4.十二月の冷たい風が吹き付けて
「あっはっはっはっ、こりゃいいや。わっはっは、はっはっはっはっは」
BGMに「オー・ホーリー・ナイト」の流れる喫茶ベルツリーの客席。向かいの席で、その厳かな音楽をぶち壊す勢いで大口を開け笑い転げる男に、楠見は顔をしかめた。
「……マキ、いい加減にやめろよ……」
「だって、あははははっ、スーパーエリートの楠見センセイがあ? スリで少女買春で誘拐犯! あーっはっはっは」
楠見は思い切り大きなため息をついて、テーブルに頬杖をつきそっぽを向いた。
「そこまで疑われちゃいないよ。話を聞かれただけだ」
年上の友人にして、楠見と職場を同じくする目の前の男は、メガネの奥で目に涙まで浮かべながらようやく笑いを少しだけ収めた。
「ははは、小金を欲しがりそうに見えたのかね、この男が」
「……まったく、恩を仇で返されるってのは、このことだな」
「なんだか……申し訳ありません……」
憤然と背もたれにそっくり返る楠見に、それまでマキの隣で身を縮めていた船津が小さく声を上げた。身内の不調法を謝罪しているようだ。
「船津さんに謝ってもらうことじゃありませんよ。警察の人は、市民の主張を聞いて自分の仕事をしただけだ」
「はあ……でも、事件解決のため警察に協力していただけませんかって、言いづらい感じになりました」
その用事で、船津はここにやってきたのだ。一方、コーヒーを飲みにぷらりと立ち寄っただけのマキは、気軽な調子で楠見を指差す。
「船津さん、気を遣うことないですよ。この男にはこんなの痛くも痒くもないですから。むしろいい経験だったよなあ。ちょっとの金の、なくなったの出てきたのでいちいち疑われる庶民の気持ちを知ればいいさ」
地方都市の大病院の息子が、何が「庶民の気持ち」だ。
まだ半分以上笑っているマキをひと睨みし、楠見は姿勢を起こすと船津に向かって身を乗り出した。
「それより、その『アポーツ』ですけどね。シンガーの」
「はあ」
「住んでいるらしい場所は分かりました。改めて接触してみようと思います」
「え! 本当ですか?」
驚き目を丸くする船津に、楠見は隣のテーブルで仲良く大盛りのナポリタンを頬張っている二人の少年を示す。
「キョウが、彼女を追いかけて突き止めました。自宅かどうかは分かりませんが、アパートの一室に入っていったところまで。そこから追えると思います」
「凄いな……」船津は隣のテーブルに、感嘆の眼差しを送った。
「さすが。大活躍だね、キョウ」マキも、可愛がっている少年に、優しげな笑みを向ける。
ハルが先に目を上げて、隣に座ってナポリタンに集中しているキョウに笑いかけた。
「誉められてるよ、キョウ」
「ん……」
今のキョウには、ナポリタンを腹に収めることのほうが重要らしい。少々たどたどしい手つきでフォークで動かして、パスタを口へと運ぶことに夢中になっている。
コーヒーを一口飲んで、船津は姿勢を正した。
「そこから歩いていける距離、となると、世田谷区ですか?」
「ええ。駅から十五分くらいのところです」
「区内の事件と、関係がありますかね」
「どうかな」楠見は首を捻る。「手口は違いますからね。船津さんのほうの事件では、金だけが盗まれたんでしょう? 例の彼女は、サイフごと盗った。金だけ取り出すことができるなら、サイフの中の金だけ取って自分のサイフに移せばいい。そのほうが安全で確実だ」
「たしかに」つぶやいて、船津も腕を組む。
「でも、片や金庫とレジ、片や他人の懐やバッグですからね。何かしらの条件があってそれが出来たり出来なかったりするのかもしれないし、そこまで深い考えで動いていないかもしれない。ですから、なんとも言えません。船津さん、最初の銀行は、防犯カメラがありますね」
「ええ、もちろん。でも、防犯カメラの映像を見た限りでは、ほかの現場とも共通する人物はいませんでしたよ?」
「後の数件に関しては――」楠見はコーヒーカップを手に取って、見つめながら少し考える。「その場所にいたかどうかは分かりません。どこに金があるかだけ確認すれば、仮に例の彼女が犯人なら、数十メートルは離れた場所から壁を越えて引き寄せることができます」
「ああ」と船津も頷く。
「ただ最初の銀行だけは、その場に……少なくとも、強盗が入ったことが分かる場所に、犯人か共犯者がいたんじゃないかな」
「共犯者?」
「その銀行、中で起きていることが外からも分かるような造りですか?」
コーヒーカップを手に持ったまま、船津は厳しい顔をして唸る。銀行の様子を思い出しているのだろう。
「……難しいと思います。事件発生から警察が駆けつけるまで、数分程度しか経っていませんが、その間、出入りはなかったということですし」
「となると、犯人がもしもサイだったとすれば、考えられる可能性としては――まず、犯人はその場にいた誰かで、モノを『自分に引き寄せる』だけでなく、『別の場所へ転移させる』能力を持っているということ。あるいは、その場にいた誰かが共犯者で、現場の様子を外にいるサイに伝えた」
「はあ。それで共犯者、ですか」
あまりピンと来ない様子で、船津は首を捻った。
サイというものがこの世にいて、サイ犯罪というものがあるらしい――そう認識している、船津は数少ない人物の一人だが、やはり実感としてどこか信じ切れない気持ちがあるのか、犯行の具体的な方法までは考えが及ばないらしい。
それで、「これは」と思う事件が起きると楠見に相談にやってくるのだが、そのたび新鮮な反応を示す船津に楠見は苦笑する。
「ひとまず、防犯カメラを確認させてもらえますか? 事件の発生時刻だけではなく、その前や、もしかしたら建物の外のものも必要になるかもしれない」
「分かりました、用意します」
「お願いします。こちらも――」
何気なく隣のテーブルに目をやった楠見は、思わず身を乗りだしていた。
こちらの話に聞き耳を立てているハル。その隣で、キョウは。
「おい、キョウはもう帰ったほうがいいんじゃないか? 眠ってないか?」
「あ!」ハルは、さっと隣に顔を向ける。「しまった! ずっと注意してたのに!」
ハルの視線の先で、キョウは綺麗になった皿を前にフォークを握り締めたまま船を漕いでいた。
「うわあ、一瞬目を離した隙に。これもう起きないよ……」
大変な過失を犯してしまったというように悔しがるハルに、フォローのつもりで楠見は笑う。さり気ない、フォロー。の、つもりだった。
「まあ、働いてもらったから、疲れちまったのかな」
言った途端、ハルの眼差しが険しい光を帯びる。楠見はハッとして姿勢を正した。
「ち、違う。無茶をさせたりしたわけじゃないぞ。能力だって使ってない。危険なこともなかった」
「そう?」しばし楠見へと視線を据えるハル。その瞳には疑惑の色。「……なら、いいんだけどさ」
「ハハハ」笑いながら立ち上がったマキのおかげで、一瞬の緊張状態は解ける。「あったかいし、腹いっぱいになったし。しょうがないね。どれ、部屋まで送ってあげよう」
眠ってしまったキョウを抱えたマキと、ハルが店を出て行くのを見送って、船津はククク、と拳を口もとに当てて笑った。
「厳しいですね。ハルくんは」
「彼はキョウのマネージャーなんですよ。無理な仕事させてハルの機嫌を損ねると、キョウに仕事がさせられなくなる」
「そりゃ、頼もしい」
「まったくです」
肩を竦めた楠見にまた少し笑って、船津は電飾の点滅するクリスマスツリーに目をやった。
「本当に早いな、一年って。……元気になって、良かったですね。二人とも」
目を細め、楠見もツリーに視線を向ける。コーヒーの最後の一口を飲んだところで、オーディオから「聖者の行進」の軽快なメロディが流れ出した。
重いギターケースを抱えてアパートの階段を上った。昭和の時代に建てられたアパートの鉄製の階段は、錆びついていて、住み出した当初は手すりに触れるのにも抵抗があったが大した時間もかからずに慣れた。
鍵を開けようとしたところで、違和感に気づく。
ボロアパートの建て付けの悪いこのドアは、鍵を開けるのにコツがあるのだ。合鍵を使っても、コツを無視して無理やり開けると、鍵の掛かりが妙な具合になる。
扉を開けると、タバコの臭いが鼻に付いた。
「よお、
ミニキッチンの奥にある居室から、間延びしただらしない声をかける男。
「
居室の壁にギターケースを立てかけて、美和は我が物顔でコタツに入っている男を睨む。
「この部屋ではタバコ吸わないでって言ったじゃん」
雅史は、美和の小言を鼻で笑った。ダボダボのトレーナーに古びたジーンズ。ボサボサの頭。これでも顔は悪くないほうで、開けっぴろげな性格と相まって高校時代はけっこう女子生徒に人気があった。この男を駄目にしてしまったのは、おそらく自分なのだ。美和は、そう思う。
コタツの上には灰皿代わりの発泡酒の空き缶。雅史は別の缶を取り上げ大きく傾けて一口飲むと、ニヤついた目を美和に向ける。
「それよりよ、どうだった? 今日の稼ぎは」
「ないよ。失敗した」
畳に下ろしたバッグの中身を整理していた美和は、外には知れぬようにサイフをバッグの奥底にしまい込んだ。駅前で、見知らぬ男から「投げ銭」と言ってギターケースに入れられた一万円札が入っている。雅史が来ているならば、ギターケースに入れたままにしておくべきだったかと一瞬思う。
「はあ? 失敗ぃ?」雅史は大げさに裏返った声を上げて、目を剥いた。「なんだよ、失敗って。手ごろなヤツ見つかんなかったのか?」
「そうじゃないよ」
美和は立ち上がり、冷蔵庫を覗く。案の定、買った覚えのない発泡酒の缶が、あと三本入っている。
「ねえ、あたしも一本もらっていい?」
「ああ。いいぜ。それより失敗って、なんだよ」
「バレたの。盗ったのが」
小気味のいい音を立ててプルタブを開ける。乾杯の合図に、美和は軽く缶を持ち上げた。
「んなわけねえだろ」形だけ乾杯に応じながら、雅史は訝しげな声を上げる。
「超能力で他人のサイフを盗りましたって? んなもん、誰が信じるよ。分かるわけねえだろ」
「さあね。なんで分かったのか、知らない。でもバレた」
「そんで?」
「盗ったサイフは、元の持ち主に返してた」
「おい……」雅史は眉間にシワを寄せて、声を潜めた。「警察に捕まったんじゃねえだろうなあ」
「呼び止められたけど、逃げたよ。けどもうあの駅前じゃ、やりにくいな」
北口に高級住宅街のあるあの駅は、いい稼ぎ場だった。でも、それを失ったことに、美和は心のどこかで安心していた。同じ場所でずっと同じことを続ける度胸はない。そもそもどこだろうと、こんなことを続けていていいはずもない。
「で。そんじゃ誰にバレたんだ?」
「知らない男。盗った直後に急に呼び止められてさ」
思い出すと、犯罪行為を見破られたことへの動揺と、上手く運んでいたことに水を差された怒りと、そして一万円札を差し出され「歌ってくれ」と言われた時のほのかな恍惚感がない交ぜになってよみがえってきて、美和は最後のひとつを内心で打ち消す。
(どうせ、金持ちの気まぐれだ)
腹立たしい男。これ見よがしに分厚いサイフを出して。そのサイフの中のもので、なんでも手に入れることができるだろうに、底辺の人間が少しの稼ぎにありつこうとするのをジャマする。
「あいつのサイフを盗ってやればよかった」
悔し紛れに言いながら、でも、と頭のどこかで声が上がる。誠実そうな男だった。きちんとした身なりで、言葉遣いで、表情で。「いい歌声だ」と言ってくれた。連れていた子供に、優しい目を向けていた。
コタツの向こうで発泡酒をあおる男をうかがい見ながら、いま頭に浮かんだことを再びかき消して、自分も発泡酒を口に含む。苦さしか感じなかった。
「でもよ」雅史は言いながら、タバコをくわえて火をつける。「なんで分かったんだろな」
「ちょっと! タバコは止めてって言ってるでしょ。喉に悪い」
「ハハッ。いっちょ前の歌手気取りかよ」
馬鹿にするような口調に、苛立ちが募る。
「お前の歌なんて、誰も聞いちゃいねえって。知らねえ英語の曲ばっか歌って。もっとこう、ウケるヤツにしろよな、せめて」
「どうだっていいでしょ」
あの男は、知っていたもの。
いい声だって。お金を出して、「もう一曲」って。そう言われたもの。
「……ともかく、この部屋では止めて」
「ってもなあ」雅史は構わずに一口吸って、天井に目をやり大きく白い煙を吐き出した。「俺ここに住むことにしたし。住んでるとこで吸えねえってのはなあ」
「はあ? ちょっと。なにそれ」
「うるせえんだよ、家にいると。ババアがさ、大学行けとか、行かないなら仕事しろとかよ」
「だからって」
「なに? 俺がいちゃなんか不味いことでもあるわけ?」
「そうじゃないけど……だって、警察には? もういいの? 家を出たって分かったら不味いんじゃないの?」
「そのことならもう完全に終わりだよ。『悪戯のつもりでした』っつったら、説教食らっただけさ」
雅史は笑い混じりに鼻を鳴らした。
「ケーサツ来んのが意外に早くって。あれはビビッたけどな。ちょっと手違いはあったけどさ、まあ上手くいったよな。それより次の計画立てようぜ。やっぱ銀行みたいにさ、デカイ金あるとこがいいよ」
得意げに言う雅史に、美和は顔をしかめる。
「は? まだやる気?」
「当たり前だろ。一気に一人百万円だぜ? 他人の懐からちっちゃな金抜き取るよりも、お前だって気楽だろ」
「だって、同じ手はもう使えないよ? 次は初犯じゃない。捕まったらタダじゃ済まないよ」
「わーってるって。いい手があんだ」
「何言ってんの」
「まーあ、任せとけって。今、
機嫌良さそうに発泡酒を飲み干した雅史を横目で見ながら、美和は小さくため息をついた。
(あたしはこんなところに、いつまでいなきゃならないんだろ)
やり切れない気持ちで、畳から立ち上がる。煙を逃れるフリをして、窓を開けてベランダに出た。十二月の冷たい風が吹き付けて、外の、葉のすっかり落ちた木の枝を揺らした。
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