第3章 かつて迷い、道を見失っていた私は
1.泥濘にじわじわと引き込まれていくような
日を置かず、
最初に「試験採用」と言われてこなした三件と、同様の「仕事」。対象はその時により、書類だったり何かしらのカード類だったり、USBメモリのような補助記憶装置だったり、
最初の数件は、簡単ではあるもののそれを必要とする側の事情の説明があったが、三、四日のうちに十件近くの依頼をこなしてから後は、ごく簡素な場所と対象物の指示のみとなった。
それでも
それは、半分は仕事に乗り気でない美和のモチベーションを上げるためのものであり、もう半分は自分に対する言い訳なのだと、美和は思った。
善悪の判断能力が薄く、自分に甘く、楽なほうへと流されがちな雅史。だが、自分の心身を決定的な危険に晒してまで反社会的な行動を取るほどの度胸はない。
そして、美和は。最初の数件の仕事に、それらしい理由がつけられていたこと。それが回をこなすにつれておざなりになっていくこと。そこに、簡単には抜け出せない
そうして心の中にわだかまりを感じながら、また一件。
マンションの五階の部屋。金庫の中にしまわれた、薄い冊子を。
目を閉じ、意識を集中させる。
人生の中でこれほど短期間にこの能力を何度も使うことはなかったが、それでも大した労力ではない。確実に、与えられた特殊な「仕事」をこなしていく自分に、少しばかり酔っているのかもしれない。そうも思う。
「おっし。美和。お疲れさん」
美和の手の上に出現した冊子をパッと取って、雅史が声を掛けた。そのまま内容も確かめずに、肩に下げたトートバッグにそれをしまう。隣で連携作業のように、悟はすぐに携帯電話を取り出してメールを打ち始める。
雅史はもう、いちいち感嘆の声を上げたりしないし、悟もそれほど驚かなくなっている。
そうして盗んだものがどういうものであるのかも。あまり関心もなくなっていた。
「おーっし。じゃ、行くか。悟? 次も来てんの?」
「おお。ちょっと待って。お。来た来た――つ、ぎ、は……吉祥寺の。――おお!」
着信音を立てた携帯を確認して、悟は目を見開いた。
「んだよ、いきなり」
「次からまた報酬上げてくれるってよ。一件で四十万だって!」
「四十万! スゲエな、一気に十万アップかよ……」
雅史も驚きに目を見張り。
「おい、美和! お前やっぱスゲエよ! 四十万だぜ、四十万!」
興奮した表情を向ける雅史に、美和は複雑な思いで頷いていた。
「ってことは、ひとり……」
「十三万だな。余り一万。どうする?」
悟は即答する。が、雅史は腑に落ちない顔で、「けどよ」と悟に向かって声を上げた。
「あのさ、言おうと思ってたんだけどよ。これ、三等分ってなんかおかしくね?」
「はあ? なにが」
「ってさ。仕事してんのは美和じゃん。美和が多くもらうべきだろ?」
悟は不満げに、眉を寄せる。
「つっても、仕事取ってくんの俺だぜ?」
「そりゃそうだけどよ」会ったこともない相手とメールでやりとりしているだけで「仕事を取ってきた」などと威張る悟に、しかし雅史はそういった反論を思いつけなかったようで、しばらく考え。
「けどさあ。美和の能力がなかったら、始まんねえわけだし……三人一緒ってのはな。報酬アップの機会にさ、ちょっと考えねえ?」
「雅史ー」悟はニヤリと唇の端を上げた。「なに。お前ら二人で俺より報酬多く取ろうとしてねえ?」
口調は冗談めかした軽いものだったが、その目は疑うような色を帯びていて、雅史は少々ムッとした顔になる。
「そうじゃねえよ」
「だってお前ら、一緒に住んでんだろ? 杉本が多くもらえば、後でお前もそっから取ればいいんだもんな。今だって、お前ら二人で合わせたら俺の二倍取ってんだぜ?」
「……じゃねえって。なに考えてんだよ」
「だいたいさ。何もしてねえっつったら、お前が一番何もしてねえじゃん。俺は連絡係。杉本は実行係。で、お前は?」
悟は悟で、雅史の機嫌を損ねることは避けたいらしく軽い調子で言うが、押し黙った雅史の顔には苛立ちがにじむ。だが、ここで「じゃあ俺の報酬はなしでいい」などという言葉は出てこないのが、雅史だ。悟もそれを分かっていて、雅史を黙らせたことで満足そうな面持ちになる。
次第に険悪になる空気に、美和は見かねて。
「いいよ、あたしは別に。ひとりだけ高くなくてもさ。これまでどおり、三等分でいいじゃん」
たしかにおかしな計算だとは思うものの、ひとりだけ多くもらうのは気が引けた。遠慮とも違う。この得体の知れない仕事に対する責任を、自分ひとりに押し付けられるような気がして、ためらわれたのだ。
「ほら、杉本っちもこう言ってるしさ」人の気も知らない悟は、得意げに雅史に笑いかける。「三人平等で、仲良く行こうぜ。さ、つぎつぎ」
調子よく言って肩を押そうとする悟に、雅史は一瞬だけ不快げな表情を見せたが、それ以上食い下がることはせずに歩き出す。
「吉祥寺だってよ。ちょっと乗り継ぎ面倒だな。タクシーで行くか」
ほかの二人の心境など気にしていない様子で、悟は気軽に言う。
「お金かかるじゃん。バスか電車に乗ろうよ」美和が反対の声を上げるのを、悟は馬鹿にするように笑った。
「なにケチくさいこと言ってんの、杉本っちー。俺らもう高給取りよ? ああそうだ、三人で割った余りの一万円、交通費ってことでどうよ」
美和は不満の視線を雅史に向けるが、雅史は「まあ、いいんじゃね?」とぶっきらぼうに頷いただけだった。
「使ったね」
「ん。使ったな」
街を包みだした闇に紛れて、二階建ての住宅の屋根の上に、小学生が二人。
「なにを引き寄せたのかな。紙みたいな感じがしたけど」
そのうちのひとり――屋根の上に足を投げ出して座っていたハルは、肩に下げていたバッグから小型の双眼鏡を取り出して、覗く。
「んー。ノートかな」
もうひとり。キョウはあぐらをかいて座り、視線を眼下の三人からちらりと向かいのマンションの上層階へと向け、それからハルのほうへとやった。「分かったか?」
「うーん……書類だね。契約書とか説明書とか、そういうのに見えるけど、内容はよく分からないな」
「書類」
「うん。確かにノートみたいに綴じてあるね。表紙がついてて……あ、しまっちゃった」
「なんでそんなもんが欲しいんだ?」
「さあ。大事な書類なんじゃないかな」
「大事な書類」
首を傾げるキョウの横で、ハルは双眼鏡をしまう。
「ともかく、あんまり良くないことに能力を使っている感じがするね。人の家から勝手にモノを取り出したんだ」
「泥棒か?」
「たぶん、そういうのだと思うよ」
「前は、金だった」
「お金と同じか、それよりも価値のある紙もあるんだよ」
「価値のある紙」
「うん。それを欲しい人が、きっとお金を出すんだ」
「そっか」
「そうだよ」
「斬るか?」
キョウの視線を受けてハルは、「うぅん……」と少し考える。
「キョウはあの、津本雅史クンと杉本美和サンと顔を合わせてるしね。今は出て行かないほうがいいと思うよ。監視するように言われてるだけだし。楠見に報告して、それからにしよう」
「ん」キョウは素直にこくりと頷く。
「あ、動くかな」
その場で会話を交していた眼下の三人が歩き出したのを見て、ハルは瓦屋根から立ち上がる。同時に、三人から数十メートルほど離れた場所に、ひとりの男の影が見えた。
「あ。
「船津さんだ」
警視庁の船津刑事。彼は、駅と反対方向へと歩いていく三人の後を追うように、移動を始める。気づかれぬように距離を開けて塀沿いを進んでいるが、屋根の上から見ているハルたちには、船津が彼らを追跡しているのがはっきり分かった。
「あの三人を追っているんだ」
「泥棒だからか?」
「うん、銀行強盗の件は『不起訴』で片付いているはずだから、ほかの件かな。それとも」
「聞いてくるか」
「ちょっと待った。船津さんもお仕事中だから、ジャマしたら悪いよ。俺たちも少し追いかけてみよう」
「ん」
またこくりと頷いて、キョウも立ち上がる。そのまま二人は屋根瓦を蹴り、隣の屋根へ、さらにその隣へと飛び移った。
都道の大通りに出ると、前を行く三人は歩道の端で立ち止まり、何かを待つ体勢になった。三人の死角に隠れ、船津は彼らの意図を察する。タクシーを拾うつもりらしい。
信号待ち二回分くらいの間があって、タクシーがやってきて停まる。確認しながら船津は反対側に走り、数台後からやってきた車を止めた。
乗り込みながら運転手に前方のタクシーを追うよう指示を出したとき。
「船津さん、こんにちは」
「船津さん、こんにちは」
閉まりかけたドアを押さえて声を掛けてきた子供たちに、船津の心臓が跳ね上がる。
「俺たちも乗せてもらえますか」
「えますか」
言いながら、もう乗り込んでいる二人。船津はあいまいに頷きながら心臓を鎮めた。
「ハルくんに、キョウくん。きみたちも、あの三人を、その……?」
「そうです」
同時にこくりと頷く二人。
「ずっと追いかけてたんだ」
「屋根とか塀とかを伝ってたんです」
「上から見てたんだ」
「船津さんも、上から見えました」
「ハハハ、きみらにはバレていたんだね」船津は苦笑する。
「だけど、タクシーに乗っちゃったから、もう追いかけるの難しいかと思ったんだけど。良かった、船津さんがいてくれて。車を追うのは大変ですから」
「途中ででっかいマンションがあるから、屋根はダメだったんだ」
「同じような車が多いから、見失うともう一度見つけるのは大変で」
「ハハハ……」
「一度、やってみたかったんです。『前の車を追ってくれ!』っていうの。ねえ、なんて言ったんですか? 本当にそう言ったんですか?」
ハルは少々声を潜めてそう聞いてくるが、船津は笑いを引きつらせつつ、運転手を気にした。
「ええと。きみたちは、二人だけ? 楠見さんは?」
「楠見は忙しいので、彼らの動向を探るのだけ俺たち二人でやります。杉本さんに接触するのは早めにしたいんだけど、なかなか時間が取れないそうです」
「くすみは試験だから、忙しいんだ」
「試験? 楠見さんが?」
「はい。あ、いえ。仕事です。一月から入学試験が始まるので、年末から三月にかけては忙しいんだそうです」
「『ろんぶん』もあるんだ」
キョウがそう言うと、ハルはキョウを振り返った。
「キョウ、論文って知ってるの?」
「知らない。なんだ?」
「宿題の、大きいのだよ」
「げー」
「ああそうか」船津は納得する。「それは忙しい時期に変な相談を持ちかけちゃって、申し訳なかったな」
「大丈夫です。楠見だから」
「くすみだから大丈夫だ」
「冬休み返上で仕事すると思いますから」
「ハハハハハ……」
「だけど、正月は『はつもうで』に行くんだ」
「船津さん、東京で初詣って言ったら、どこがお勧めですか? 俺たち東京のお正月は初めてみたいなもんだし、楠見も東京は長くないから、行ったことないそうなんです」
「え? そうだなあ、明治神宮は有名だけど、参拝客の数も半端ないしなあ」
「人の多い場所じゃないほうがいいなあ」
「ううん、だけど、ここっていうような場所は、どこも混雑するよ……そうだなあ……」いくつか社寺の名前を挙げている間、ハルの隣で何事か考えている様子だったキョウが、やがて不思議そうに顔を上げた。
「だけど、ハル。『はつもうで』って、なにすんだ?」
「ん? 初詣はね」
お参りだとか、お賽銭だとかおみくじだとかについて、こまごまと説明し始めたハル。運転手に聞かれては具合が悪い種類の会話から話が逸れたことに、船津は内心で安堵のため息をついた。
行き着いた先は、ターミナル駅に繋がる商店街。その中ほどで三人はタクシーを降り、駅の方向に進みだした。早々に営業を終えている店舗もちらほら混ざる中、三人が足を止めたのは、宝石店の前だ。二人の子供たちとの会話でだいぶ遠くへ行ってしまっていた緊張感を、船津はサッと心に呼び戻す。
「宝石屋さんだね」
「宝石屋さんってなんだ」
「キレイな石をつけたアクセサリーを売っているんだ」
「石」
「いろんな色の、キラキラ光る石だよ。学校の庭に落ちてるみたいなのじゃないよ」
「光る石」
「こことか、こことかにつける、こういう――」と手振り身振りで説明しているハルを横目に、船津は三人組みに向けて警戒感を強める。
宝石店の前で、一台の携帯電話か何かを覗き込むようにして額を寄せ合っていた三人は、やがて何事かを話し合いだした。
宝石を盗む相談をしているのか――? 油断のない視線を送りつつ、考える。彼らに疑いを向けたきっかけは、銀行強盗をはじめとする金銭の盗難。さらに楠見の話を受けて船津は単独で行動調査を始めたが、彼らを追ってこの二日ばかり、明らかに怪しい行動を目にしながらも決定的な瞬間を押さえることができない。
楠見の言う通り彼女が超能力者なのだとすれば、盗みの現場を確認すること自体が不可能。だが、船津には気になる点があった。
「ああ! 分かった。知ってる。宝石」
「そうか! キョウは偉いな」
頷いたキョウの頭を撫でて、ハルは船津に瞳を向けた。
「船津さん、俺たちジャマですか? 離れていたほうがいい?」
「いや。今のところ平気だよ。それよりも、きみたちは彼女が能力を使ったのが分かるんだよね」
「はい」
「それじゃ、使ったら教えてくれるかい?」
「分かりました」
「あ、入った」
三人のほうへと目をやっていたキョウが、声を上げる。宝石店の前にいたはずの三人組が、ひとりだけになっていた。あれは、渡辺悟という男。するとほかの二人が、入っていったのだろうか。
数分で、宝石店へと入っていった二人は外に出てきた。そして店の正面から隣のコンビニのほうへと少しずれた場所で、また相談を始める。
「下見をしてきたのかな」ハルが独り言のような口調でつぶやく。
「下見?」
「はい。引き寄せるモノのある場所と、そのモノの形が分からないと難しいんじゃないかというのが、楠見の推測です。だから、銀行の時は、わざわざ危険を冒して強盗に入ったんです」
ハルは、歳に似合わない大人びた口調で説明する。
「銀行にお金があることを知っていても、どこにどんな風に置かれているのか分からない。だから津本クンの持ってきたバッグの中に、いったんお金を入れさせた。駅前の男の懐からサイフを盗ったときも。盗られた男はタクシーを降りて駅にやってきた。ロータリーからはタクシー乗り場がよく見えたから、男が懐にサイフをしまったのが杉本さんからは見たんです。それで、その男を選んだ」
「なるほど」
「銀行のATMから盗み出さなかったところを見ると、『場所』というよりも、そのモノの『周りの様子』がある程度は把握できないと駄目なのかもしれません。ああ、これも楠見の予想です。だけど、それだとすると。……さっきマンションから書類を盗み出したでしょう?」
「ああ」
「あれは、どうやったのかな。マンションの内部の状況を知っていたんだろうか」
ハルは、キョウと顔を見合わせて首を傾げた。
船津としても、それこそが、気になっていた点だ。
口もとに拳を当てて考え込むようにしだした船津を見て、ハルは「いえ、でも」と続ける。
「それは単なる推測です。どのくらい分かれば可能なのか。細かい発現条件なんかは、これだけのケースでは判断できません」
「ふむ。そうだろうね」
「想像じゃ埒が明かないから、今週中には彼女に接触したいって、楠見が」
小学生とは思えない理路整然とした口調で話すハルに苦笑しながら、
「ともかく――」船津はコンビニに入っていく三人を目で追って、腕時計を確認した。「彼らは閉店まで待つつもりだろうね。宝石を盗み出すなら、周りに人がいなくなってからのほうが、より安全だ。きみたちは、まだ時間は大丈夫?」
「はい」
「遅くまで悪いけれど、少し付き合ってもらってもいいかな。楠見さんには連絡しておくよ」
「お願いします。船津さんと一緒って分かれば、楠見も途中で帰ってこいって言わないと思います」
「能力使うとこ、もう一回見るんだ」
「それじゃあ、閉店時間を確認してくる。ついでに何か飲み物でも買ってくるよ。何がいい?」
「ありがとうございます。ホットココアがいいです」
「俺はおしるこ」
「おしるこ?」
「ハル、おしるこ知らないのか?」
「知ってるよ」
「そっかー」
心持ちがっかりした様子のキョウに、ハルは慌てたように手を振った。
「あ、でも飲んだことはないんだよ! 俺もおしるこが飲んでみたいな!」
「おしるこ二つだね」船津は笑って、宝石店に向かった。
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