2.きみの力になれると、彼は言った
美和ちゃんの嘘つき! 泥棒!
真っ直ぐにこちらを見つめて、きっぱりとした口調でそう言った女の子。いつも明るい色のひらひらした服を着て、綺麗に髪を二つに分け、可愛らしいヘア・ゴムでそれをとめていた。
くりくりとした瞳で相手をじっと見つめ、キュッと上がった唇でハキハキと話す。
美和も大好きだったその瞳が、唇が、いまは真っ直ぐに美和を非難していた。
片手には、先日誕生日プレゼントに父親に買ってもらったのだという、星の形のチャームのついたネックレスを持って。
『泥棒!』
ちがう、という言葉は、口の中で小さくつぶやかれただけで、ほかの人間の耳に届くことはなかった。いつの間にか周りに集まったクラスメイトたちが、手を叩き口々に囃し立て始めたからだ。
『ど、ろ、ぼう! ど、ろ、ぼう!』
ちがうの。
大声でそう言いたいのに、言葉にならない。
だって、なんて言う? 気がついたらネックレスがあたしの机の中に入っていたの。そんなこと言って、だれが信じてくれる? 言い訳だって。嘘つきって。もっと酷いことを言われるに決まってる。
何も言えないまま、じわりと顔の真ん中あたりが熱くなって、目に涙が浮かんだ。こぼれ落とすまいとするのに、顔が上げられなくて俯いた。
『ど、ろ、ぼう! ど、ろ、ぼう!』
責めているというよりも、楽しそうなコーラス。
だが、そのトーンが不意に、わずかに落ちる。目の前に人が立った気配に、美和は顔を上げた。
『おめえら、やめろよ!』
美和に背中を向けて、クラスメートの輪の前に立ちはだかっているひとりの少年。彼は、楽しい遊びをジャマされて不満顔のクラスメートたちに、果敢に言い放つ。
『美和はそんなことしねえよ。なあ、美和?』
振り返った少年の笑顔が目に入ったとき、堪えていた涙が一粒こぼれた。
駅の改札口と周囲のビルを繋ぐ橋上デッキは、冷たい風が吹き抜けていた。道行く人もコートの襟をかき合せ、マフラーを巻きなおし、一刻も早く風から逃れられる場所へ向かおうと足を速める。
正面に見えているイチョウの木は先週まではまだ黄色い葉を残していたが、その葉も昨日今日の北風でほとんど散って寒々しく木肌を風にさらしていた。
片隅に立って歌声を張り上げるシンガーに、しかし立ち止まって耳を傾ける者などいない。
今日はもう終わりにしよう――杉本美和は、ギターをかき鳴らす手をおざなりに動かしながら、そう思った。
夜は鍋にしようか。帰りに白菜でも買って、冷蔵庫の食材を適当に足して。雅史は間に合わせの夕食に不平を言うかもしれないが、構うことはない。勝手に居ついている向こうが悪いのだから。嫌なら家に帰れ。そう言うチャンスだ。
最後の音を鳴らして曲を終える。拍手はなかった。
屈んで足元に置いてあるギターケースの蓋を開け、なんとなく顔を上げたときだった。
見たことのあるような黒いロングコートを着た長身の男が、改札のほうからやってくるのを目にし、ふと動きを止める。
頭に思い浮かんだのは、あの奇妙な若い男。だが――。
(違う)
美和のほうへは目もくれずに通り過ぎ、バス乗り場へと繋がる階段を下っていく男を見送りながら、知らず、美和は小さくため息を落としていた。
あの男が美和のアパートを訪ねてきてから、まだ一週間も経っていない。それでも、我ながら呆れるほど、この数日間を長く感じていた。わざわざ直接訪ねてきたくらいだから、次もまた間をおかずに美和の前に現れるだろうと。漠然と、そんな楽観的な予想をしていたのだ。
あれだけの説明では、どこの駅前で歌っているか分からない美和を探し当てることは難しかっただろうか。
それとも。と、苦い想像が胸につかえる。あの日の美和の態度に、もう美和と関わることは止めようと思っただろうか。
きみの力になれると、彼は言った。
その言葉が彼の本心から出たものだったとしたら、その後の美和の言動は、彼を失望させその気持ちを変えさせるに十分なものだったと思う。何をどう力になってくれるつもりなのかは知らないが、あんな態度を取る人間の手助けをしてやろうなんてお人好しが、どこにいる?
そこまで考えて、美和はまたため息をつく。あの日から、何十回も何百回も同じ軌跡を辿って繰り返している思考。それはいつも、同じ場所まできて同じ疑問に遮られる。
あたしはあいつに会って、どうしたいって言うんだろう。
力を借りる? なんのために。借りてどうする? あの男が、何をどうしてくれるというのだろう?
そもそも自分は、あの男がもう一度現れたら、嬉しいのか困惑するのか、うんざりするのか。また姿を見た瞬間に、体が勝手に逃げ出してしまうのではないだろうか。
『あいつじゃないのか? こないだ言ってたヤツって――』
美和を訪ねてきた男と、その連れている小学生。二人が現れた理由を、雅史は先日の美和の報告からというよりも、悪事を働いた者の勘で正確に掴んでいた。
『警察に突き出すつもりなのか? もしかして、強請られてるんじゃねえだろうな』
しかし、彼らの目的はおそらく、雅史の考えているものとは違う。美和は、希望的観測を交えてそう思った。だから、あいまいに答えて誤魔化した。
きみの力になれる、と。彼はそう言ったのだ。
まとまりのつかない頭を軽く振って、美和は気持ちを変えてギターをそのまま地面に置く。弦をひとつ爪弾いて音を取ると姿勢を正した。ギターケースの蓋は開けたまま。
大きく息を吸い込むと、ゆったりと音を紡ぐ。
最初は低い音から。四度のポルタメント。深く。厚く。
――
――私のような者さえも、守ってくださる
道行く人々の足取りが、心持ち緩やかになる。
初めてそのシンガーの存在に気づいたというように、小さく視線を送る。
この瞬間は、好きだ。
『美和は、歌が上手いね』
そう言ってくれた人のことを思い出す。
『声がいいんだよ。歌は努力しだいで上手くなれるけどね、声の質は持って生まれたもんだからね。持っていることに感謝しないとね』
そう言って、その人はまだ小さかった美和の頭を撫でた。意味の分からない英語の歌を、たくさん教わった。誉められたい一心で一生懸命覚えた。
――かつて迷い、道を見失っていた私は、いま見出され救い出された
――かつて何も見えなかった私の目は、いまは見開かれている
『あんたのその能力もね、持って生まれた、素晴らしい能力だよ。だから、持たせてもらえたことに感謝して、大事にするんだよ』
だけど、と美和は反論した。
素晴らしい能力だなんて、思えない。いいことなんてなかったもの。感謝なんかできるはずない。
そう食ってかかった美和に、その人は、目を細めて微笑むだけ。
どう使うことが正しいのかなんて、教えてはくれなかった。教えてくれないまま、美和の前から姿を消した。それからずっと、美和は形のないその人の影に反論し続けている。
素晴らしい能力なんかじゃない。いいことなんて、なかったもの。
――慈悲が、私に畏れることを教え、
――そして脅えから救ってくれる
あの人は。頭を撫でて誉めてくれた声が、素晴らしいものだと言った美和の能力が、こんな風に使われていると知ったら、なんと言うだろう。
叱るだろうか。悲しむだろうか。哀れむのだろうか。
――信じるということを初めて知ったときの、
――その慈悲の、なんと尊いことか
二人連れの男女が、通りすがり際、開いて置いてあったギターケースに小さなものを投げ入れた。百円玉。美和は心の中で、苦笑いする。金持ちのサイフに比べたら、なんて小さな収入。だけど、白菜の一切れくらいは買えそうだ。
ふいに、駅に向かって建つビルの間から突風がやってきた。
思わず髪を押さえる。
「うわっ!」
子供の声がして、何気なく目を向ける。小さな男の子が、風に攫われた水色のマフラーを追ってデッキを駆けだしたところだった。
風に舞うマフラー。それを追う子供。転がるように走る子供を、慌てて避ける通行人たち。
「待って」子供の母親らしき女性が声を上げた。
マフラーはそのままふわりと飛んで、デッキの手すりを越えた。追いかけて走っていた子供は、手すりに阻まれて立ち止まり、すぐさま脇にあったベンチによじ登る。
母親が追いついて、手すりから身を乗り出そうとする子供の体を引き寄せたのと同時に、風に運ばれたマフラーはバス待合所の屋根の上に落ちて動きを止めて――。
「あー」泣き出しそうな声で言って、子供は母親を振り切ろうと身を捩る。
「新しいの買ってあげるから、諦めよう?」
諭すように言う母親に、子供は顔を歪めて抗議の声を上げた。「いやだよ、だってあのマフラーは」
困ったように眉を寄せる母親。
「じゃあ待って。いま駅の人に聞いてきてあげるから」
仕方なさそうに言うその言葉が、子供を宥めるためだけのものなのだと、母親の口調で分かった。「ここで待ってるのよ?」そう言い置いて、母親は駅のほうへ向かう。
戻ってきたときの言葉はきっと、お願いしたけど駄目だったの、だろう。ね、また買ってあげるから、諦めなさい。
歌を続けながら、美和はふっと頭の芯に意識を集中する。持ち主の手を離れ、途方に暮れたようにバス停の屋根の上で端を風にはためかせているマフラーを目に焼きつけ。
それから。そう――それは、あの子供の手に。
――彼の言葉はかけがえのない望みとなり
――彼は私の盾となり、私の一部になる
――私の命の続く限り
美和はさらに歌声を張り上げながら、目を閉じる。頭の芯に、マフラーと子供の手を思い浮かべるだけの、簡単な作業。脳裏に描いたイメージの中で、マフラーと子供の手がふっと重なった瞬間。それまで意識を集中させていた頭の芯がふわりと軽くなる。
一所に引き寄せられていたものが突然吸引力から放たれてパッと散らばるように、頭の中で何かが霧散する。
「あれ!」子供が心から驚いたような大声を上げた。それから、離れていた母親を呼びながら走り出す。「ママ、ママー!」
何故か手の中に戻ってきたマフラーを、母親の後姿に差し出すように握り締めて。
「戻ってきた、マフラー! 戻ってきたよ!」
母親が、妙な顔をして足を止めた。「あら、どういうこと」
「さあ」子供は小さく首を傾げたが、それよりもマフラーがその手に戻った喜びが勝る。遠く離れた場所からはるばる自分のところへと帰って来た犬か猫でも迎えるように、愛おしげにマフラーを見やり、それから大切そうに首に巻いた。
その様子を目にしながら歌い終えた美和は、無意識に顔が綻んでいることに気づき、彼と目が合ったわけでもないのに慌てて逸らした。
そして、逸らした視線の先で。
街路樹の陰に、ひとりの男の姿を見つける。
暗いトーンのトレンチコート。ポケットに手を入れ、こちらに体を向けて佇んでいる、大柄な男。道行く人々と比較して頭ひとつ分大きく、スポーツ選手か何かのようにがっしりとした体格。彼は美和がそちらへと顔を上げた瞬間、顔を覆っていた大きなサングラスを外し。
美和と目を合わせ、片方の唇の端を上げたように、見えた。
(見られた――)
直感的に、そう思った。背筋が冷たくなり、息が止まる。たまたまそちらに目をやっただけ。そう装って何事もなかったように見過ごしたいのに、美和は男から目が離せなかった。
(どうして?)
そんなはずはない。一連の出来事の間、たとえ一切の油断なく美和を見張っていたとしても、マフラーが少年の手に戻ってきたのが美和の能力によることだなどと分かるはずはない。傍から見れば、美和は、少年のほうへと目をやりながら歌っていただけだ。
それなのに。本能的に、美和は確信していた。彼は美和の能力を見破った。
まさか。どうして?
『分かる人間もいるんだよ』
先日のあの男の言葉が、耳によみがえる。
それでは、彼らは仲間なのか? いや――。
男は片頬を緩めたまま美和のほうへと真っ直ぐに視線を送ってきていたが、やがて対面は済んだというようにサングラスを掛けなおした。
どことなく不吉な雰囲気の漂うその笑みは、先日のあの若く身奇麗で誠実そうな男とは結びつかない。
なんの根拠もなく、しかし美和ははっきりと形を持った不安に襲われていた。
(どうしよう)
犯罪の現場を見られたわけではない。男の子のマフラーを取ってやっただけだ。でも、能力を見られた。いや、分かるはずはない。だけど、分かる人間もいるって――
いくつもの考えが頭の中で渦を巻き、美和は混乱を抑えようと、唾を飲み込んで大きく息を吐く。腰を折り曲げギターを手に取ったのと同時に、絡み付いていた縄が解かれたように、男は唐突に身を翻すと駅とは反対方向に向かって歩き出した。
何も言わず、なんの意思表示もせずに去っていく男。不気味さはいや増し、何事も起きなかったことに安堵するなどできなかった。
(見られた、見られた、見られた――)
犯罪を知られたのとは違う、それは、これまでに感じたことのない種類の恐怖。じんわりと、不安が背中に圧し掛かかってくるようで、その不快な感触から逃れようと、美和は家に向かう足を速めた。
「あ? ああ。――わーった。明日な。――どこ。――うん、うん」
自宅のドアを開ける。タバコの臭いと、誰かと話しているような
「マジで? 十万? なにそれ。ヤバイの? ――ああ。――ああ。マジか。おお、とんかく明日な」
電話を切って、コタツの上に置く。
「おお、おかえりー」
「……ただいま」言いながら、買い物もせずに真っ直ぐに帰ってきてしまったことに美和は気づいた。仕方ない。夕食は、本当にありあわせだ。
「おいよぉ、美和ぁ、でっかい『仕事』の話が入ったぜ?」
美和の胸中も知らずに、ご機嫌な声を上げる雅史。
「なに、仕事って」
「こないだ言ったじゃんか。『次の計画』立てんぞって」
「ああいうことだったら……もうあたしはやりたくない。言ったじゃん。バレたんだよ。あんたも警察に知られちゃってんだしさ、しばらく大人しくしてたほうがいいって」
眉を寄せながら言う美和に、雅史はあっけらかんとした笑顔で、
「だーいじょうぶだって、今度はそういうんじゃねえの」宥めるように言う。
「じゃあ、なに」
「金じゃねえんだ。だから、犯罪にもならない。鍵のついてる部屋とか、引き出しとか、そういうとこからな、ちょっと取り出して欲しいモンがあって、そういうの出来る人間探してる人がいるんだってよ」
「なにそれ……」聞いた美和は、ますます怪訝に眉を顰める。
金じゃないから犯罪にならないなどということがあるはずないし、怪しい目的なのは間違いない。第一、そういう人間を「探している」ってどういうことだ?
嫌な予感しかしない美和に、だが雅史は構わない。
「
「……ねえ、あたしのこの能力のこと、誰かに話したの?」
ますます胸を締め付けてくる不吉な予感に、美和は真剣な口調で訊ねる。雅史は、少しだけ困惑するように顔を曇らせたが、すぐにまた、いなすような笑顔に戻った。
「その辺は悟に任せてっから、詳しくは知らねえけど……なんだよ、能力を役に立てたいって、お前だって言ってたじゃん」
「役に立てるったって……」
「とにかくさあ、話、聞いてくるわ。任せろよ。ちゃんと良い仕事とってきてやるからよ。おれがマネージャー。そんでお前が『仕事』する。な、いいだろ?」
得意げに言う雅史は、本当にこれが最高にいい思いつきなのだと疑ってもみない様子で。美和はその能天気さに呆れながらも、返す言葉を思いつけずにいた。
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