめているのに気づいた。
「……何かおかしなことを言いましたか?」
「きみは、不思議な男だな、クスミ」
「……え?」
ぽつりと言ったウィルソンに、楠見は首を傾げる。
このドクターとも出会ってから二、三年にはなるが、そういう言葉で評されたのは初めてだったので、少々戸惑う。
「私はな、クスミ。この研究を志してやってくる者に、『疑ってかかれ』と最初に指導する。あるかないか、予断を持つな。決め付けずに、常にニュートラルに。実験の結果をありのままに捉えろとね。まあ大学で学問としてこの研究をしようという者たちだから、そこはすぐに理解するよ」
「……はい」
「けれど、興味本位で見学にやってくる者たちの思想までは矯正できない。外部からここへ遊びに来る者たちは、大概どちらかだね。つまり、
そうなのだろう、と楠見も想像する。
頷いた楠見を見て、ウィルソンは満足そうに笑った。そして。
「けれどな、クスミ。この二、三年、熱心に何度もここに足を運んでくるきみから、それなのに私はそう言った意見表明を聞いたことがない。きみが心霊現象は信じていないというのを今日初めて聞いたがね。結局のところきみは超能力が存在すると思っているのかいないのか、なぜこの研究に興味を持っているのか。きみは一言も私に語ったことがないんだよ」
「そう……だったでしょうか」
「クスミ」
呼びかけて両手を組みテーブルの上に置き、ウィルソンは楠見に向かって上半身を乗り出した。
「きみは、知っているんじゃないかね? サイが本当に、あるということを」
それは唐突な。単刀直入な。そして、楠見の核心に迫る問いかけだった。
その問いがこの老博士から抜き打ち的に発せられたことには内心で戸惑いつつも、だがどうにかそれまでと同じ質の笑みを楠見は保つ。
「さあ……どうでしょうね。俺には」
軽く首を傾げた楠見を、ウィルソンはしばらく目を眇めるようにして見つめていたが、少ししてフッと口もとを綻ばせた。
「昔。――そう、もう二十年も前になるか」
またも唐突に、ウィルソンは話題を変えて両手をテーブルに載せたまま宙を仰いだ。
「あるサイ研究者と出会った。クスミ、きみと同じ、日本人のな」
日本人の、サイ研究者?
不意に脳裏を掠めるものがあって、楠見は息を呑んだ。
「スターゲイト・プロジェクトやらユリ・ゲラー騒動やらの終息で超能力ブームも下火になって、世の中はそれより
ウィルソンは、そこにその時代が見えてでもいるかのように、宙を見つめたまま。
「彼は日本の学界にいられない事情ができて、日本を出てきたと。そうして旅をしながらサイ研究の現場を見物し歩いている、というようなことを言っていたな。五十前後と言っていたと思うが、さほど年齢の変わらない私から見ても、酷く老けて見えたなあ。いや、不思議な人物でね。滞在期間は半年にも満たなかったが、実験や研究に対してかなりの示唆を与えてくれた。中でも不思議だったのがね」
そう言って、宙へとやられていた視線が楠見へと戻ってくる。
「連れてくるんだよ。サイを」
「……サイを?」
「ああ。彼がどこからか見つけて、実験への協力を取り付け研究室に連れてくる被験者は、軒並み成績が良かったんだ。と言っても、ほかの者よりも多少、という程度ではあるけれどね」
ウィルソンは、そこでコーヒーを一口飲んで喉を潤すと、
「私は彼と、どういうわけだか気が合ってね。研究室のほかの者よりも少しばかり親しくなった。それで酒を飲み交わしながら、ふと聞いてみたんだよ。どうやって彼らを見つけてくるのかってな。そうしたら」
引き込まれるように、楠見はウィルソンの茶色い瞳を見つめていた。
ウィルソンは、人知れぬ悪戯を思いついた子供のように、小さく笑う。
「自分には、『サイ』が見えるのだと」
「サイが、見える――?」
「ああ」
わずかに身を乗り出した体勢で、ウィルソン博士は深く頷く。
「サイの能力を持つ者が分かるのだと。そういう能力を持った人間が、いるのだとな」
置かれている状況も。研究室に残された作業も。これから先のことも。そういった雑多で気がかりなことをすべて忘れたように、ウィルソンは目を輝かせて。
「我々の常識では処理しきれない。常に固定された現実の枠の中で物を見ている間は、決して目に映らない。それを知らない者には知覚できない。だが、『サイ』はあるのだと」
けれど、と、少年のような瞳をした老博士は声を落とす。
「万人に向けてそれを主張しようとすれば、必ずその者は失脚するのだそうだ。最初、私はそれを、否定派の反論や揚げ足取りであるとか、『常識』を振りかざしサイを娯楽や妄言だとしか認識できないマスコミ、世論であるだとか、異端に対する人類の忌避感情だとかそういう類のものだろうと思っていた。
だが、彼に言わせるとそうではない。それ自体が超自然的な力で、サイは封印されているのだそうだ。過去にその存在を証明しようとした者は、みな何らかの理由でもって封じられた。――自分もまた、そうだったのだ、と。
しかし、すべての人間がだからといって彼らを見放すことはできない。それを知る自分こそは、彼らの真に生きるべき道を探し、守る役割を持っているのだ。そのために研究を続けているのだと、彼は言うんだ」
楠見はウィルソンの瞳を真っ直ぐに見つめたまま、身じろぎを忘れていた。
と――。彼はそんな楠見に向けて、声を上げて笑い出す。
「はっはっはっ。……クスミ。彼からこの話を聞いたときの私も、まさにそんな顔をしていただろうよ」
「……ドクター……?」
「はははっ。悪かったね。冗談だよ。彼の――ケイゾウ・ナルミヤのね。彼はあの時、今の私と同じように、手を打って笑っていたよ」
(ナルミヤ……?)
「けれどね。冗談めかして言ったそれが、本当なのかもしれないと。あれから折に触れ、思うんだ。今回のマシューの実験なんか見るとね――私は今度こそ、本当にサイが証明されるかもしれないと思った。ところがどうだい」
ウィルソンはおどけるように両手の平を空へと向けた。
「否定派だとか、支援者だとか、その他の見学者だとか、細工をやらかした犯人すらもな。そいつらはみんなこの件にとっちゃ、単なる役者のひとりだ。脚本を書き我々を踊らせたのは、別の何か――ナルミヤの言う『超自然的な力』が働いて、また今回も駄目だったんだよ。どうにも私には、そうとしか思えないね」
博士は笑いを納め、椅子に深くもたれかかると
しばらくそのまま、室内に沈黙が降りる。
ウィルソンがカップを取り上げ、コーヒーを一口飲んでまたテーブルにカップを戻す。その音だけが、時の流れを現実のものにしていた。
やがて。ウィルソンは目を上げると。
「クスミ」
「……はい」
「私はそれからずっと、サイを探している。知らない者の目には映ることすらない、けれども確実にある、不思議な力――見てみたいじゃあないか」
「……はい」
「結局、私には見つけることができなかった。……けれど」
ぼんやりと。だがしかし、楠見の後ろにあるものまでを見透かすような視線。
「きみは、それを知っている人間なのではないかね?」
楠見はウィルソンの視線から逃れることはできなかった。
どんな返事を返そうと。楠見の口から出るのが否定の言葉であろうと肯定であろうと。ウィルソンは、事実を見極めるだろう。
だから、否定も肯定もせずに。
ただ、ウィルソンがそこになんらかの結論を掴み取るのを、楠見は待つ。
しばし視線を対峙させ、それからウィルソンは小さく息をついた。
「――まあ、いいさ。ただひとつだけ、教えてくれ」至極、真面目な顔で。「マシューとキャシーは、無事でいるんだろうね?」
「はい」
楠見はウィルソンの目を見つめて、はっきりと答えた。
「二人、一緒かね」
「はい」
「彼らの行くべきところが、彼らには分かっているんだね」
「はい」
「そうか。……それなら、いいさ」
フッと、老教授は頬を緩める。そうして。
「クスミ。我がままを承知で、きみに頼みがある。去り行く老兵からの、最後の頼みだよ」
「なんでしょう」
首を傾げた楠見に、ウィルソンは手を組んで身を乗り出した。
「あの実験の検証文を、まとめてくれないか。一度は断っておきながら……それにきみの立場も顧みず、勝手な願いだとは分かっているが」
思いがけない願い出に、楠見は目を見張る。
「起きたことを――彼らに出来たことと、出来なかったことを、ありのままに。実験に不正はなかった。マシューは真理を追い求め、誠実にそれを証明しようとした。そのことを、どこかにはっきりと残しておきたいんだよ。もしも彼がまたこの研究に戻りたいと願ったときのために。あるいはほかに誰か、我々よりももっと真実に近づける者が現れたときに、その礎のひとつになるようにね」
言って、ウィルソンは瞳を細める。
「私は無理だった。けれど、後に続く誰かが、いつかそれを見つけるかもしれない」
楠見にとってそれは、破滅への誘惑かもしれなかった。その行為は、禁忌とされたものだった。
けれど、楠見には迷いはなかった。
じっと見守るウィルソン教授に向けて、楠見は深く頷く。
「やらせてください」
老博士は、何かから身を解き放たれたような清々しい笑顔で、ゆっくりと大きく頷いた。
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