3.そこへ行けるといいんだけど

(へえ、今度は『Deep Riverディープ・リバー』か――)


 視線の先に、先日と同じく力強い歌声を上げるアカペラのストリート・ミュージシャンを捉えながら、楠見はしばしその声に聞き入った。相変わらず、惚れ惚れとする深く表現力のある声だ。

 懐かしい気持ちにさせられる曲調だった。目を閉じると、過去にいた、ここではない場所を思い出す。アメリカ東海岸の、学生街。場末のミュージックバーで、この曲を聞いた。


 一瞬本気で聞き入ってしまった楠見は、コートの袖を引っ張られて我に返る。

 楠見の胸あたりの高さから、キョウが真剣な瞳を向けている。


「くすみ。この曲はなんだ」

「ん? これも黒人霊歌スピリチュアルだな」

「またスピリチュアル」

「ああ。『深い河』っていう」

「スピリチュアルって、なんだ」


 知識欲旺盛な子供の質問攻めに、楠見は少し考えて。


「アメリカの……なんて言うかな。宗教歌と民謡の中間みたいな感じかな。奴隷として元々はアフリカから連れてこられた黒人がな、辛い生活の中で神様とか天国とか故郷とかをしのんでだなあ。ここではない場所に、安らげる場所があって、自分たちはいつかそこへといけるはずだって、そういう思いを込めて歌うんだよ」


「ふうん」とキョウは、特別感情もうかがわせずにつぶやいた。「行けるといいな」


『行けるといいんだけど――』


 ふと、楠見の脳裏に女性の声がよみがえる。『ね、どこかここじゃない場所に、自分の本当の居場所があるんだって、そういうこと考えない?』


 テーブルの向こう側で頬杖をついて楠見を覗き込んだ、大きな瞳。白人と黒人の血が混じった蠱惑的な顔立ち。異国の地で、当地の人間に「エキゾチック」という言葉を思い浮かべて、そのことを楠見は奇妙に思った。


 女性は楠見に「歌のリクエスト」をリクエストした。『客からリクエストが入らないと、歌わせてもらえないの。マスターがね、スピリチュアルなんて辛気臭いって、嫌ってて』


 そう言う女性に楠見は「Swing Low, Sweet Chariot」を所望した。OK。微笑んで一曲歌い上げ、テーブルに戻ってきた女性が言った言葉だ。


『ちゃんとその場所を見つけて、そこへと行けるといいんだけど――』


 言葉に引きずられて次々と浮かんできそうになる記憶を打ち消して、楠見はキョウの頭に手を載せた。キョウは手の下で一瞬だけ楠見へと視線を上げ、またシンガーへと戻す。


 週末にかけての間、時間を見つけては先日の私鉄ターミナル駅や近隣の駅へと出向いて歩き回った楠見とキョウだったが、彼女を見つけることはできなかった。結局、先日の仕事の「アフターケア」の帰り道、同じ時間帯に同じ場所で、その歌声を耳にするまでは。


 しばらくその場に立って、数十メートルほど離れて歌を聴いていた。先日キョウが、サイフを盗まれた男性が立っていたという場所だ。

 仕立ての良いコートを着て、手入れの行き届いた靴を履いている楠見。胸のポケットには、分かりやすく分厚いサイフを忍ばせて。だが――。


 手の下にいるキョウに目をやる。キョウは視線に応じたが、「まだだ」というように首を横に振った。


「見てるのが分かって、警戒してるのかな」楠見は軽くため息をつく。「見てない振りをしようか」


 後ろを向いて、携帯電話を取り出した。ついでにそのまま、仕事の電話を済ませることにする。相手はすぐに電話に出た。

「楠見です。――ええ、セミナーハウスの視察の件で。――日程、どうなりました?」


 電話の相手と話しながら、女性シンガーの声も耳に入れる。一曲終え、まばらな拍手が止むと、今度は「Amazingアメージング Grace・グレイス」の熱唱が始まった。ちらりと振り返ると、この日本人にも馴染みのある曲目には、先ほどよりも多くの人が足を止めている。


「一月ですか? 年内にどうにかならないかな。年明けは、年度末まで動きづらいんですが――ええ、――ええ。仕方ないですね、中旬くらいにどうにか。けどそれで、本当に来年度のオープンに間に合いますか? 新入生のオリエンテーション合宿は、四月の頭ですよ」


 深くゆったりとした歌唱を、耳の端に入れながら。

「順調に進んでたはずなのに、どうして遅れたかな。――いえ、かしていい加減にしてもらっちゃ困るが、説明はきちんとさせてください」


 少々厳しい声を上げたとき、キョウが楠見の袖を引っ張った。


「くすみ。アポーツ」

「……なに?」


 慌ててシンガーを振り返る。目に見える状況には変化はなく、歌は続いている。思わず胸元を押さえるが、楠見のサイフもそのままだ。

 電話の向こうの訝しげな声に、楠見はロータリーの中央に目を向けながら答えた。

「――ああ、こちらのことです。すみません。とりあえず、調整お願いします。詳細は後で――」


 通話を切って、キョウに合わせて身を屈める。

「使ったのか? 相手は?」


 キョウが左腕を上げて、ロータリーの向こう側、駅へと向かう人波を指差した。

「あの、茶色いコートの男。またサイフだ」

「券売機に向かっている人か? 女性を連れている?」

「そうだ」

「それで、サイフは」

「ギターの箱ん中だ。捕まえるか?」

「いや……ちょっと待て」


 タクシー乗り場のほうから券売機に向かって歩いていた男が懐を探りだすのと、「Amazing Grace」の熱唱が終わるのが、ほぼ同時だった。シンガーは、先ほどよりも大きな拍手に軽く一礼すると、足元に立てかけていたギターを手に取った。


「キョウ、来い」


 券売機の前で男が訝しげに懐を探っているのを視界の端に入れながら、楠見はすかさず女性に歩み寄る。怪しまれない程度の足取りで、女性まであと数メートルというところまで行っておもむろに拍手を始めた。


「いい歌声ですね」


 ギターの首とケースの取っ手に手を掛け、わずかに屈んだ体勢で、シンガーは上目遣いに眉を寄せた。その瞳に警戒の色が浮かんだようだったが、瞬きとともにすぐに無表情に隠れる。

 やはり若い。日ごろ目にしている学生を、楠見は思い浮かべる。大学生くらいの年頃に見える。


「どうも」

「一曲リクエストしてもいいかな」


 一瞬シンガーの瞳が券売機の方向に動いたのを、楠見は見逃さなかった。


「もう、今日は終わりにするんだけど?」

「まあそう言わずに、一曲だけ。スピリチュアルなんて、日本じゃそうそうナマで聞ける機会はないんだよ。この間ここで歌ってたよね。Swing Low――」

「聞いてたの?」

「たまたま通りかかったんだ。な」


 楠見は微笑んで、隣に立っているキョウに目を落とした。

 こういうとき、子供を連れていると便利だ。人の警戒心を薄くさせる。少なくとも、ナンパなどには見えないだろう。


「スイート、チャリオット」

 キョウは楠見に目を上げて、つぶやいた。女性シンガーは、かすかに驚いたように目を見張った。持ち上げようとしていたケースを再び地面に置くと、屈めていた身を起こす。

「知ってるの? 珍しい」

「気に入ったみたいなんだ。な」またキョウに向かって言うと、一瞬の間を置いて、キョウはこくりと頷いた。「もう一度聞かせてもらえると嬉しいな」


 言いながら、楠見は懐からサイフを取り出して一万円札を抜いた。ミュージックチャージのつもりだ。

 シンガーがまた驚いたように一万円札に目を見開いたとき、券売機周辺で小さくはない声が上がった。


「なくした!」「ええ?」

「サイフがない」

「あのタクシーに――」


 さっと、シンガーの瞳がそちらに動く。その注意を呼び戻すように、楠見は声を掛けた。

「投げ銭、っていうのな、日本じゃ。どこに入れたらいい? ギターケース?」

 足元に置かれたギターケースに目をやり、キョウにさりげなく目配せする。キョウは邪気のない動きで、ケースの前にしゃがんで蓋に手を掛けた。


「あ」小さく声を上げたシンガー。構わずにキョウは蓋を開け放つ。

 駅のほうから、男性の焦ったような声と、連れの女性の取り乱した喚き声。二人は連れ立って、来た道を戻り出す。

 ギターケースが開かれると、空っぽのはずのそこに、黒い長方形のモノがひとつ。


「サイフ」キョウがつぶやいた。


 楠見は屈んで一万円札をケースの中に置き、代わりにサイフを取り上げた。

「へえ、男物みたいなサイフを使っているんだね。きみの? こんなところに入れて足元に置いておいちゃ、無用心だろう?」


 怒りを含んだような困惑の眼差しを向けてくる女性シンガーに、楠見は周囲に見えるようにしてそのサイフを差し出す。シンガーがおずおずとサイフに手を伸ばした、その時。


「おい! そのサイフ!」

 割り込んできた声は、券売機を離れタクシー乗り場のほうへと向かおうとしていた男のものだった。五十前後の、身なりのいい男性。焦ったような怒ったような、疑うような視線を、サイフと、それを手にする楠見と、手を伸ばしかけていたシンガーに代わる代わる送る。


「ああ」楠見は男に向き直って、破顔した。「あなたのでしたか。良かった」

 シンガーに口をきく間も与えずに、男へとサイフを差し出す。

「そこで、落とされたみたいですよ。彼女が拾って、僕のじゃないかって声を掛けてくれたんだ」

「落とした? そんな馬鹿な――」


 言いながら、男は引ったくるような動きでサイフを取り戻した。深い疑いの表情を見せてはいるが、その疑いをどうぶつけていいのか迷っているような様子だ。

 かすかに緊張感が漂う。と――。


 ギターケースの前にしゃがんでいたキョウが、立ち上がって、楠見のコートの背中あたりを掴んだ。男は少年を一瞥し、顔に浮かべていた疑惑の色をわずかに和らげる。


「ともかく、早めに気づいて良かった。お気をつけて」

 キョウの肩に手を置いて笑顔で言う。男は小さく鼻を鳴らし、釈然としない様子ながら「どうも……」と頷いて、困惑した様子で見守っていた連れの女性の背中に手をやると駅の方向へ戻り出した。


 二人の背を見送って、楠見は肩を竦め、まだコートを掴んでいるキョウに目をやった。

「もう少し、お礼の言葉があっても良さそうなもんだよな。サイフをんだ」

「ん」

「グッジョブだ、キョウ」

「ん」


 満足そうに口もとを綻ばせたキョウの頭を撫でて、「さて」と、呆然とした様子の女性シンガーに向き直る。


「それで、歌を聞かせてくれる?」

「ちょっ……と、……なんなの、あんたたち……」

「それから、少し話も聞きたいんだけれど。そうだな、場所を変えないかい? このあと時間は――」

「……なに」


 わなわなと唇を振るわせるようにして、シンガーは声を絞り出す。

 歩を促そうとしたとき、「ちょっと、そこのあんた!」と声が掛かった。言いながら駆け寄ってくる黒い影。警官だ。

「ちょっといいですか、少しだけ話が聞きたいんだけど」


 楠見の前まで走ってきて立ち止まると、警官は駅の脇にある交番を目線で示す。小さな建物の中に、先ほどの男性の姿が見える。こちらを見ているようだったが、楠見が目をやるとバツが悪そうに視線を逸らした。


(……参ったな)

 キョウに向かって、小さく顔をしかめて見せる。仕方ない。


「いいですよ」

 そう言って歩き出した瞬間、女性シンガーは、ギターとケースを素早く掴んで駅とは反対方向に走り出していた。


「あっ、あんた――」つぶやいて追おうとした警官を、楠見は止める。


「彼女はサイフを拾ってくれただけですよ。説明なら僕がしますから、いいでしょう?」


 警官は名残惜しげにシンガーの去っていった方向へと目を向けたが、既にその姿は雑踏に紛れ込んでいた。諦めたように「分かりました」と言って、先に立って歩き出す警官。


 交番の入り口で、まだコートを掴んでついて歩いてきていたキョウに、「お前はここで待っていなさい」と声を掛ける。そして、警官が先に交番の中に入っていったのを確認し――、

「キョウ」身を屈めて少年の耳元に口を寄せる。「彼女を追いかけられるか?」


「ん。いいよ」キョウは頷く。


されたら電話するよ。携帯、持ってるな?」

「ん」


 もうひとつ頷いて、キョウは交番に入っていく楠見を見届けると、くるりと踵を返して視界から消えた。

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