4.楠見は俺とハルのパトロンか?

「調べてみたんだが、見つからないもんだなあ」


 テーブルに片手で頬杖をついて、楠見はため息混じりに言った。

「なかなか、学費全額免除とか、そういうのはな。少しばかり補助してくれたにしたって、四年間通えば一千万近く掛かるんだぞ? 普通に共働きの家庭でも子供を音大にやるのは大変だってのに、貯金どころか収入すらない高校卒業したての人間が進学するってのは、難しいよなあ」


 頬杖のままぶつくさと独り言みたいに言葉を継ぐ楠見の前に、「はいよ」とコーヒーカップが置かれた。

「ああマキ、ありがとう」反射的に礼を述べたものの、カップの中身に目をやって、楠見は眉を顰める。

 中の液体は香ばしい湯気を立てているが、コーヒーにしたってちょっとどうかと思うくらいに色が濃い。この部屋で出されるコーヒーは、いつもこうなのだ。朝、大量のコーヒーを淹れて、午前中いっぱいコーヒーメーカーでサーバーごと保温し続ける。

 朝は、淹れたての美味いコーヒー。今どき――昼ごろになると、こってり味の、異様に喉越しの悪い「超コーヒー」が楽しめるというわけだ。


 一応カップを手に取って、恐る恐る一口飲んでみた。苦酸っぱいそれに顔をしかめる楠見。

 カップを置いた男――マキは、そんな友人の反応を気にする様子もなく、楠見とテーブルをL字に挟んだ位置に腰掛けた。片手で首から提げていた聴診器を外し、コーヒーを一口啜って。

「どこも金が掛かるよねえ、大学ってのは」

 親に金を掛けさせて医学部を出た男は、そう言ってまた、楠見のものと同じ味であるはずのコーヒーを何食わぬ顔で啜る。


「ああ。特待生になれるとか、学費免除ってレベルの奨学金が受けられるのは、学業優秀、実技優秀なほんのわずかな学生だ。金がないから必要なのに、金を掛けて他人よりも高い教育を受けてきた学生たちよりも、いい成績を取らなきゃならないんだぞ? 実技もな。彼女は力はあると思うんだが、子供のころから専門家のレッスンを受けてきた者たちと比べたらテクニック的には劣るし、知識もない。けれど入試や奨学金選抜は、そういうところで評価される」


 もう一口コーヒーを飲もうとして、やめて、カップを置くと楠見は腕を組んだ。

「埋もれた才能を発掘して引き出すってことに、不向きなんだ。日本の教育業界のシステムは、いろいろと」


 ふて腐れたように顔を歪める楠見に、マキは苦笑を見せる。

「確かにね。けどまあ、大学にこだわる必要ないんじゃないか? 芸能プロダクションだとか、オーディションを受けるとか。よく知らないけど、歌で生計を立てたいならそちらのほうが近道じゃないのかな」


「もっともだ」腕組みのまま、楠見は頷く。「だけど、そっち方面となると、まったく伝手がない。信用できない業者も多いっていうしな。誰か詳しそうな人を知らないか?」


「俺が知るわけないだろう」

 マキは鼻を鳴らすと、メガネを押し上げて、楠見が来る前まで向かい合っていた書類を手に取った。ペンを右手に必要事項を記入していく白衣の男に何気なく目をやりながら、ぼんやりとコーヒーをまた口に入れ、入れてからその苦さを思い出して後悔した。


「……まあ、これを期に、緑楠うちの奨学金制度も少し見直してみようかな」


 独り言のように声を出した楠見に、マキが書類にペンを走らせながら笑った。


「ハハハ。また仕事を増やしたな? それはいいけれど、彼女の問題の解決になるわけじゃなし、無理して過労で倒れんなよ」

「そうなんだよなあ……うちに芸術学部があれば、どうにかしてねじ込んでやるんだけどな」

「……ハハハ……」

「作るか?」

「……楠見……?」

「しかし、新学部を設立するのに何年かかる? とても待っていられない」

「おい……」

「でも、この際、悪くないな。芸術学部か……ハルやキョウがもしも将来そういう道に進みたいと言い出したときに、うちに芸術学部がないんじゃなあ」

「おーい」

「いや、それより今は、彼女の問題だ。――なあ、マキ」


 楠見は背もたれから身を起こし、テーブルに身を乗り出した。

「彼女の学費、俺が援助するんじゃ不味いかな」


「……うん。そのうちそう来るんじゃないかと思った」マキは書類に目を落とし、コーヒーを啜って。「やめておけ。そんな筋合いはない。名目もない。ハルやキョウとは違うんだし」


「だよなあ」また背もたれに寄りかかる。


 大人しく引き下がった楠見に、マキは目を上げた。

「なあ、楠見。どうしてそんなに彼女のことを気に掛けるんだい?」


「ん? どうしてって……」

「サイだから、か?」

「そりゃそうだ。サイの問題を解決するのが、俺の仕事だ」


 当然だ、と楠見は頷く。「だけど」と、マキはペンを持ったままの手に顎を載せ、わずかに顔を前に突き出した。

「『サイの問題を解決する』だけだったら、彼女の将来のことまで心配してやる必要はないじゃないか。犯罪をやめさせて、それで危険があるようならばそれを取り除く。そこまでは分かるけどさ。進学云々のことまで考えてやる必要はあるのかな」


「そりゃあ、まあ……」真顔で聞かれ、楠見は戸惑い気味に言葉を捜す。彼女の先々のことまで当たり前のように考えていたが、必要はない、だろうか? いや、しかし――?

「最初は、何か目的とか、生活の筋道みたいなのが見つかれば、悪いことはやめるかなと思ったんだよ。言ってみたら彼女も乗り気でさ。そうなったら、ここで事件だけ解決して後はほっぽり出すってわけにも行かないだろう」


 肩を竦める楠見。マキは、顎を手に載せたまま、少しばかり身を引いて。

「ふうん。それだけかな」

「いや。そもそも彼女がなんの問題もなく真っ直ぐに人生を歩めなかったのだって、彼女がサイであることに遠因があるんだ。『サイの問題を解決する』には、サイを、しっかりと望む道に進ませることも含まれるんじゃないかな。他人と違う能力を持っているってだけで理不尽な目に合ってきた彼らがだな、人並みに希望通りの生活を手に入れようと努力する過程で、その能力が枷とならないように――」


 演説を始めた楠見を見やって、マキは目を細める。

「……それだけ、かな」

「それだけって? 大きな理由だと思うけれど?」


「うん、まあ、なあ……」

 マキは器用に片眉を下げた。それからくるりと椅子を反転させ楠見に向き合うと。

「はっきり聞こうか。彼女に対して、特別な感情があるわけではないんだな?」


「……何が言いたいんだ?」眉を寄せ、楠見は首を傾げる。

 と、マキはガックリと上半身を折り曲げた。


「だーかーらぁ! 彼女のことが! 特別にひとりの女性として気に掛かっているだとか、そういうことはないんだなっ?」


 一瞬遅れて友人の質問の意味を把握し、楠見は目を見開いた。

「何を言ってるんだ。彼女は未成年だぞ?」

 理解できないという表情で答えた楠見に、マキは思い切り苦い顔を向ける。


「未成年ったって、十九だろ? そんな不自然なほど歳が離れているわけでもない」

「馬鹿言うな。未成年だってことが重要なんだ。その手の不祥事は不味い。滅多なことを言わないでくれよ」

「一年くらい黙ってりゃいいじゃないか。いや、そうじゃなくて。そういうつもりは本当にないのか?」

「ないよ。考えてもみなかった」


 マキは、呆れたように口もとを歪めて、

「あんまり気に掛けてるみたいだから、惚れちまったんじゃないかと思った。それにしちゃ、こだわるじゃないか」


「うん……」楠見はカップの中にまだ半分以上残っている真っ黒な液体に目をやりながら、少し考える。

「思い出す人がいるんだよな。彼女を見ていると。というか、彼女の歌を聴いていると……」


「思い出す人?」

「ああ。アメリカで会った女性で……やっぱり歌を歌っていて。テレパスだったんだ。――幸せになって欲しくてな……」


 ははあ、とマキは笑った。「そっちが本命か?」


「本命? ああ、いや。友人の恋人だった」


 短く答えた楠見に、マキはカクンと頭を落とした。

「報われない男だな、楠見。いいよ、お前はハルとキョウのシングル・ファーザーとして一生ひとりで頑張るんだ」


 言われた楠見はムッとする。

「な! 何を言う。俺は父親じゃないし、一生ひとりなんて、そんなつもりもないぞ! というかマキのほうこそ、そろそろどうにかしたらどうなんだ! もうすぐ三十になろうってのに、浮いた話のひとつも聞いたことないぞ!」


 いきり立って抗議する楠見に、マキはひらひらと手を振った。

「俺のことはいいの。それよりもお前ね。彼女に対してそういう気持ちがあるわけじゃないなら、学費を援助してあげるだとか、気を持たせるようなことを言うんじゃないよ」


「俺はっ! 純粋に、彼女の歌の才能を見込んでだなっ! 応援したくてっ」

「分かった分かった。けどな、世間はそんな風に思わないからな。だいいち彼女が誤解したら可哀相だろう」

「誤解なんかするもんか。支援者パトロンを見つけるのだって、芸術家にとっちゃ大切な仕事だ」


「パトロン!」マキは唐突に叫ぶ。「楠見。その言葉こそ、世間は文字通りに捉えないぞ。お前が考えているその言葉の意味と、世間がその言葉から想像するものとでは、たぶん酷い隔たりがある」


「そういうことだから、日本じゃ突出した才能が育たないんだ」楠見も応じる。「持っている者が金の使い道を知らない。社会は他人の金の使い方を信用していない。金のある者が才能のある者を支援するのは、ごく当たり前のことだろう」


「なあ楠見。お前の崇高な理念は分かったよ。けどな。ここは日本で、お前はたかだか二十五の若造だ」

 マキは楠見の鼻面に人差し指を突きつけた。

「悪いことは言わないから、そのノブレス・オブリージュの精神は、ひとまず畳んでスーツケースの中にでもしまっておけ」

「確かに今の俺がそれをするのは分不相応かもしれないよ。けれど、そういう気持ちで理想の教育を俺は実現させたいんだ! パトロンの何がいけない!」


「パトロンって、なんだ」


「うわあ!」唐突に割り込んできた声に、楠見とマキは同時に叫び声を上げた。


 いつの間にか、楠見とマキの間に、小学校の制服を着て通学カバンを肩から提げたキョウが立っていて、真面目な顔で二人を見比べている。

 ドキドキしている心臓を押さえつつ、楠見は引きつった笑みを作った。


「キョウ……脅かすな……。どうした、学校は終わったのか?」

「ん。終業式だから、昼で終わりだ」

「そ、そうか。冬休みだな。……これから家に帰るのか?」

「ん。ハルと待ち合わせしたんだ」


「ハルならまだ来てないよ」

 言ったマキの笑顔も、凍りかかったようにぎこちない。


「ん。そんで、パトロンって、なんだ」

 知識欲に満ちた端整な瞳で問いを繰り返すキョウに、二人の大人は固まる。


「あぁっとねえ、キョウ」マキが、あいまいな笑いをキョウに向けた。「パトロンってのはね、つまり、芸術活動だとか勉強をする人のためにね、応援して、勉強するためのお金や生活のためのお金を出してあげたりする人のことだよ……かな……」


「ふうん」キョウは頷いて、それから少し考えて。「そしたら、楠見は俺とハルのパトロンか?」


「いや!」

「それは!」


 慌てる大人二人。マキはぶんぶんと首を横に振った。

「それはちょっと違うんだ。楠見は……そう、保護者だ。保護者。そうだろう?」

「何が違う?」

「ええっと……なんていうか、それはもう少し大人になったら分かるっていうか……ともかく、今はあんまりその言葉は使わないほうがいい」


 視線を宙にさまよわせて言葉を捜すマキの肩に手を掛けて、楠見は大人同士の内緒話の体勢に入る。

「おいっ。そこで変にぼやかすから、妙な意味だって思っちまうんだ。正々堂々と、正しい意味を教えたらいいじゃないか」

「うるさいっ。お前だって今、それはニュアンス的にちょっと不味いかなって思っただろ!」

「くっ……」


「使っちゃいけない言葉ばっかだ」

 口を尖らせて、ムスッと目を伏せるキョウ。

 楠見はどうにか笑顔をこしらえて、不満げな子供を振り返った。


「そうだ、キョウ。何か甘いもんでも食いたくないか?」

「食いたい」

 純粋な子供は、パッと顔を上げた。胸のポケットからサイフを出して、キョウに渡す。

「よし。なんでも好きなものを買ってこい。ハルと、俺とマキの分も頼むよ」


「ああ、キョウ。俺はエクレアが食べたいな」

「エクレア」


 楠見同様、作りそこなったみたいな笑顔で言うマキの言葉に、キョウは目を見開き口もとを膨らませた。嬉しいときの顔だ。

「いいな。エクレア」


 ナイスだ、マキ。楠見はキョウに隠れ、マキに向かって親指を立てる。

 菓子やパンやケーキを売っている売店はここから近いが、エクレアを販売しているのは広いキャンパスを縦断して端の正門のほうまで歩いた場所にあるカフェテリアだけだ。行って買って帰って、十分ではきかないだろう。キョウには悪いが、もうしばらく、大人の内緒話のための猶予ができる。


「気をつけて、ちゃんと歩いて行くんだぞ?」

「んーっ」

 サイフを持って部屋を出て行くキョウを見送って、二人は同時にため息をついた。


「どこから聞いていたんだ、あいつは」

「聞かれちゃ不味い話だったかなあ。楠見が例の彼女に惚れたとかそうでないとか……」

「いや……キョウのことだ。その手の話は聞いてもたぶん理解できてない。問題ないだろう」

「ちょっと待て。いくらなんでも、五年生だぞ? まったく理解できていないとしたら、それはそれで問題じゃないか?」


 さも重要な問題だというように、マキは眉を寄せた。

「あの顔だ。女子生徒にもきっとモテるぞ。今は『キョウくんのこと好きー』程度で済んでりゃいいけどな、そのまま中学生高校生になってみろ。なんの知識もないまま、どこかで子供でも作っちまったら、いったいどうする」


「な、なんてコトを言うんだマキ! キョウに限ってそんなことは……」

「いいや。ああいうボンヤリさんが危ないんだ。教えてやれ。保護者の務めだ」

「俺っ? いや違うだろ、そういうことは、たいがい保健の先生が……そうだよ、マキが適役だ」

「俺は養護教諭じゃない! 俺に押し付けるな! お前が責任を持ってちゃんとキョウに教えるべきだ」


「キョウに何を教える話?」


「うわあ!」またも唐突に声を掛けてくる子供。楠見とマキは、飛び上がりそうになった。


「ハ、ハル……いや、大したことじゃないんだよ」

「お前たちはっ……無駄に気配を忍ばせて近づいてくるのはやめろ!」


「ふうん……」ハルは腕を組んで、目を細め疑惑の眼差しを二人の大人に送る。「悪いことを教えようとしてるんじゃないだろうね?」


「そ、そんなわけないだろう!」

 動揺を隠し切れない楠見に、ハルはまだ不信感いっぱいの視線を向けている。


「あーっと、ハル。キョウと待ち合わせしてるんだよね?」

 再びぎこちない笑いを顔に貼り付けて、マキが聞くと、ハルは瞳から剣呑な色を一旦消し去って頷いた。

「うん。キョウ、来た?」

「ああ、ついさっきね。ちょっとお遣いに行ってもらってるんだ」

「そっかぁ。一緒に帰るんだけど、俺、先生に仕事を頼まれちゃったんだ。そっこーで終わらせるから、ちょっとだけ待っててってキョウに言っておいてくれる?」

「わ、分かったよ」


 頷くマキに「よろしく」と言い置き、子供ながらに艶然とした笑みを残してハルは戻っていった。


「あの二人、なんでここを待ち合わせに使うんだ……」

 楠見は首を捻る。二人の教室は隣同士のはずなのに、教室どころか彼らの通う小学校とは別の棟にあるここや、楠見の部屋でわざわざ待ち合わせる。

 顔を見せなければそれはそれで心配なので、やめろとまで言うつもりもないが、釈然としない。


「ともかく――」深く息をついて、楠見は表情を引き締めた。真面目な話だ。「マキ」


 呼ばれたマキも、にわかに真剣な色を瞳に浮かべ、楠見を正面から見つめる。


「その、杉本さんの件だけどな。彼女の背後には、ちょっと厄介な人物がいるかもしれない」

「……うん」

「まだ不確定だけどな。場合によっちゃあ」


 そこで一旦言葉を切った楠見を、マキは静かに見つめていた。

 意を決して、楠見もマキの目を見て。


「また『楠見家』の力を使わないとならないかもしれない」

「……うん」

「それを、先に言いに来たんだ」


 フフ、とマキは薄く笑った。「律儀だね」

 そうして立ち上がり、腕を組んで窓のほうへと歩いてく。その友人の背中に、楠見は言う。


「俺がその名を借りずに解決できればそうするんだけど、力が足りない。意地を張って上手く行かなくて、後で後悔したくないんだ。だけど、に介入させたりはしない。それは……約束は守るよ」


 窓枠に寄りかかってマキは楠見を見つめていたが、やがて軽く息をつくと、また小さく笑った。

「分かったよ。俺は、構わないよ。いま目の前にいるサイを、全力で助けてやんな」


「ありがとう」友人の言葉に安堵し、楠見も頬を緩めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る