5.先生も隅に置けないですな
楠見とマキが、二人のサイ少年に翻弄されていた、ちょうどそのころ。
「だから。ここの理事だって、聞いたんです。楠見って人。どこにいるんですか? 会いたいんです」
美和は、カウンターに身を乗り出して、台を叩かんばかりの勢いでそう訴えていた。
一方的な要求を重ねている若い女に、
「あのね。だから、いきなりそう言われても」二人は顔を見合わせて。小柄で丸顔の警備員が、眉尻を下げて取り成すように言った。「とりあえず、学生証はあるのかな」
「……ここの、学生じゃないから」
つまみ出されるんだろうか。不安になりながら弱々しく言うと、二人はまた顔を見合わせた。そして、精悍な感じに日焼けした大柄なほうの男が、「うーん」とため息混じりに言葉を発する。
「ここの学生じゃないってね。それじゃ、身分証明書なんかありますかね」
「身分証明書?」
「そちらの在学している学校の学生証だとか、免許証、パスポートとか……」
そんなものは持っていない。美和は唇を噛む。
その様子を見て取って、大柄な警備員はどうしたもんかというように口を歪めた。小柄なほうが、丸顔に柔和な笑みを作って、慰めるように言う。
「楠見は確かにここの理事ですがね。ただ、約束があるわけじゃあないんでしょ? それだとねえ。来訪予定のない外部の方に、部屋までお教えするわけにはいかんのですよ」
――甘かった。
電話番号が分からなくとも、「緑楠学園の理事」ということが分かっている以上、学校に来ればどうにかなるのではないかと。気持ちを奮い立たせて部屋を出て、電車とバスを乗り継ぎ東京都下、多摩東部にある緑楠学園のキャンパスに着いたころには、時刻は昼近くなっていた。
授業中なのか、それとももう冬休みに入っているのか、正門から南へと真っ直ぐに伸びる広い並木道にはひと気は少ないが、それでも美和と変わらない年頃の若者がぽつりぽつりと歩いているのが見えて、美和はその中へと紛れ込んだ。
だが――。大学という場所にだって生まれて初めて足を踏み入れた美和には、当然、右も左も分からない。学校の内部はどういう組織になっているのか、それらはどういう建物に入っているのか。理事という役職の人間はどこにいるべきものなのか。そもそも学校内にいるのか。
案内板を頼りに広大なキャンパス内をアテもなく歩き回り、それでは埒が明かず、昼を回ってようやく決心して守衛室を訪ねた。が、対応に出た警備員は当然、首を捻るばかり。
素性も知れない、目的も分からないでは、怪しまれて当然だ。美和は途方に暮れる。
けれど。肩を落とす美和に、警備員は少々同情してくれたようだ。
もう一度、顔を見合わせると、小柄なほうが小さく肩を竦めた。
「しょうがないね。ちょっと電話してみますよ。在室しているかどうかは分かりませんけどね」
ふっと顔を明るくした美和に、小柄な警備員はまた眉尻を下げ、内線表を繰りながら受話器を取り上げる。
「お名前をうかがってもいいですかね」
「杉本です。杉本美和」
「杉本さんね。こちらにお名前、連絡先、訪問相手と目的を書いてもらえますか」
傍らの大柄な男が、一枚の紙とペンを差し出してきた。
だが。電話を掛けた小柄な男は、耳に受話器を当てたまま首を捻る。
「出ないなあ。会議か……外出中かもしれないですよ」
だいぶ時間を取って、男は受話器を置いた。大柄な男が美和の記入している紙から視線を離し、そちらへと目を向ける。
「事務棟の受付のほうに掛けてみたらどうかね」
「ああ、そうだね。ちょっと待ってよ?」
「――あ、こちらは正門守衛室、
受話器を置いて。
「杉本さんね。今ちょっと、席を外しているみたいなんですよ。少し待って――」
警備員の言葉を耳に入れながら、美和の意識は、何気なく目をやった中央の並木道の先へと向けられていた。
昼を回ってわずかに増えてきた、大学生や教職員らしい大人たちの人並みの中で、ひとつだけ小さなその体は目を引いた。
紙袋を、大事そうに小脇に抱えて、並木道を軽い足取りで駆けていく子供の後姿――。
同じ敷地内に小学校もある、大きな学校だ。子供の姿など、珍しいものでもないろう。その上、後姿でそれが誰かなど分かるはずもなく。
けれど、なんとなくその背中に引かれるものがあって、目が離せない。
楠見の連れていた、あの、サイの小学生。彼ではないかと、直感が告げる。
書きかけの用紙とペンを放り出して、美和はその背中を追いかけて走り出した。
「あ、ちょっと――?」
後ろから警備員が声を掛けてくるが、前方をゆく小学生から目を離すわけにいかず、無視して守衛室を離れる。
小走りに、子供はキャンパスの中心部へと入っていった。
執務室に戻って席に着き、楠見は書類に向かっていた。
学園理事という「表の仕事」だけでも十分忙しいのに、その上、他人には言えない「裏の仕事」を抱え、飽和状態である。年末年始の休みなど返上しなければとても間に合わないが、自分は仕事をする覚悟でいても他人が休んでしまう以上、仕事納めまでの残り数日で片付けておかなければならないことは多い。
それに、初詣や雪見に連れて行くと。あの子たちに、約束もしてしまったし。
扉をノックする音。ペンを持ち書類に目を落としながら「どうぞ」と答えると、顔をのぞかせたのは五十代に見える恰幅のいいスーツ姿の女性。
「楠見先生、お疲れさまです」
にこやかに言って、楠見の机へと歩み寄ってくるのは、この学園事務棟に長年勤務している松浦という女性事務員。手に封筒の束を抱えている。
「今日届いた分の郵便物です」
「ああ、ありがとうございます」
「もうすぐ冬休みだってのに、まだまだ忙しそうですねえ」
松浦は、書類と格闘している楠見にからりとした笑い声を上げた。
そろそろ三十年に近いという彼女の長い学校法人勤務歴の中でも、見たことのない若さで理事という役職に就いた楠見に、松浦は何かと目をかけ良くしてくれる。
「それと、これ」そう言って差し出し机に載せた箱からは、甘く香ばしいにおいがかすかに漏れている。「うちの娘がまたシフォンケーキを作ったから、どうぞって」
専門学校で製菓を勉強しているという娘の試作品を差し入れてくれたり。「裏の仕事」でほかの事務員に詳しい事情を話さずに席を外すことも多い楠見を、「秘密」には立ち入らずにフォローしてくれたり。
長く勤務している者ならではの豊富な知識・経験は余人をもって代えがたく、事務棟ではかなりの重要人物であることは当然ながら、楠見個人にとっても貴重な人材だった。
「お子さんたちと一緒に、召し上がってくださいね」
そう。この、笑えない冗談さえなければ。彼女は完璧な事務員だ。
「ありがとうございます。……親子じゃないんですけどね」
一応文句を言いながら、楠見は封筒と箱を受け取った。
「分かってますよぉ」松浦は、また気さくに笑う。「楠見先生とじゃだいぶ雰囲気が違いますもんねぇ。先生もいい男だけど、あの子たちはまた違った方向にキレイですよねぇ。あと何年か後が楽しみだわぁ。先生といい、あの子たちといい。長く勤めてみるもんですね。目の保養、目の保養」
「はぁ、どうも……」
「あ、先生。私は今日はこれで失礼して、午後から有給休暇に入ります。ほかの者もほとんどが今日明日で休みに入ってしまいますんで」
「ああ、分かりました。じゃあ次は年明けかな」
「ええ。よいお年をお迎えください」
松浦は軽く頭を下げて、ドアノブに手を掛けたところで何か思い出したように立ち止まり、「そうそう」と振り返った。
「正門守衛室の矢部さんから、さっき電話がありましたよ。先生に外部からお客様だけど、ご在室かって。お約束、ありました?」
「客……?」楠見は再び書類に落としていた目を、松浦に向ける。「いえ」
言いながら、何人かの心当たりを思い浮かべる。船津ならノーアポイントでやってくるが、直接この事務棟に来るし、「表の仕事」の取引相手ならば守衛も顔と名前を把握していてここに案内するだろう。
守衛室で止められる人物というと……。
アポーツの少女。杉本美和を思い浮かべたが、彼女にも電話番号を渡していたはずだ。
礼を述べて松浦を見送り、楠見は受話器を取り上げる。
『ああ、楠見先生』守衛室の矢部は、すぐに電話に出た。丸顔の年配の男は、これも松浦同様に学園勤務歴が長く、楠見とも懇意にしている警備員だ。
『先生も隅に置けないですなあ』
電話口でニヤニヤ笑ってでもいそうな声で、矢部は言う。
『そういうお相手なら、直接先生の部屋に来るようにコッソリ言っておいてくださいよ。若者の恋路をジャマして馬に蹴られるようなことにはなりたかないがね、守衛室に来られちゃ、職務上『そうですか』ってすんなりお通しするわけに行かんので。何しろ色男の楠見先生のとこに、そう言って月に何十人も押しかけてこられちゃあ、こちとら仕事の趣旨が変わっちまいますよ。まあ、私の好みで選ばせてもらっていいんなら……』
「ちょ、ちょっと待ってください」
延々と話し始めた矢部に、楠見は苦い口調で言葉を割り込ませる。不穏な予感。
「誰が来たって……?」
『ん? またまたぁ。心当たりがあるんじゃないですかぁ? それともありすぎて、特定できないかなあ』
「勘弁してください、矢部さん。ありませんよ。まだそこにいるんですか? 名前を聞いてます?」
『えっ?』意外な反応だったらしく、矢部は調子を変えて聞き返すと、通話口からわずかに離れたような間があって。『あーっと。待ってるように言ったんですがね、どっか行っちまったって。名前は――ああ、杉本美和さん、だそうですよ』
彼女が訪ねてきた? 直接電話をしてくるのでなく、守衛室に?
どちらへ行ったのか。まだ学校の中にいるのか。どんな様子だったのか。
詳しい状況を聞こうと受話器を握り締めたとき。
ドアをノックする音が聞こえた。
通話口を押さえて「どうぞ」と声を掛けるが、扉は開かず、ドアの外は静まり返っている。
『先生? どうかされました? あ、もしかして元カノってヤツですかね。会っちゃ不味い相手かな。だったら――』
「ちょっと待ってください」
妙な想像を始めた矢部に一声掛けて、楠見はもう一度「どうぞ」とドアの向こうへ呼びかける。入ってこない。自分は鍵を閉めただろうか? いや――松浦が出て行ったばかりだ。
そういえば、キョウがエクレアを買ってくるのを待たずに自分の部屋へと戻ってきてしまった。彼にはサイフも預けたままだ。届けにきたのだろうか。しかしあの子はノックなどしない。そろそろ教えなければと思っていたところだ――。
また、ノックの音。
杉本美和が、どうにかしてこの部屋を突き止めたか?
「矢部さん、すみません、また掛けなおします」
そう言って受話器を置くと、楠見は立ち上がってドアに向かう。
ドアを開け広げて。
楠見は眉を顰め、周囲を見回した。
誰もいない。
人の気配もない、やはりシンとした廊下。
もともと法人事務部署くらいしかないこの建物に勤務している人間の数は、そう多くはない。そのほとんどが、午前中で仕事を切り上げて帰ってしまったのだろう。建物全体がひっそりとしている。
ハルやキョウが、新しい遊びでも思いついたのだろうか――?
首を傾げてドアを閉めようとしたとき。
ドアノブに置いた手に、妙な手ごたえを感じた。
ドアが、動かない。
次の瞬間。開いたドアの裏から飛び出してきた大きな影が、視界に立ちはだかって。
影は目の前に躍り出してくると同時に、ためらいもなく楠見の胸倉を掴み上げた。咄嗟のことに反応できず、楠見はその圧迫感に息を詰まらせる。
以前、駅前で見た、あの大男だ。杉本美和を見つめていた、――サイ。
暗い色のサングラス。奥の瞳は見えないが、頬には不敵な笑みを浮かべて。
声を上げられないまま、きつく締め上げられながら、楠見は室内へと押し込まれていた。
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