7.神剣の選んだ能力者が、まだ子供だってだけだ
木製の扉が粉々に砕け散り、破片の散らばった入り口で。楠見と、その襟首を掴んでいる手と、その手の主を眺め渡して、キョウは特段表情を変えることなく、室内へと足を踏み入れた。
つかつかと楠見のもとへと歩いてきて、小さな紙袋を差し出す。
「くすみ。エクレア」
「あ、ああ……」
いつもの顔で言われ、一瞬状況を忘れかける。あいまいに笑って手を差し出そうとしたところで、楠見を拘束したままになっている男が手に力を込めた。
その手を見て、キョウがムッとしたように大男を振り返る。
「離せ」
「……なんだと?」
大男は眉を吊り上げた。が、キョウは動じない。
「エクレアが、食えないだろ」
「お、おい、キョウ……」
戸惑いながら、楠見は声を上げた。手を離してもらったところで、エクレアが食える状況ではない。
ちょっと状況を考えるということを、この子供に教えなくては。
男が、「クッ」と喉の奥で笑い声のような音を立てた。そうして大きく唇の端を持ち上げる男。その凶悪そうな笑いが、楠見に緊張を呼び戻させる。
「キョウ、お前はちょっと、向こうに行っていろ」
そうは言ってはみたものの、この状況がただ事に見えるはずはなく、キョウは楠見へと顔を向けて不満げに眉根を寄せた。
「けど、こないだの硬いサイだ」
(硬い……?)
そうだ。先日、駅前で見かけたとき、たしかにキョウはそう言っていた。
先ほど腕を振り払おうとしたときの、あの妙な手ごたえ。それではこれが、この男の能力――?
サングラスの奥を覗き込むように目をやった楠見から視線を外し、男は唐突にその手から楠見の襟首を解放した。壁にもたれ、楠見は小さく息をつく。
が、安心している余裕はなく、男の目は真っ直ぐにキョウへと向けられていた。新しい獲物を見つけたとでもいうかのように、口にはやはり、獰猛そうな笑み。そして。
また、「ククッ」と喉の奥で笑い声を立てる。
「ガキ。貴様から眠らせてやる」
言うが早いか、腕を引き拳を突き出す男。キョウは、その目に留まらぬほどの動きに俊敏に反応し、真上に跳んで、自分を狙って繰り出された男の腕に軽く足を着くと、ヒラリと跳び上がり男の頭上を越えて執務机の上へと降り立った。机の上に、手に持っていたものをぽいっと置いて、わずかに高くなった位置から男を見据え。
その右手に。
見えない鞘から抜き払うように、ゆっくりと細身の刀が出現する。
素早く背後を振り返りキョウに向かい合った男が、かすかにサングラスの奥で、驚きに目を見張るのが分かった。
「くすみ」
男を見下ろしたまま、キョウは胸の前に刀を水平に構えて呼ぶ。そして、その瞳だけわずかに楠見へと動かして。「斬るか?」
「ああ、そうだな――」楠見は体勢を立て直し、男に向かう。「
男の視線が、ほんの少しだけ楠見のほうへと動く。
「サイの能力を奪う」慎重に、楠見は男を見据えて言葉を継ぐ。「斬られれば、その能力は消える」
「能力が、消える、だと?」
男がまた不可解そうに眉を顰めた。
「まさか。なぜ、こんなガキが……」
「神剣の選んだ能力者が、まだ子供だってだけだ」言って、楠見は軽くため息をついた。「もう一度聞く。今すぐ引くなら、見逃してやる。そうして彼女たちからは手を引き、犯罪行為をやめろ」
この凶悪そうな男が、こんな脅しで大人しく犯罪行為をやめるとも思えなかった。が、ここでぶつかり合うのは避けたいというのが楠見の本音だ。
キョウが、今ここでこの男に勝てる保障はない。少々、条件が悪かった。
しかし。
男は、さらに可笑しそうに、ニヤリと笑いを広げる。
「面白い」つぶやいて、次の攻撃の構えに身を沈める男。「斬れるものなら――」
「キョウ!」
「ん」
「――斬ってみろ!」
吠えた男に鋭い視線を送って、机を蹴って跳び上がり、キョウは両手に刀を振りかぶって男の頭上から斬り掛かる。が、男は間一髪のところで身を翻してかわした。床に着地し身を低くして、キョウがそのまま横に薙ぎ払った刀を、これも、男は飛びずさって避ける。
着地の反動で立ち上がりざまに、間合いを詰めて今度は下段から刀を返して振り上げるキョウ。だが、男は体格に似合わぬ身軽さで、軽々とそれを避けた。
間髪入れずにキョウは剣戟を繰り出すが、間合いの狭いキョウの刀は、敏捷に避ける男になかなか届かない。
この子供の運動能力は驚異的だが、ここはその全力を発揮するには狭すぎるのだ。
しかし男にしてみても、それは同じ。さほど広いとは言えない空間に家具や什器の配置された室内では、刀を避けるのに手一杯で、体勢を立て直し優勢に持ち込む隙を作れない。
その上、軽い身のこなしと速いスピードで次々と繰り出されてくる刀に、有効な攻撃方法を見出せずにいるのか、キョウの刀をかわすことに徹している。
だが。男の顔に、焦燥や苛立ちはない。それまでと変わらぬ余裕の笑みを浮かべ――。
再度、机に飛び乗ったキョウが、またそれを踏み台にして斬り掛かったとき。
男の笑みがさらに大きくなったのを、楠見は見逃さなかった。
「キョウ――」
不吉な予感に押されて思わず声を上げるが、キョウは止まらない。男はかわすことをやめ、その場に留まり身を庇って腕を振り上げる。そうして振り下ろされた刀が初めて男の腕に触れた瞬間。
それは、刀が肉を斬りつけたものとは思えない、不気味な音だった。
金属と金属が、ぶつかりあったか。あるいは岩にでも叩き付けたかのような、高く大きな音が、室内に響く。
「あれっ?」
男の腕に当たった刀の動きが一瞬止まり、キョウが小さく声を上げた。
弾かれるようにして、キョウは後ろに飛び退く。難なく着地したものの、身を屈めてすぐには次の攻撃に移らず、楠見に視線を上げた。
「くすみ。こいつ、やっぱ硬い。斬れない」
「……なに……?」
男に目をやる。男はやはり、不気味な笑みをたたえて愉しそうに。
「これで終わりか?」
なんの消耗もなく、来たときと同様、余裕の態度を崩さない。
わずかに身を屈め、油断なく男を睨み据えているキョウに、男は正面から向かい合って。
「ガキ。やはり目障りだ。さっさと眠れ」
言い終わるか終わらないかのうちに男は、再び刀を上段に構えたキョウに向かって踏み出した。
「キョウ、
声を上げるが、キョウは一旦跳び退いて拳をかわすや、また男に飛び掛る。
男がわずかな動きだけで、刀をかわす。剣筋を見切っているのか。
非常に不味い。楠見は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
相手の能力を無効化することができるという点で、キョウはほかのどんな能力を持つサイよりも優位だった。が、それが効かないとなっては、分が悪すぎる。
キョウの剣は一撃必勝であるべきもので、持久戦に持ち込まれれば勝機は薄い。彼の持ち味である機敏さ、身軽さは、言い換えれば子供の小さな体格と腕力のなさを補うものであり、力比べになっては勝負にならないだろう。
あるいは――。
執務室のドアをぶち破った、彼のサイコキネシスの能力。
キョウが能力を全開にすれば。この少年に勝てるサイは、世の中におそらく何人もいない。
だが、それはさせられない。
「くすみはっどっか行けっ!」
男を追うようにして刀を振るいながら、キョウが楠見のほうを見ずに言う。この言葉足らずの子供の酷い言い様は、「危ないから隠れていろ」という意味なのだろうが、そうかと言って、子供を戦わせておいてひとり逃げるわけにも行かないではないか。
これ以上、継続させるべきではない。
楠見は壁に張り付いて、じっと二人の動きを見守っていたが――。
何度か刃先で身をかわされ、あるいは腕に弾かれながら攻撃の姿勢を持ちこたえていたキョウが、壁を蹴るようにしてさらに大きく跳び上がり、両手で柄を握り大上段から斬り掛かった。
男がまた、腕をかざす。物打のあたりがぶつかって火花を散らして。
目に留まらない素早さで反対の手が伸びて、男が刀を素手で掴んだ。
その刀を棒のように振って、壁に力任せに投げつける。
「わっ」小さくつぶやいて、刀を握り締めたまま宙に投げ出されるキョウ。
「キョウ!」
慌てて壁から身を離して楠見は叫ぶが、キョウは勢いよく背中を壁に打ちつけ、床に落ちた。
その手には、既に刀はない。咄嗟に消失させたのだ。
「ててて……」
つぶやくように声を上げながら壁に背をつけてぺたりと座り込んでいるキョウに向かい、男は足を進めながら右手に拳を構える。
楠見は弾かれたように床を蹴り、飛び掛って、持ち上げられた男の右腕にしがみつき、その拳の動きを妨げた。人の腕であるはずなのに、鉄にでも取り付いているかのような、妙な感触。
男は煩わしそう楠見を一瞥し。
その腕が、楠見が取り付く間ににわかに硬度を変える。
(――え?)
違和感を感じ、わずかに瞠目する楠見。思考と行動が
「ぐッ」
呼吸が止まり、意識が遠のきかけたところで右腕を一振りされて、呆気なく楠見は振り払われた。だが。
壁に背をつけ、床に座り込んだままのキョウ。それに向けて、男が改めて拳を握りなおしたのを、苦しい息の下で認識し、必死にそこへと割り込む。
左の側頭部に、激しい衝撃。視界に火花が散るように光って。
ぐらり、と体が傾くのを、本能か何かが勝手に認識して、完全に体が地に伏す前に腕をついた。
殴られた――らしい、頭を押さえて。徐々に視界が戻ると、すぐ目の前に。目を見開き、震えるような視線で楠見を見つめる子供の顔。ぼんやりと。
「くすみっ」
泣き出すのだろうか、と、どこか朦朧とした意識の片隅で思う。が、キョウはゆっくりと一度、瞬きをして、その瞳を、楠見の背後にまだ立っているらしい大男に移し。
瞳に浮かぶ色が変わる。困惑か、怒りか。この少年が、日ごろほとんど見せることのない、強い、はっきりとした光。楠見を殴った男に向けられた、殺気――。
不味い、と。ここ数分の間だけで何度目かの緊張を覚え。
肉体と思考とを引き剥がそうとする何かに、必死で抵抗する。
「キョウ、やめ――」
手を伸ばすが、無理やり起こした頭が、しかし、またぐらりとおかしな具合に揺れる。視界が歪んで。
瞬間。
背後。キョウの視線の先で、地を震わすような爆音が轟いた。
背後で何が起きているのか。完全に機能を停止しようとしている意識のどこかで、あいまいに想像しながら。
その伸ばした指先はキョウに触れることなく、楠見の意識は暗闇の底に深く沈みこんでいくように、消えた。
「すみません、誰かいませんか?」
返事のない室内に向かって、もう一度呼びかけてみる。
カウンター式の窓口から覗き込んで、誰もいないことに安堵半分、失意半分のため息をついたときだった。
唐突に。
ガラスやコンクリートや鉄や、そんなものが砕けるような轟音が耳をつんざく。
どこか、遠くはない場所で。何か大変なことが起きている。
目の前の事務室のような部屋の向こう側、窓の外からその音は聞こえたようだった。
美和は体を硬くして、音のしたほうを確認しようと夢中で室内に入っていた。
背後の廊下を、誰かが走っていくような足音が聞こえた。
窓の外は、芝生の中庭。
庭を挟み、建物がL字に曲がった対角にある二階の部屋の窓ガラスが砕け、粉々になったガラスが中庭の芝生めがけて飛び散る。
咄嗟に中庭に抜けるガラス張りの通用扉を開けて、二、三段ほどの石段を降り、その窓の割られた部屋に視線を向けたときだった。
割れた窓から、大きな体が飛び出してくるのが目に入り、美和は身動きが取れなくなる。
出てきた人物は、二階の窓から難なく飛び降り、芝生に足を着いた衝撃を身を沈めて消すと、動けずにいる美和へと視線を向けて。目が合って。
笑った。
(逃げなきゃ――!)
そう思うのに、体が動かず、美和はその場に立ちつくす。
何を思う間もなく、動きを取ることもできないうちに、男が地面を蹴って美和へと向かって駆け出した。
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