第1章 やさしく揺れよ、愛しのほろ馬車

1.「サイの犯罪」は、止めないとならないからな

 一九二〇年代。ドイツの超心理学者、カール・エルンスト・フェルツ博士は、人間の持つ通常の感覚を二十二に分類し、さらに一部の人間にだけ発現する二十三番目の感覚の存在を主張した。

 現在、「第六感」という言葉で表現されるものに近いそれに、博士は、「超常能力」を意味する「PSIサイ」にちなんでギリシャ文字二十三番目の「Ψpsi」を当てた。


 フェルツ博士の研究は、超心理パラサイコロジー学会に大きな影響を与え、従来の科学では解明できない現象を説明するこの学説は当時の学会を大きく賑わせた。が、博士はその後、オカルトめいた超心理現象に傾倒。「科学」の域を大きく踏み外したとして学会から追われ、次第に彼の論文は忘れられていった。


 現代のPSI研究に関わる者たちの間でも、このフェルツ博士の学説が想起されることは、ほとんどない。ごく一部の、それがであることを知る人間たち以外には。




*  *  *

 



 師走。夕暮れ時の私鉄ターミナル駅に近い商店街は、買い物客で賑わっていた。


 商店から聞こえる日常色のタイムセールの呼び声。そこに混じって、店々から流れてくるクリスマスソングのメロディが絶妙な和音を奏で、クリスマスケーキの予約を呼びかける声や歳末福引大会のガラガラ抽選器の音が不思議に調和して道行く人々の足取りを高揚させる。


 日暮れを過ぎ、街路樹や商店のウィンドウごとに赤や緑、青、白の電飾が瞬き始めて。上空の冷たい風さえも買い物客の熱気に気圧されたかのように、街灯に吊るされた「Merry Christmas」のタペストリーを遠慮がちに揺らすのみ。


 年末の東京の、この、どこか浮き足立ったような雰囲気は、嫌いじゃない。


 楠見くすみはいくつかの商店と銀行、郵便局を巡って手早く用事を済ませ、紙袋を小脇に抱えて駅方面へと足を速めた。

 ロータリーの雑踏。

 ストリート・ミュージシャンの歌声が、遠くはない場所から届く。その声を聞くともなしに耳に入れつつ、足を進めながらロータリーを見回すと。


 探し求めた少年の姿は、「ここで待て」と言って別れた場所とはバスターミナルを挟んで正反対の場所に見つかった。


「キョウ――」


 少年は、名を呼びかけながら近寄ってきた楠見を振り返りもせずに、歩道の端でガードレールに手を載せ目を丸くして一点を凝視している。


「悪かったな、待たせて」

 楠見の胸あたりまでの背丈しかない少年に、屈んで横から覗き込むようにして声を掛ける。反応が、ない。

 すぐに戻るからここで待て。そう言い置いて別れてから、十五分。思いのほか待たされたことに機嫌を悪くして、だんまりを決め込んでいるのか? 一瞬考えたが、少年の視線を目で追って、そういうわけではないことに気づいた。


「おい、キョウ」


 肩に手を置いてもう一度呼ぶと、キョウはふっと金縛りから解けたように楠見を振り返って、左手で通りの向こうを指差した。

「くすみ。あれ、なんだ」


 向かいのビルのエントランス脇に、人の身長よりも少し大きなサンタクロースの人形が立っていた。赤と白のお馴染みの衣装に身を包んだそれは、電子音の「ジングルベル」に合わせて腰やら腕やらをグネグネと動かしながら一定のパターンで軽快に踊る。

 ネズミのおもちゃに目を奪われる猫のような少年の反応に、楠見は小さく笑った。


 彼は、都会のクリスマスを――というよりも、「クリスマス」そのものを、初めて見るのだろう。


「サンタクロースだよ」

「サンタクロース」

「人形のな」

「けど、動いてる」

「動くようにできてる人形だ」


 幼くも端整な顔に、どこか釈然としない様子をにじませて眉を寄せながら、キョウはまたサンタの人形に視線を移す。

「サンタクロースってなんだ」


「サンタクロースってのはな」楠見もキョウの身長にあわせて腰を屈めたまま、ひたすら踊るサンタクロースに目をやった。「クリスマスの日に子供たちにプレゼントをくれるんだ。クリスマス、知ってるか?」


「ん」こくり、とキョウは頷いた。「ケーキ食べる日だよ」


「まあ……間違っちゃいないがな」苦笑しつつ。楠見はふと、思い立つ。


「クリスマスか。そうか。もうそんな季節だよな。一年になるなあ」

 ほとんど独り言のように、楠見はこの一年と少しの間を思い返しながらつぶやいた。「去年の今頃は、クリスマスなんて言ってられない感じだったもんな」


「去年もクリスマスはあったか?」キョウが小さく首を傾げた。


「クリスマスは毎年あるさ。ただ、去年はお前も俺も、それどころじゃなかっただけだ」

「そっか」


 分かったような分からないような口調で、キョウはそれだけつぶやいた。


「それ過ぎたら、すぐに誕生日だよな。――十一歳だっけ」


 この少年と出会ったのは、昨年の十一月。それからすぐに起きた事件のせいで、彼は二ヶ月くらいベッドを出られなかった。その間に、クリスマスも誕生日も過ぎてしまったのだ。

 そのときのことを思い出すと、無意識にキョウの頭の上に手を載せていた。


「そうだ、クリスマス・プレゼントを買ってやるよ。ハルにもな。何がいい? 欲しいもんあるか?」


 笑いかけると、キョウは少し考えて、また目を上げた。「かな」


「……は?」一年程度の付き合いでは、まだまだこの少年の思考は読み解けない。「なるとって、なると巻きか? ラーメンの上に載っかってる、渦巻きの?」


「そうだ」こくり、と頷く。


「……そんなもんでいいんなら、十本くらい買ってやるよ」


「じっぽん」驚愕したように目を丸くし、おののきに震えるような声で繰り返す少年。「まじか」


 楠見としては、なると巻きごときでそれほど喜ばれることに驚く。あの渦巻き模様の魚肉製品の何が、この少年の心の琴線に触れたのか。内心で首を捻りつつ。

「一度に食い過ぎるなよ? さ、帰ろう」


 キョウの肩に手を置いて促す。大人しく歩き出したキョウの肩を軽く押しやるようにして、ロータリーを横切ろうとしたとき。先ほどから雑踏の中で歌声を響かせていたシンガーが、ギターを足元に立て声色を変えて別の曲を歌いだした。


 Swing Low, Sweet Chariot――


 へえ……と、意外な思いで、無意識に目をやっていた。この曲を、東京ここの街頭で聞くなんてな。

 そう思うと同時に、隣を歩いていたはずのキョウがいないことに気づく。

 慌てて探すと、キョウは後方で立ち止まり、力強い歌声を張り上げている女性シンガーに視線を向けていた。


 サンタの次は、ストリート・ミュージシャンに食いついたか。

 楠見は嘆息しつつ戻り、キョウの腕を取る。またもや、心を完全に奪われてしまっているかのように、キョウは楠見への反応をサボる。


 キョウの視線の先で、女性シンガーはさらに声を轟かせた。


 ゆったりとした、深みのあるメゾソプラノのアカペラ。耳に心地よい感触で、どこか懐かしい雰囲気の音色ねいろ


 若い。楠見よりもいくつか年下だろう。大人の女性というには、まだあどけなさの残る顔立ち。肩の下まで真っ直ぐに伸びた茶色い髪が、スウィングに合わせて揺れる。


 日本人の耳には馴染みのある選曲ではないだろうが、それでも説得力のある声に惹かれてか、何人かは足を止めてその歌声に聞き入っていた。


 そちらに多少、気を取られながらも、楠見はキョウの腕を引く。

「おい?」

 腕を取られて、キョウはまた急に現実の世界に戻ってきたように楠見に目を向けた。


「くすみ。あれ……」

「珍しいな。スピリチュアルか。日本じゃあんまり聞かないよな」

「スピリチュアル」

「うん、『黒人霊歌』って、日本語じゃ言うのかな。Swing Lowスウィング・ロウ, Sweetスウィート・ Chariotチャリオット――やさしく揺れよ、愛しのほろ馬車。そんなタイトルだったかな。――ん? ああいう音楽が好きなのか?」


 意外な気持ちで、楠見は歩きだしながらキョウに問いかけていた。

 彼が音楽に興味を示したことは、これまでになかった。曲の終わりまで聞かせてやろうかと考えた楠見だが、キョウは取り立てて心残りはない様子で楠見について足を速める。

 ともかく。この子供は、目を離すととんでもないところに行きかねない。無事に家に連れ帰るまで、捕まえておくに限る。




 駅を通りすぎ、車を停めてある駐車場に続く路地に入ったところで、それまでずっと黙って何事か考えている様子だった少年が、小さく首を傾げながら何かに納得したようにつぶやいた。

「……やっぱ、『サイ』だったよな」

 ふわりとした口調で言うキョウの言葉を、楠見はうっかり聞き逃しそうになって、慌てて拾い上げる。


「……ん? なんだって?」

「『PK』かな」

「なんの話だ?」

「スピリチュアルの。それが、PKだ」


 考え事がひょいひょいあちこちへ飛ぶ上に、恐ろしく説明の下手くそな子供。その思考回路やペースに、楠見はたかだか一年の付き合いでも、だいぶ慣れてきた。


「……さっきの、歌ってた女性が、サイだったのか?」

「そうだ」

「『PKサイコキネシス?』

「んー。でも、よく知らない能力なんだ」


 キョウは首を捻る。

 他人の超常サイ能力が。それこそが、この少年の持つ超常能力のひとつ。


「モノを……」キョウは左手を広げて腕を前に伸ばした。「あっちにあるのを、こっちの箱の中に入れる」


「ああ。『アポーツ』かな、そりゃ」

「アポーツ……」

「そう。離れた場所にあるもんを、引き寄せる」

「『テレキネシス』と違うのか?」


「モノの移動は同んなじだ」楠見は微笑んで頷く。「けど、モノと能力者サイの間に壁や障害物があると、テレキネシスは通常それらをどうにかして乗り越えさせなきゃならない。アポーツは、壁が障害にならない。たとえば箱に入ったモノを取り出したり、逆に箱に入れたりすることもできるんだ」


「そっか」キョウは、納得した顔で頷いた。「だから、んだな」


「……使ったのか? 能力を?」

 再び、楠見は驚く。


「ん」

「歌いながら、か?」


「ん。広場の、あっちのほうで電話してた男のな――」頷いて、キョウはまた左手で左前方を指差す。「カバンの中に入ってたサイフが。ここに置いてあった――」今度は足元を示し、「でかい箱に」


「……なんだって?」

 驚きを通り越して、楠見は立ち止まり思わず大声を上げていた。


「楽器の入る箱だ。あれ。ギター?」

「お前……そりゃ……」

「『アポーツ』な」


 覚えたての言葉を頭に畳み込むように繰り返すキョウ。楠見としてはそれどころではない。

「そりゃ、……なんだ。他人のサイフを盗ったってことか?」


「んー」キョウは視線を宙にやって少し考え、それから頷いた。「そういうことになるか」


「お前なあ、そういうことは……その時に……」

 楠見は頭を抱えたい気分になった。

 仕方なく、キョウの腕を引き早足で駅へと戻る。


 だが、シンガーの姿はもうそこにはなく。人の流れは、BGMを商店街のクリスマスソングに変えただけで、同じようにせわしなくロータリーを行き交っていた。


「また今度、来てみるか……」


 小さくため息をついた楠見に、キョウはわずかに気まずそうな色をにじませて声を掛ける。

「そんとき言ったほうがよかったか?」


「ん?」目を向けると、うかがうような上目遣いで楠見を見上げるキョウと目が合った。「まあ、次はそうしてくれ。『サイの犯罪』は、止めないとならないからな」


「ん。分かった」


 この子供に、自分を責めさせてはいけない。楠見はまた手をキョウの頭に置いて、やわらかい髪をぐしゃぐしゃとかき回す。


「とりあえず……俺が聞かなかったのが悪いんだ。気にすんな。また来よう」

「ん。分かった」

「よし、あんまり遅くなると、ハルが心配するからな。急いで帰ろう」


 早くもすっかり夜の色となった街。駐車場に戻り、楠見は車を急がせた。

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