6.この現象は、科学的に証明されている

 一年前も二年前も、秋の終わりから冬に掛けての時期は、楠見の二十五年ほどの人生の中でも最も大きな問題を抱えていて、季節を楽しむゆとりなどまったくなかった。

 祝祭と休暇の雰囲気に賑わう街を横目に見ながら、日本の年末年始とはこのようなものなのか、と客観的に思ったのをぼんやり覚えている程度だ。


 そして、三回前のクリスマス。それは、八年超に及ぶ楠見のアメリカ生活における、最後の冬だった。

 大学のキャンパスは、クリスマス休暇を前に活気付き、冷たい空気の中にあって行き交う人々の表情も会話も華やいでいた。


 そんな中、超心理学パラサイコロジー研究室は静寂に包まれていた。

 居合わせた人々は息をつめ、目の前で行われているひとつの実験の中継映像と音声に意識を集中させている。

 モニターのひとつに映る、完全に密閉された空間の中で目も耳も塞がれた一人の被験者。モニターの前に集まる誰かの小さなつぶやきが、いや、言葉にしない思考さえも、彼の意識に影響を及ぼしてしまうと恐れているかのように、誰もがみな無言で無心だった。


 すべての外部刺激を遮断された被験者が、ぽつりぽつりと言葉を落とす。

『海、かな――そう。海。深い青。広くて、遠い……水平線』どこか楽しげに、夢に見ているイメージでも語るように、言葉を手繰る被験者の若い男。『あ、これは船かな。かなり大きな船だ。左端にある港へと入ろうとしている』


 取り留めなく紡がれる言葉を、手元のメモに書きとめていく実験者。


『船体には、紺色のラインが入っていて、甲板を人が行き来しているな』


 そんなやり取りは、それから十分以上にも渡って続けられた。次第に具体的に説明されていく、被験者の脳裏にある風景。彼の画像だ。

 画像の実物は、小部屋の外、被験者の目には触れない場所にあり、そこに映し出されたものが、いま彼が語っている通りのものなのかどうかは、被験者のみならず誰も知らない。

 中継映像を映すモニターの前に座っている女性が、手慰みのようなのんびりした手つきで、スケッチブックに被験者の語る情景を描いていた。青い海に、大型の客船。画面の上半分を占める青空には、大きな雲が漂い白い鳥が飛び交う。




『オーケー、マイク。もういいよ。お疲れさま』別のモニターに映された実験者が声を上げて、小部屋のドアを開ける。


 出てきた男――マイクと呼ばれた被験者は、居合わせるほかの者よりもかなり若い、高校生くらいの少年だった――に手を貸しながら、『ターゲットの画像を』と他方へと呼びかけると、モニターに第三の人物が現れて実験者に薄い封筒を差し出した。


『今回のターゲットは』実験者の男は、封筒を持ってきたアシスタントと二、三言交して、封筒から取り出した写真を少年に見せ、カメラに向かって提示する。


 映し出された「ターゲット」。モニターのこちら側で息をつめていた者たちは一様に落胆したようなため息をついた。


 写真は、窓ごとに明かりを点したビルの並ぶ夜の都会の一本道を、白い車が画面奥へと向かって走っていく、というものだった。


『はあ』マイクは先ほどまでとは打って変わった気落ちしたような声を上げたが、すぐに元気を取り戻す。『でも、乗り物が出てくるってところは当たってたよね』


『そうだね』

 実験者の男は、苦笑気味に肩を竦めた。


「オーケー、休憩にしよう。続きは十五分後から。実験者はジョン・オーウェン、被験者はエリザベス・クラーク」


 モニターの前に座っていた金髪のプロジェクト・リーダーの男が、声を掛けながら立ち上がると、数人が同様に席を立ち、集まっていた輪が解ける。そのままここまでの感想やこれからのスケジュールを語り合いだした研究者たちのグループを離れ、楠見はひとり出口へと向かった。


(まあ、こんなもんだろうな)内心でつぶやく。

 楠見の経験上知っている結果と近いものが得られそうにないことに半ば落胆し、半ば安堵していた。


 同じ実験を一日のうちに数セット見た。あらかじめ準備された、被験者の知らないいくつもの画像の中から、ターゲットとして選ばれたものの図柄を当てるという、これは透視能力クレアボヤンスの実験だ。

 被験者を小部屋に隔離し感覚を完全に遮断するのは、被験者が「超感覚」以外の方法でターゲットの画像を知ることができない――不正の起きる余地がないようにするためである。


 アメリカでは超心理学の研究は日本よりもずっと盛んで、様々な風評や批判に耐えて精度を練り上げながら一世紀以上もの間続いている。ただし、実験対象はほぼもっぱら「普通の人間」。一般の人間の中にある「超感覚」を探ることで「超常能力」の有無やメカニズムを探ろうとするもので、いわゆる「超能力者」と自称し他称される人物が被験者になることは滅多にない。


 百年の研究の成果として、「超感覚ESP」というものは実在するという感触までは得られているが、その現象に対する科学的解明はおろか、実在の立証にすら至っていない状況だった。


 人の輪の端に立って難しい顔をしていた研究室のボス、白髭のドクター・ウィルソンが、よく通る声を発した。


「マシューはまだか? まだ来ないのか」顔を見合わせて首を横に振るメンバー。ドクターは苛立ったようにつぶやく。「まったく。どこで油を売っているのか。立ち会うように言っておいたのに――」


 そして、研究室を出て行こうとする楠見にすれ違い際、声を掛ける。

「クスミ。きみの研究室に戻るのかい?」


「ええ。見学させていただいてありがとうございました」

「いや。構わんよ。それよりマシューがそこらへんにいたら、早く来るように伝えてくれ」

「分かりました、ドクター」


 苛立ちを抑えきれない顔のドクターに、苦笑しながら返して、楠見は実験室を後にした。




 向こうから、鷹揚な足取りで歩いてくる背の高い男が目に入る。


「マシュー」楠見が声を掛けると、男は彼独特のシニカルな微笑みを浮かべて右手を上げた。「どこにいたんだ。ドクターがご立腹だよ?」


 笑顔で咎める楠見の目の前までやってきて、マシューは片眉を上げた。

「また見学かい?」呆れたように言って、マシューは真顔で両手を広げる。「朝から何セット実験をやってる? 結果は同じだろう。どうだった、今の実験は」


「駄目だね。多分トータルで、これまでに出ている結果以上のものは出ないだろうな」

「だろう」マシューは、つまらなそうに鼻を鳴らす。「同じような実験を何回重ねたって、無駄さ。何か新機軸がないことにはね。まったく、ご苦労なことだ」


「研究室のエースが、そんなことを言ってていいのかい?」楠見はそんな年上の友人の様子に苦笑する。「ともかくドクターがお呼びだよ。早く行って謝ったほうがいい」


 そう言うと、マシューは苦い顔になって、小さく舌を打った。


「おい。クスミ。俺はタバコ臭くないか?」

「ん? 別に感じないけど」

「クソッ、駄目か。ちょっと一服してから行くから、付き合え」

「はあ?」


 踵を返したマシューに、訳が分からないままなんとなく続く。

「いいのかい? これから研究室に行くってのに」


 超心理学研究室の室長にしてこの男のボスであるところのドクター・ウィルソンは、嫌煙家として知られていた。彼のもとへと行くのに、タバコを吸っていたことを隠すのなら話は分かるが、もっとタバコ臭くなってから行くというのはどういう了見だろう。


 が、マシューは不思議そうな楠見を横目で見ながら、「だからさ」と苦々しそうに眉を寄せた。


「サムはなあ」キャンパスの片隅に追いやられ、風に吹き晒される喫煙コーナーにたどり着くと、マシューは苦い口調でドクターのファーストネームを呼び捨てにした。

「俺を、シャーロット嬢の相手にどうかって考えてるんだ」


「へえ」楠見は思わず感嘆する。「いいじゃないか。可愛らしいし、賢いし、魅力的だ」


 シャーロット嬢は、ドクター・ウィルソンの愛する一人娘。同じ大学の心理学部に在籍していて、研究分野は父親とは違うものの来年は大学院に進学すると目されていた。

 同時に、友人のささやかな反抗が可笑しくて、つい笑ってしまう。娘を押し付けられないように、アウトローを演じようとしているらしい。


「そう思うなら、お前がもらえ」

 マシューは笑い声を上げる楠見を不快げに睨むと、タバコをくわえて火をつけ、それからその箱を楠見へ差し出した。「一本どうだ?」


「俺はいいよ」楠見は遠慮する。「来年には帰国だしね。帰国後の職場はここと同じ、ほぼ全面禁煙だからさ。クセにならないようにしてるんだ」


 チッと面白くなさそうに舌打ちし、マシューはまた顔をしかめた。


「そうなんだよな。日本に帰っちまうんでなければ、お前とシャーロット嬢はお似合いだと思うんだが。歳も同じなんじゃないか?」

「そりゃないよ。ドクターは、きみがいいんだ」

「いや、お前でも構わないと思うぞ」

「なんだそれは」

「ドクターのお気に入りだ。常々、ライリーみたいな石頭の古典的行動主義者の研究室にお前を置いておくのは惜しい、超心理うちに引っ張れないかって言ってたんだ」


 楠見はまた苦笑した。

「ハハ。ドクター・デイビスはそこまで石頭でも古典主義でもないよ。それに、有り難いけど、『本国』からの指示でね。『超心理学』の博士号は許してもらえなかったんだ」


「父親の命令か?」マシューは白い煙を吐き出しながら、横目で楠見を見る。


「まあ、そんなとこかな。超心理パラサイコロジーは日本じゃまだまだ受け入れられていないしね。そもそも本音を言えば、経済学とか法学とかをやらせたかったらしい。認知心理学コグニティブでも最大の譲歩だ」


「ハッ、まあ、そりゃな。アメリカここだって、まだまだ超心理が認められてるとは言い難いからな。漫画みたいな話だ、子供ガキの妄想だって言われるし、俺も実際そうかとも思う。けどな。それにしたって。金と法律、か。金持ちの考えることはつまらないよなあ。息子は親の目を離れたところで、漫画みたいな他人の研究室に入り浸ってるってのによ」


 超心理学研究室イチの懐疑主義者スケプティックと自称するこの年上の研究者と、楠見はなぜだか知り合った当初からウマが合った。

 だから、アメリカにやってきて以来、いや、日本にいたころだって他人に話したことのなかった生家の秘密を、打ち明けかけたことがある。


『俺の家はね――』


 どこか大学の近くのバーで、安い酒を飲みながらの会話だったと思う。自分の専門でもない超心理学に興味を示し、頻繁に研究室に見学に来る楠見を不思議に思ったマシューから、その理由を尋ねられたときのことだった。

 大真面目な顔で切り出した楠見に、最初マシューは、彼特有の不遜な面持ちでいかがわしそうに横目をやった。


『実は代々超常能力PSIを生み出す家系なんだ。実験でやってるみたいな、通常値を少し上回る程度のものじゃないよ。本当に手を触れずに物を動かしたり、他人の心理を声を聞くみたいに正確に読むことができる能力者をたくさん知っている』


 何を言い出したんだ、こいつは。マシューはそんな言葉を顔に貼り付けて、眉を寄せた。


『俺にはその能力はないけれどね。そういう能力者と、子供のころから付き合ってきた。うちは、PSIサイの――そう、業界と言っていいかな、その中でもかなり大手でね。サイを集めて仕事をさせる組織を作っているんだ。もう百年以上続いている。能力を持て余しているサイを保護したり、サイ犯罪を防いだり解決したりする仕事だ。サイ業界の警察兼警備組織だね』


 そこでマシューは、酒のグラスを取り上げようとして、失敗して倒した。

 通りかかった店員がテーブルにこぼれた酒を拭き、新しいグラスを持ってくるのを待って、楠見は続ける。


『俺の父親は、その組織のボスなんだ。もちろんこれは裏の仕事として、表ではいくつかの会社や学校を経営している。で、その組織を継ぐように、俺は言われて育ってきたんだよ』


 そう言って微笑みかけた相手は、完全に固まっていた。


『ハッ、なに、言ってやがる。……お前。……大丈夫か?』

 たっぷり数十秒経って、引きつった顔でようやくそんな言葉を絞り出したマシューに、楠見は思わず噴き出した。


『ハハハ。なんてな。そんな漫画をこの間読んだよ。けっこう面白かった』


『ハッ――』マシューはやっと顔色を取り戻した。『クソッ! チクショウ!』


 新しい酒を一息にあおると、乱暴に音を立ててテーブルに置く。隣の席のカップルが、その音に驚いて一瞬こちらを見た。


『チクショウ! やりやがって! そう、日本じゃそんな凝った設定の漫画がウケるらしいな』

 言い終わるころには、マシューも顔に笑いを取り戻していた。


『ああ。いろんな設定で、いろんな超能力者が小説や漫画に出てくる。なかなか勉強になるよ』

『おかげで我らが超心理学パラサイコロジーは『非科学』扱いだ。フィクションの世界で人気が出すぎたんだよ』


(そう、それでは助かっているんだけどね)


 悔しさと愉快さを同居させたような顔で、次の酒を注文する超心理学者の男を見ながら、楠見は微笑んだ。

 サイを、世の中は信じない。だからサイは、世の中に紛れて普通に生きていける。


 楠見の心の中にもまた、それらを研究して解明したい科学的探究心と、世に暴き立ててはいけないものなのだという自制心が、長年、上手い具合に折り合いをつけて同居していた。

 だから、父親の言いつけに従い日本でも広く価値を認められる研究をしながらも、超心理学の研究室のあるこの大学を選び、その研究室に足を運んだ。

 ひとつには、自分の探究心を満足させるため。もうひとつには、サイが現代の科学でどこまで解明させるのかをその目で確かめるため。




「おっと。いい加減でドクター・デイビスのところに戻らなけりゃ。向こうも次の実験に入るころだ」


 腕時計に目を落とし、楠見は言った。マシューは短くなったタバコを灰皿に乱暴に押し付け、「おい、俺はさっきよりもタバコ臭くなったか?」と訊く。


「さっきよりは、多少、かな。それよりもこのコーナーの臭いかもしれないし、分からないよ」

「認知心理学の研究者が、そんな曖昧なことを言ってどうする」

「無茶を言うな。だいいち、そんなにタバコ臭くなっちゃ不味いだろ。シャーロット嬢のことはともかくとして、ドクター・ウィルソンに嫌われちまったら、きみだって困るだろ?」

「サムは研究者としては一途な人間なんだ。学術外のことで他人を差別したりしない。人間として、ちょっとどうかなと思われるくらいがちょうどいい」


 楠見は呆れてため息をついた。

「そんなに上手く行くもんかね」


「行かせるさ。俺の実力でな」マシューはまた不遜な口調で断言する。が、すぐに少々情けない顔になった。「ただ、今はシャーロット嬢のことだ。それをどうにか諦めてもらわんとならん」


「どうしてそんなに嫌なんだい?」

 喫煙所を後にして歩き出し、そう訊きながら、楠見は「ははあ」と思った。


「心に決めた女性ひとがいるわけか?」

「チッ、すぐにそんな話に持っていきやがる。クスミ、お前さんも若いな」

「そうなんだろう? 秘密なら、誰にも言わないよ」


「ああ。だろうな。俺がいま、『秘密だから誰にも言うなよ』って言ってその秘密を打ち明けるとするだろ? そうすると、お前さんが誰にも言っていないにも関わらず、明日には研究室の全員がそれを知っているって事象が確認されるわけさ。この現象は、科学的に証明されている」


「いないよ」

 笑った楠見に、別れ際、マシューは片手を上げた。「まあ、そのうちな」


「楽しみにしてるよ」


 超心理研究室へ向かって歩き出したマシューの後姿を見送りながら、楠見はぼんやりと考える。

 研究室のボスである教授に、若手研究者として認められている彼。それが教授の娘と結ばれれば、彼の地位はより強固で安泰なものになるだろう。育ちも良く聡明なシャーロット嬢は、新進の研究者のパートナーとして相応しくもある。

 それを蹴ってまでマシューという人間が結ばれたいと思っている相手というのは、どんな女性なのだろう。

 詮索するつもりもないが、あの友人の選んだ女性というのには興味はあった。


 楠見がその女性をマシュー本人から紹介されたのは、わずか数日後。クリスマス休暇直前の、学生街のミュージックバーでのことだった。

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