エピローグ

その場所へと、連れて行くから

 看板の灯りは、落ちている。

 ベルツリーのドアを遠慮がちに開けると、中から即座に、


「遅いよ!」

 と声が掛かった。


 カウンターの端、レジスペースの近くでしゃがみ込んで鈴音とともに何やら探している様子だったマキが、腰を上げる。


「悪い。部屋の改修作業がなかなか終わらなくてさ……」

 マキに答え、鈴音に向かって小さく頭を下げて、楠見はそんな言い訳をする。


 鈴音は〈お疲れさま〉というように、にっこりと微笑んだ。


「まったくもう。何やってたんだかねえ、大晦日に。二人とも待ちくたびれちゃって……」

 呆れた口調でマキがそう言って視線をやった先で。


 皮張りのゆったりとしたソファに沈み込むようにして、ハルが。そのハルの肩に頭を持たせて、キョウが。瞳を閉じて、小さく寝息を立てている。


「……眠っちまったか……」

 大きなため息をつきながら、楠見は肩を落とした。


「ったく何時だと思ってるんだか。子供はとっくに寝る時間だよ」

「けど……夜更かしして初詣に行くんだって言ってたのは、この子らだぞ?」


 不満に眉を寄せて言う楠見のほうを見向きもせずに、マキは鈴音とともに何かを探しながら、

「大晦日だろうがお正月だろうが、子供が寝る時間は子供が寝る時間なの。ちょっと早めに帰ってきて、一緒にそばでも食ってやりゃいいのにさぁ。鈴音さんの特性そば、美味かったんだよ?」


 独り言でも言うみたいな口調で一方的に言って探し物に戻るマキの横で、鈴音が苦笑いを浮かべて〈楠見の分も残してあるから〉というようにキッチンと楠見を交互に示した。


「お! これ……」

 屈んでいたマキが、何かを見つけたように声を上げる。すっきりしたように、鈴音へと視線を送って。

「あったあった。これですね」


 こちらも嬉しそうに頷いた鈴音に微笑んで、マキはオーディオセットに向かうと、手に持っていた一枚のCDを差込口に入れた。


 すぐに、スピーカーから静かに流れ出した曲は。


――Swing Lowスウィング・ロウ, Sweet Chariotスウィート・チャリオット――


「いやあ。ハルとキョウが、聞きたいって言い出してさ。鈴音さんがたしかあったはずだって言うから、探してて。良かった良かった、やっと見つけた……って、眠っちゃったけどね」


 どこか聞き覚えのある、深みのあるその音色に耳を傾けながら、楠見は、

「なんだ。言ってくれれば、うちにも一枚あった」


「え! なんでっ? なんで二人とも持ってんの? どこの家にも一枚あるようなもんか? これが?」


 怪訝そうに言うマキの声を流して、楠見はその歌声に聴き入っていた。

 そうしながら、二人の子供の向かいの席へと腰を下ろす。


――優しく揺れよ、愛しのチャリオット


――私を迎えにやってきて、

――故郷へと運んでおくれ


 子供たちは、小さく静かに、気持ちの良さそうな息を立てて。

 音楽は、子供たちの眠りを包む子守唄のように、揺りかごのように、優しく空間を満たす。


 楠見は思う。

 自分に、この子たちのこの安らかな眠りを守ることができるのだろうかと。


――ヨルダン河の向こうで、何を見たと思う?

――天使の群れがついてきて、私を送り届けてくれるんだ


――優しく揺れよ、愛しのチャリオット


 彼らを本当の場所に連れて行ってくれる、魔法の馬車。


――私を迎えにやってきて、


 その声が、あの日のキャシーの言葉と重なる。


――「本当の場所」へと運んでおくれ


 本当の場所。誰もが安らげる、その人にとっての唯一の場所。

 必要とされて、認められ感謝されて、大切にされて。なんの心配もなく笑って暮らせる、安らぎの地。


 そこへと俺は、この子たちを連れて行くことが、できるだろうか?


 誰かを。ほんのわずかな、守りたい誰かを。

 守る力があるだろうか。――いつか、持てるだろうか。


 取り止めのない思考を持て余したまま、ぼんやりと、子供たちの寝顔を見守っていると。


 視線に気づいたのか、ハルがぱちりと目を開けた。


「あ! 楠見!」

「……ああ、ハル……。おはよう……」

「ずるいよ! 眠ってるときに帰ってくるなんて!」


 欠伸混じりにハルが抗議する。

 何を責められているのかよく分からないまま、楠見はとりあえず、


「悪い。遅くなった」

 そう謝っていた。


 キョウはともかくハルまで居眠りなんて珍しいので、無防備に寝顔を晒したことを拗ねているのだろうか? ハルはバツの悪い表情で。

「あんまり遅いから。ちょっとうたた寝しちゃったんだよ。本気で寝てたわけじゃないよ。年越しで、初詣に行くんだろ。大丈夫。もう眠くない。いま何時?」


 言いながら、身に持たれかかっているキョウの肩をそっと揺する。


「ん? ああ……もうすぐ十二時になるかな」

「十二時! キョウには未知の世界だ。存在しない時間帯だ!」


 妙な言い回しで叫んで、それから優しく弟に目をやって。

「キョウ。楠見、やっと帰ってきたよ。もうすぐ年が明けるよ。初詣に行く時間だよ」


 肩を緩く揺さぶられながら、キョウは目を閉じたまま「んー」と小さく声をあげた。


「キョウ。除夜の鐘、始まっちゃうよ?」

「んー。……じょやの」


 寝言みたいに言いながら、ますます深くハルに持たれかかるキョウ。

 肩に手を置いていたハルは、諦めたように視線を宙にやった。


「駄目だ。無理だ。もう起きない」


 顔を歪めて大きなため息をついたハルに、楠見は笑いかけた。

「まあ、いいだろう? 今回は朝になってからでもさ。来年だって再来年だって、年越し初詣には行ける」


 仕方ない表情で視線を向けたハルに。そうして気持ち良さそうな寝息を立てているキョウに。

 楠見は大きく頷いた。


「約束するよ。きっと、連れて行くから」


――優しく揺れよ、愛しのチャリオット


 スピーカーから繰り返し流れるその音に被さって。どこか遠くから、新しい年を迎える鐘の音が聞こえてきていた。

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スウィング・ロウ 潮見若真 @shiomi

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