6.サイの業界にも、秩序や治安ってものがあってね
キョウと言った。
楠見の連れていた子供を遠くに追って、美和は並木道をキャンパスの中心へと向かう。
けれど、並木道の突き当たりにある古めかしげな建物を回りこんだところで、姿を見失った。
うろうろと、あたりをさまよう。キャンパスマップの書かれた看板を見つけ、確認する。
この向こう側は、小学校と中・高校の校舎らしい。
とすると。彼は小学校の校舎に向かったのだろうか。
どうにか追いかけて声を掛けることができれば、楠見の元へと導いてくれるかもしれない。そんな期待を抱いて、美和は小学校の校舎をぐるりと回り、しかし彼の姿をもう一度見つけることはできず、歩みを止める。
小学校の受付などに行けば、それこそ不審人物と見られるだろう。
親戚だとか、知人だとか、そんな方便が通用するだろうか?
必死に考えるが、上手い口実を思いつくことができずに、軽い失望を抱きながらどうしようもなく来た道を引き返していた。
彼を見失った場所まで戻って、一度、振り返る。
銀杏並木の突き当たり。並木道とあわせて、いかにも絵になりそうな、伝統ある学校らしいその古い建物の入り口には、木製の札が掛けられていた。
落ち着きのある楷書で、「学園事務棟」と筆書きされている。
――事務棟の受付のほうに掛けてみたらどうかね
正門の守衛室にいた男の言葉を、薄っすらと思い出して。
その入り口と表札の文字を見比べながら、美和は小さく首を捻る。
この建物の中に、楠見のいるべき部屋があるのだろうか?
事務棟、という建物がほかに何軒あるか分からない。これではないかもしれない。
首尾よく彼に会えればいいが、もし駄目なら? 受付で、なんと言う? 逃げ出すように守衛室を後にしてしまったことに唇を噛む。美和は既に不審な侵入者として、学内に手配されているかもしれない。戻ろうか――。
心を決められないまま、それでも美和は四、五段ほどの低い石段を登り、木製の大きな扉に手を掛けた。そっと、ドアを開ける。
恐る恐る、足を踏み入れた。
入って左右は、どちらも二階へと続く階段が伸びており、頭上は吹き抜けの高い天井。
正面に、受付らしいカウンターがあった。が、人はいない。
カウンターの窓からうかがえるその奥は、事務室のように見えるが人の気配がしない。
うかつに踏み込めば足音が建物中に響いてしまいそうな静けさに、美和は慎重に歩を進め、カウンターの前に立った。窓から覗くと、やはり内部は机の並んだ事務室のような部屋。
木の壁と木目の床は、使い込まれた感はあるものの、しっかりと磨き込まれ古びた感じはない。きちんと整理された机、パソコンなどの機械類、それに書類の棚が整然と並び、レトロで重厚な洋館風の
美和の通っていた高校の事務室と、それは同じ機能を持った部屋に見えたが、どうにも雑多な生活感のようなものに溢れていたそこと比べて、かなり格調が高く感じられる。
「すみません……」
人の気配のしない室内に、それでも美和は恐る恐るそう呼びかけた。
どうにも自分は、甘い。
そう、楠見は改めて思い知る。
これだから、マキには笑われ、キョウを不安にさせ、ハルから白い目で見られ。そうして、他人を危険に晒す。
何が、サイを守る、だ。
身動きを奪われ、無様に押し込まれている状況を楠見は苦々しく自嘲しながら、高い位置から見下ろしてくる男のサングラスの奥の目を睨みつけていた。
男は完全に室内に入ったところで一瞬楠見の胸倉を解放すると、体に合わぬ素早い動きで楠見の口をふさいだまま首に太い腕を回し、引き摺るようにして後ろを向かせた。
そうしておいて、後ろ手に、ドアを閉じ鍵を掛ける音。
「『楠見』だな?」
大男は背後から楠見の耳元に口を寄せ、低く問う。
日本人の平均からしたらかなり背の高いほうである楠見だが、いまその楠見を制圧している男はそれをさらに上回る。背だけでない。体の大きさが、違う。物理的な力で勝つことはできない。
首筋にがっしりと巻きつけられた男の腕を、両手で掴み、引き剥がそうとするが、腕はびくとも動かず逆に拘束は強まり息が詰まった。
じりじりと腕に締め上げられ、口をふさがれたまま答えることもできずにいると、男はまた後ろから声を上げた。低く、太い声だった。
「アポーツの女。あれから、何か預かったな。何を聞いた」
杉本美和。それではこの大男が、彼女らに仕事をさせている元締めなのか――?
視線をずらし、男の顔を再び確認しようとするも、押さえ込んでいる男の腕が身じろぎを許さない。
楠見は踵をずらし、男の位置を確認すると、ふっと体の力を抜いた。
ほんの一瞬。
男の拘束が弱まった隙を逃さず、思い切り足の甲を踏みつけると、さらにかすかに弱まった腕の拘束を身を縮めて抜ける。
反撃は予期していなかったのか。辛くも大男の拘束を逃れ、そのまま数歩分ほど距離を取って対峙する。
男は面白いというように唇の端を吊り上げた。
サングラスの奥を油断なく見つめつつ、楠見はわずかに思考する。
拘束を逃れはしたものの、出入り口は男がふさいだまま。大声を上げたところで、おそらく聞こえる範囲に人はいないだろう。
窓を破るか。建物の二階だが、下は芝生だ。飛び降りても命に関わるほどのことはないだろう。だが。窓まで数メートルの逃走を、この男が許すとは思えない。
楠見とて、サイの能力を持たずにサイ業界に長く身を置いてきた者として、一通りの護身術は身につけている。が、それは護身術でしかない。
格闘になれば、この体格差から考えて、万に一つも勝ち目はないだろう。
それ以前に、相手は何かしらの超常能力を持っているサイだ。
矢部との通話を切ってしまったことが悔やまれたが、男の目的やその持っている能力が知れない以上、うかつに人を呼べば、その人間を危険に巻き込むだけだ。
隙を作らせ、ドアか窓から逃げるしかないか――。
そう判断し、相手の目を真っ直ぐに見つめたまま、片足を引きわずかに体勢を低くして問う。
「サイだな?」
短く訊くと、相手はかすかに眉を寄せ、うかがうような面持ちになった。
楠見は問いを重ねる。
「俺が楠見だよ。そちらは? 名前と用件を聞こうか」
男は鼻を鳴らした。
「訊いているのはこっちだ。アポーツの女から、何か預かったな」
短く思考し。視線を対峙させながら。
「なんの話だ。どうしてここへ来た?」
彼女が今、学校を訪ねてきているらしいのと、関係があるのだろうか?
どういうことになっている? 考えをまとめようとするが、どうにも手掛かりが少なすぎる。
「先に答えろ」男はまた、低く言った。「知らないと言うなら、勝手に捜させてもらう」
そう言いながら、じわりと足を進める。
他人に危害を加えることを極力回避しようなどという考えは、この男は持っていないだろう。
「ここがどこで、俺が誰だか分かっているのか?」
慎重に男に目をやり、その反応を量るようにしながら。楠見は幾分声を落とし、ゆっくりと訊いた。
「『楠見の組織』を、敵に回すことになるぞ」
「組織、だと?」
訝しげに眉を寄せる男。
内心で、楠見は舌打ちをする。相手が特定の組織に所属せず、単独で動いている者ならば、この脅しは通用しないだろう。だが――。
「サイの業界にも、秩序や治安ってものがあってね。それを守るのが楠見家の仕事だ。その能力を犯罪行為に使う者、他人に危害を加える者を、しかるべく処分する。それが、俺たちの仕事だ」
男は楠見をうかがうように見据えている。何気なく立ちつくしているだけのように、無防備にさえ見える体制。それでいて隙はない。楠見の動き次第では、すぐさま何らかの攻撃を仕掛けてくることもできるだろう。
「今すぐここを出て行くなら、見逃してやってもいい。そうして彼女たちから手を引け」
完全なハッタリだった。ここで楠見に危害を加えれば、この男が楠見家を敵に回すことに嘘はないが、そうかと言ってこうしているいま現在、楠見の身を守るものがあるわけではない。
男が後々の保身など考えずにこの場で楠見を抹殺しようと思えば、それはいとも
身じろぎもせず、男はほんの数秒の間、楠見の話した内容を吟味している様子だったが、やがてまたフッと頬を緩めた。
「俺は、自分の得るべきものを、取り返しに来ただけだ」
「得るべきもの、だと?」
「そうだ。預かったものを、返せ」
「預かったもの?」
時間を稼ぎ、隙を見出そうとする楠見の思惑を、男は察したようだった。それまで頬に浮かんでいた余裕の笑みを少しばかり抑え、一歩、間合いを詰める。
「ネックレスを預かっているだろう」
「……ネックレス?」
苛立ったように小さく舌打ちをしたかと思うと、男は数歩、また間を詰めてきた。
伸びてくる男の手を寸でのところでかわし、執務机の前まで後ずさる。
「ダイヤモンドのネックレスだ」
「……ここにはない」
「どこにある!」
男はもはや苛立ちを隠さず、今度は拳を繰り出してきた。身を沈めてその拳を避け、反動で壁際に身を翻す。
「宝石店からの盗品だろう? 警察に預けたよ」
「警察だと?」
大きく舌打ちをして、男は素早い動きで楠見に飛びかかる。かわそうとするが、男の動きのほうが速かった。
差し伸ばされた腕に肩を掴まれ、壁に押し付けられた。咄嗟に振り払おうと上げた楠見の腕に、骨まで響くような鈍い痛みが走る。
(なんだ――?)
人間の皮膚と肉とは思えない、妙な手ごたえ。
だが思考を進める間もなく、男が反対の手でまた楠見の襟首を捕らえ、さらに壁へと押さえ付ける。
「捜させてもらおう」
言いながら、男は手に力を込めた。
「クッ……」
キリキリと締め上げられ、体が宙に浮きそうになる。
「だが、その前に。貴様は邪魔だ」
言い終わるか終わらないかのうちに、腹に鈍く痛烈な衝撃を感じ、一瞬意識が飛びそうになって楠見は体を折った。
必死に思考を取り留めながらも壁伝いにずり落ちそうになる体を、男が襟首を掴んで止める。
「眠っていてもらおうか」
再び男が拳を固め、腕を引いた瞬間だった。
ドアノブが、ガチャリと音を立てる。
男の視線がサッと出入り口に走った。
ガチャガチャと、何度かノブを回そうとする音。
鍵が掛かっていて開かないのだ。と――。
「くすみー?」
呑気な子供の声が、ドアの外から届く。
初めて楠見は冷や汗の噴き出すのを感じた。
キョウの力でこの男に勝てるだろうか。できるかもしれない。だが、危険すぎる。
「……キョウ」
締め上げられながら、楠見はどうにか声を絞り出した。部屋の外までは、それは届かなかったのかもしれない。
ドアの向こうにいるキョウは、そのドアを叩く。「くすみー。いるか。いないか」
楠見を締め上げている男が、逡巡するようにドアと楠見を交互に見た。
ドアが再び鳴る。「くすみー」
賢い子供は、おそらく中で異変が起きているのを察している。楠見が在室中に鍵を掛けていることなど、滅多にないのだ。その上、自分が呼んでも楠見が姿を現さないなどということは。
楠見は襟首を掴んでいる男に目を向け、腕に手を掛けた。
と、男はわずかに拘束を弱める。そして、
「追い払え」一言命じた。
少しばかり呼吸が楽になり、楠見は一度、大きく息をついて。
「キョウ」
「くすみ、いた。エクレア。と、サイフ」
「ああ、キョウ」少し考えて。「あとで、行くから……マキのところで待っていろ」
わずかな間。
ドアの外が、静かになる。
楠見の襟首に手を掛けたまま、ドアのほうに視線を送っている男。
外からは、物音はなく。
再びゆっくり楠見へと目を向け、男は拳を固めなおす。
けれど、楠見は確信していた。キョウはまだ、そこにいる。
(不味い――)
思った瞬間だった。
巨木に雷でも落ちたかのような、空を切り裂く破壊音。
執務室のドアが、粉々になって弾け飛んだ。
楠見の襟を掴み壁に押し付けたまま、男は軽く後ずさってドアに体を向ける。
一瞬宙に舞って視界を覆った木屑と埃が消えたとき。
ドアのあった場所に、キョウが立ち、楠見をそれを締め付けている男に目を向けていた。
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