3.その時まで、元気で
空港は、大きな荷物を抱えた人々で普段以上の混雑ぶりを呈していた。なにもこんな日に皆、国境を股にかけた移動をしなくたっていいじゃないか。と、ここが済んだら仕事に戻ろうと思っている自分を棚に上げて、楠見は思う。
「なにもこんな日に行かなくたって」
目の前の、まさにこれから太平洋の向こう側へ行こうとしている人物に呆れ顔で聞くと、
「悪かったよ、『こんな日』に送りに来てもらっちゃってさ」
美和は楠見とその両側に立っている二人の子供に交互に目をやり、気まずそうに肩を竦めた。
「俺たちは構わないけど」
両脇で、ハルとキョウも頷く。
「だけど、なんだって大晦日なんかに? こんなに急で、大丈夫かい?」
「この先一週間で、この便しか空いてなかったんだもん。気持ちが固まっているうちに行動しなきゃ。これ逃したら、なんだか気が変わっちゃいそうでさ。それに、恥ずかしいんだけど――」
そう言って、美和は苦笑気味に視線を落とした。
「あいつに会ったら、また楽なほうに流されちゃうような気がして」
「……何も言わずに行くのかい?」
「うん」
「そうか。……まあ、それがいいだろうな」
二度も「悪戯」をして警察に呼ばれたことで、雅史は両親から、大学の冬休みが明けるまで外出を禁じられているらしい。彼のいない間に住処を引き払い単身渡米する決意をしたと、美和から聞かされたのは、つい二日前。サカキの一件で会った時のことだった。
飛行機のチケットの取り方を教えてくれと言うので説明したが、翌日に「パスポートが間に合ったので明日発つ」と連絡を受けたのは寝耳に水だった。
「だけど、気をつけろよ。日本と違って向こうはな、年末年始はがっつり休むぞ。田舎なんて店のひとつもやってないからな? 先方には、連絡はついているんだよな?」
「うん。エルマって言うんだ。何年ぶりかで連絡したんだけど、大歓迎って言ってくれて。大きな牧場をやっているんだって。少し英語や向こうの暮らしに慣れるまでは、彼女の家の仕事を手伝わせてもらうんだ」
そう言って笑った美和は、最初に会った頃とはまったくの別人のような晴れ晴れとした顔をしていた。それで、楠見は安堵の息をつく。
「そうか。……頑張れ」
「うん」
「ああ、それから。これ……」
言いながら、楠見はポケットから分厚い封筒を取り出して美和に手渡す。美和はちらりとその中身を改めて、慌ててしまい、顔を上げた。
「ちょっと……これっ?」
「報酬だよ。仕事してくれたからね。きみのおかげで大悪党を捕まえることができたんだ」
信じられないというように目を大きく見開いている美和に、楠見は笑う。
「奴からね、芋づる式にかなり広い範囲の事件が解決しそうだよ。船津刑事も喜んでた。奴の仕事に協力させられていたサイを解放することもできたしな。あのナナミって子へのきみの説得、なかなか良かったよ」
さらに破願すると、美和はバツが悪そうに口を曲げる。
「あれは……受け売りだから」
「ん? もしかして、俺の? どうりで素晴らしい演説だったわけだ。胸が震えたよ」
「杉本さん、これは俺たちからです」ハルが小さな紙袋を差し出した。
「クリームなんだ」真面目な顔で、キョウ。
「ハンドクリーム。ベルツリーの鈴音さんにあげたら、すごくいいって言ってたから」
「アメリカはかんそうするんだ」
「えっ、いいの? ありがとう……」
「おい! お前たち! 人が誉められているところでさらりと話を変えるな!」
「別に今のは楠見が誉められたんじゃないよね」
「んー。違うな」
美和はクスッと笑って、けれどすぐに困ったような顔になった。
「だけど、お金は……これは貰いすぎじゃない?」
「超特殊能力を使って難しい問題を解決したんだ。それが適正な報酬だよ」
両手で持った封筒に、美和はどこか感慨深げに目を落とす。それに目をやって、楠見は微笑んだ。
「きみの能力を正しく使って得たお金だ。大事に使ってくれよ」
「ありがとう……ほんとに。いろいろ」
そう言って美和は、ハッと何かに気づいたように顔を上げた。
「リクエストに、まだ答えてない!」
「ああ……」楠見は一瞬考え、改めて笑いを浮かべる。「凱旋リサイタルを楽しみにしているからな。特等席で聴かせてくれよ」
「分かった」美和は頷く。「『アメージング・グレース』。それに『スウィング・ロウ』もつけるよ。あれ、好きなんでしょ?」
「ああ」
「練習してくるよ」
「ああ。頑張れよ。元気でな」
もうひとつ大きく頷いて、美和は、これまでで一番眩しい笑顔を見せた。
喫茶ベルツリーの大掃除を手伝うのだというハルとキョウを送り届け、楠見は学校に戻って仕事を片付けていた。
学園事務棟二階の会議室。廊下の先の自室から作業の音が聞こえてくるのを耳に入れながら書類に向かっていた楠見だったが、音が止んだのに気づき視線を上げる。
「先生――」業者の若い男が、開け放ったドアを軽くノックしながら姿を見せた。「やっぱもう少しかかりそうですわ。夜になっちゃうかも」
冬だというのに半そでのTシャツから何故か日に焼けた腕を覗かせた、元気な若い職人は、少々申し訳なさそうな顔をする。
「もう一息なんっすけどねえ。お待たせしてすんません」
「いや」軽く頭を下げた男に、楠見のほうこそ詫びるように両手の平を向けた。「こっちこそ、大晦日だってのに申し訳ない。俺のほうは、まだしばらくは構わないけれど……」
「あー。だったらやっちゃいますわ。正月の仕事始めは綺麗な部屋で迎えたほうがいいでしょ? この状態で年越しとか、なんか落ち着かないですもんね」
「助かるけど……きみはいいの?」
「あー。こっち、ひとりもんなんで。部屋もずっと散らかりっぱなしなんで。これから大掃除とか絶対しないから、問題ないっす」
大晦日でも建物の修理をしてくれる業者がいる。日本は素晴らしい国だ。
執務室に戻っていく職人を見送りぼんやりとそんなことを考えながら、書類に再び目を落としていると。
またドアを軽く叩く音がした。
「先生! あらー。やっぱり今日もいらしたんですねぇ!」
「松浦さんこそ――どうしたんですか?」
両手に手に大きな荷物を持って入ってきたのは、事務員の松浦だった。
「こっちは買い物の途中ですよ。近所ですからね。もしかしたらいらっしゃるかと思って寄ってみたんですけどね。お部屋、どうされたんですか? こんな日に、改装?」
「いや、ちょっとした修繕ですよ。たまたま今日になっただけで……」
曖昧に笑って、楠見は言葉を濁した。松浦は深く気に留める素振りもなく、
「先生のことだから、冬休みも休みなしでお仕事されてるんじゃないかと思って。来てみて良かったわぁ」
「明日くらいはさすがに休みますよ」
眉を曲げて抗議の声を上げる楠見の目の前に、松浦は重箱でも入っているかのような風呂敷包みを置いた。
「これ。お子さんたちと一緒にどうぞ。娘がね、ケーキとかお菓子とか、いっぱい作ったんで。日持ちもしますからね。お正月いっぱいかけて食べてくださいな」
「ああ……どうもありがとうございます」
ハルもキョウも、大喜びだろう。楠見は素直に感謝して頭を下げた。
と、風呂敷包みの隣に、松浦は一通の手紙を置く。
「受付に届いてましたよ。先生に、お手紙」
楠見はそれを受け取って見る。エアメールだ。あて先欄は、大胆にも「Tokyo,Japan RYOKUNAN Univ. R.Kusumi」のみ。
「よくこんなんで届きましたね……」首を捻りながら、裏を返す。
差出人の名前は「Maron Miller」。知らない名前だ。
「珍しいですね。大学や会社じゃなくて個人名でのお手紙って。お友達ですか?」
「……さあ」
ペーパーナイフを取り封を開け出した楠見に、松浦は「それじゃ」と声を掛ける。
「ああ。どうもありがとうございました」
「どういたしまして。お仕事もほどほどにして、お正月くらい家族サービスをしてあげてくださいね」
「いえ、ですから……親子じゃないんですけどね……」
松浦は取り合わず、「良いお年を」と呑気な声を上げて帰っていった。
口を切った封筒から手紙を取り出して、楠見は目を見張る。
Dear Kusumi,――
その文字に、薄っすらと見覚えがあった。
――親愛なるクスミへ。元気でいるか?
こちらは今、南部の田舎の小さな町で、「彼女」と暮らしている。
あれから三回ほど住処と名前を変えたが、今の場所で何事もなく一年半。
今月になってやっと、「ミスター」からきみに手紙を書くお許しが出た。
教会の学校で子供たちに、俺は数学と物理と語学を。彼女は音楽を教えて生活している。
数学はまだしも、物理なんて信じられるかい?
わけの分からない子供たちに、わけの分からない学問を教えるなんて。
結果の出ない実験を何千回も重ねるくらいの苦行だよ。
一方「彼女」は、大好きな歌を毎日歌ってとても楽しそうだ。不公平だと思う。
だがまあ、おおむね楽しく、幸せにやっている。
そのうちもう何年かしたら、きみに会う許しも出るんじゃないかと期待しているんだ。
その時まで、元気で。
「
送り手の居所は分からない、一方通行の。けれども――。
(キャシーと、幸せに暮らしているんだな)
手紙を大事に封筒にしまい、楠見は思った。
彼らはきっと、彼らのいるべきところにいるのだろう。
それがどこであれ。マシューとキャシーがともに笑って暮らせる場所が。
キャシーの言っていた、「本当の場所」なのだ。
(まずいな……)
事務棟を出て足早に駐車場へ向かう。
なんとしても年内に終わらせるのだと職人青年が頑張ってくれたのは有り難いが、すっかり帰りが遅くなってしまった。
今夜はベルツリーで年越しパーティをして、日付の変わる頃にハルとキョウを近所の神社の初詣に連れて行く約束をしていたのだ。
年越しにはどうにか間に合うが、かなり待ちくたびれているに違いない。
駐車場にぽつりと一台だけ停まっている愛車が目に入ったときだった。
不意に他人の気配を感じ、楠見は足を止める。
暗闇に同化している校舎の脇。木立の木に紛れるようにして、黒いロングコートを着た男が跪き佇んでいた。男は楠見の視線を受けて、恭しく頭を下げる。
「若。ご無沙汰しておりました――」
一瞬目を見張り、それから楠見は大きく息をついて、ごく小さな笑みを浮かべる。
「お久しぶりです。ドクター・デイビス」
「……若。その呼び名はもう――」
「ああ。失礼しました。――
「どうぞ、お呼び捨てを。それに、私に敬語は不要です」
楠見は思わず苦笑する。
「相変わらずだ」
「若におかれましても、お変わりなく」
「おかげさまで」
片膝を地についたまま、入江は顔を上げる。
「『会長』からのお言伝です。例の少女の保護、承諾したと」
楠見はじっと黒い男の目を見つめ、わずかに間を置いて。
「よろしくお願いします。ああ。お願いしたいのは保護だけだ。サカキやその関係者からの接触がないように見守るだけです」
「承っておきましょう」
慇懃に頭を下げて、「それから」と入江はまた顔を上げる。
「サカキという男の始末も、任せるように、と」
一瞬言葉に詰まり、楠見は眉を顰める。
「……あの男にはもうサイの能力はない。一般人と同じだ。警察に任せればいい」
「そうは参りません。あの男は個人で動いていたようですが、おそらくいずれかのサイ組織との繋がりがあります。それに、どのような刑を受けることになるかは分かりませんが、ゆくゆく出所してきたとなれば若の身辺に害をもたらさないとも限りません」
「俺は自分で気をつける。俺のことでは、組織の力は借りません」
つい口調を荒げる。
入江は一瞬、楠見と視線を対峙させ、また小さく一礼し、
「ご意向はお伝えします。ただ、その後のことは『会長』のご判断です」
子供の我がままを上辺だけ合わせて受け流すような切り上げ方に、楠見はますます不快に眉を寄せて。
「俺は、……こういうやり方は好きじゃない」
フッと、入江は控えめに笑った。
「本当にお変わりない。――あなたは、甘過ぎます」
「……すみませんね。あなた方組織の連中とは、意見が合わなくて」
「ですが一同、あなたのお帰りをお待ち申し上げております」
「どうだか」
「本当です」
「だったらまず根本からそのやり方を変えることだな。そういう姿勢でいる限り、俺は戻らない」
「それでも、完全に離れることもおできにならない」
ぐっと、楠見は息を詰める。
言い返す言葉が見つからず、奥歯を噛み締める。
(俺に、もっと力があったら――)
組織や他人の手を借りず、自分の力だけで周囲に起きるサイの事件を解決できたら。目の前にいるサイを。自分自身の力で救うことができたら――。
そんな楠見の内心を察したように、入江はほんのわずかに柔らかい口調で。
「そういうつもりはありません。ただ、あなたはこの仕事をおやめになることはできない。そうである限り、組織にお戻りになり、『会長』のご意思を継いでいただくのが最善かと」
小さな間を置いて、入江は地面に跪いたまま心持ち顔を伏せる。
「『二年前の事件』のこと。お怒りが解けないのは理解しております。けれどどうか、大人におなりください」
入江は立ち上がると、深く頭を下げた。
「……出過ぎた申しよう、お許しください。今夜はこれで、失礼いたします。ご意向、すべて承りました。ご健勝に。良いお年をお迎えください」
それだけ言って。
すっと、闇に消える。
残された楠見は、わだかまる気持ちにまだ苦く奥歯を噛み締めながら、目を閉じ、大きく息をついた。
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