第4章 あの約束の地に、私は行きたい
1.これは俺たちの信念の問題ですから
「五十万って、どういうこと? 五万で売ったって聞いたけど?」
分厚い大きなメガネを掛けた初老の男に、美和はカウンターに両手をついて詰め寄った。「ほら、これ――」
言いながら、雅史に渡された封筒を、軽く叩きつけるようにしてカウンターに載せる。白い封筒に、この質屋の店名の印刷。中身は渡されたときのまま、五万円は手をつけずに入っている。
店主と名乗った初老の男は、困惑と同情の混じった表情でそれを手に取ってチラリとあらため、すぐにカウンターに戻してため息をついた。
「そう言われましても。『預け』じゃなく、『買取』で承りましたからねえ。買戻されるってなったら、そりゃこちらで付けさせてもらった売値で買っていただくしかないですよ。こっちも商売ですからねえ」
当然の口調で言われ、美和は押し黙る。そんな美和に、店主はまたため息をつく。同情の割合が、ほんの少し増したようだ。
「あのね、お嬢さん。もしかして彼氏が、あんたに黙って売っちまったのかな?」
考えてみればごく自然な、しかし美和にとっては的外れな想像を、店主は確信気味に述べた。
「よくあるんですよ、そういうの。けれどこっちにゃ、確かめようがないからねえ。あんたが嘘を言っているとは思わないが、そう言ってくるお客さん全員の話を聞いていたら、こっちも商売成り立たないでしょ」
分かってくれと表情ににじませる店主。この手の客にも慣れた様子で、その店主に美和が言葉で勝てる見込みのあるはずもない。
「……それにしたって」それでも美和は、一応食い下がる。「五万円が、五十万って……」
すると店主はますます同情の色を濃くして、「お嬢さんね」と内緒話のように少し身を乗り出した。
「あのね。本当はお客さんにこんな話は不味いんだが、お嬢さんのことを信用して言いますけどね――」口の中で軽く、舌打ちみたいな音を立てて。「買取価格、五万なんかじゃないよ。冗談言っちゃいけない。あの大きさの、ダイヤのネックレスだよ? 五十万の売値だって安いくらいだ。いくらなんでも五万で買い取るなんて、そんな
美和は絶句する。買取価格が、五万じゃない?
それで初めて、気づいた。なんて間が抜けているんだろう。美和は、箱の中身を見ていないし、見たところでそれがどの程度の価値なのかは分からない。だから、いくらで売れる代物なのかなど、想像もしていなかったのだ。五万で買ったと言われれば、特に疑ってもみなかったが、あの雅史が宝石を売った金を丸々美和に渡していると考えるほうが甘かったかもしれない。
困惑に言葉を失った美和。店主はそれを、訝しげな表情でじっと見る。
「うん? お嬢さんのネックレスなんだよね? モノは知ってるだろう?」
ハッとして、美和はあいまいに頷いた。不審に思われては話が進まない。
「……いくらで、買ってもらったんですか?」
店主は二、三秒じっと美和の目を見て、それからおもむろに三本指を立てた。
「さん、じゅうまん……?」ごくりと唾を飲み込んだ美和に、店主は仕方なさそうに頷く。
「鑑定書だとか保証書の類があればもう少し高く買い取ったんだが、なかったからね。こっちで鑑定させてもらうから、その分引かせてもらってね。鑑定の結果いかんじゃ、もう少し値がつくかもって言ったんだが、何しろすぐに欲しいっていうから三十万渡したんだ」
言いながら店主は棚のファイルを取り出して、開いて見せる。
そこにはたしかに、雅史の学生証のコピー。同じページに記された三十万の文字に絶句している美和に、まったくやり切れない、とでも言いたそうな顔で、店主はゆるゆると首を振った。店主の中で、美和は、彼氏に遊ぶ金ほしさに宝石を持ち出され勝手に金に換えられた可哀相な少女だ。
「しょうがないな。お嬢さん、特別だよ? 特別に三十万。買値で戻してあげるよ。大事なモンなんだろ? こっちだって、彼氏に犯罪を働かせちゃうんじゃ寝覚めが悪いからね。だから、彼氏にもう一度相談してさ。お金を返してもらいなよ。きっと彼だって、出来心でやっちゃったんだ。ね。本当に、特別だからね?」
念を押されたところで、美和は家から握り締めてきた五万円の封筒のほかには、小銭程度しか持っていない。帰って雅史を問い詰めようか。いや、すんなり渡すとも思えない。それでも――。
「おじさん。すぐに戻ってくるから。本当にすぐだから、それまでもし誰か来ても売らないで!」
片手を拝む形に上げて頼むと、美和はまだ憐憫の眼差しで見ている人の好さそうな店主に背を向けた。
一旦家に戻り、雅史がどこかへ出かけたまま不在であることを確かめて、戸棚の奥から金を取り出す。雅史に持ち出されたりしないように、大切なものを隠しておく場所だった。質屋に取って返して買い戻した宝石のケースを手に収め、美和は店を出ると深く息をついた。
雅史に抗議する必要はあるが、彼が途中で抜き取った二十五万を美和に返さなくても、もう構わないような気がしていた。いずれ不正に得た金。それを少しでも償却できたことへの、安堵もある。
楠見という男の提案どおり音楽を本格的に勉強するとすれば、金は必要ではあるが、盗んだ金で夢を叶えようとするほど図太くもなれなかった。
帰って雅史にどう切り出そう。考えれば気が重い。雅史の反応は、なんとなく分かっていた。しらばっくれるのだ。そうして機嫌を取りに出て、最後は逆ギレ。面倒だな、と思う。キレられたところで、怖いわけではないが、諍いになるのは気が重い。
悪い仲間と手を切れ、か。
まったく簡単に言ってくれる。美和は小さく舌打ちをした。
雅史に軽んじられ、嘘を吐かれたことに、腹が立ちもすれば悲しくもある。けれど、いつだって結局、最後は「まあいいや」と思ってしまうのだ。そんな自分も嫌になる。
重い足取りで歩き出したところへ。
「キョウ」という言葉を。ぼんやりと考え事をしている頭を他所に、耳が勝手に拾いとめた。何気なくそちらへと目をやると。
「トカゲじゃないよ。これはみんなヤモリだよ。これはニホンヤモリ。こっちはオンナダケヤモリ」
「これは?」
「これは正確に言うと、トカゲモドキ。ヤモリともちょっと種類が違うんだ」
「ふうん。ゴジラとも違うのか?」
「……え、ゴジラ?」
はす向かいの、古めかしい文具店の店先。カプセル玩具の自動販売機の前で、子供が二人。こちらに背を向けて、販売機の正面に貼られた写真を指差しながら、真剣になにやら話し合っている。
キョウと呼ばれたらしい少年。顔は向こうを向いていて見えないが、先日の楠見の連れていた子供と同じ、声と背格好。そしてもうひとりも、似たような声に、同じような後姿。
「ゴジラは怪獣だよ」
「ヤモリと違うのか?」
「ヤモリは実在の動物だ」
「実在の動物」
「うん。そこらへんにいる」
「ゴジラは?」
「ゴジラは、いない。ゴジラが東京に現れたのは、半世紀以上も前だしね」
「半世紀」
「うん。それに、ゴジラがそこらへんにいたら、東京タワーがいくつあっても足りないよ」
「ヤモリは?」
「ヤモリは東京タワーを壊さないし、むしろ家を守るからヤモリって呼ばれてるんだ」
「東京タワーも守んのか?」
「どうだろう。東京タワーは家じゃないから管轄外かもしれないし。だけど少なくとも壊しはしないね。東京中のヤモリが集結しても、難しいと思うよ」
「ふうん……違いがよく分かんないな」
「……俺にはどうして同じに見えるのかが、よく分からないよ。……ごめんね」
そこで顔を見合わせた二人の少年に、美和は思わず歩み寄っていた。
「あ、あんたたち――」
ビクッと肩を震わせて、二人は同時に振り返る。同じ瞳。背格好だけでなく、顔立ちもよく似ている。
「あの……」声を掛けてはみたものの、続く言葉を探しあぐねる美和に、キョウじゃないほうの少年が先に大きく肩を下げてため息をついた。
「はあぁー。見つかっちゃった」
「ん。見つかっちゃったな」
「ちょっと気を抜いたね」
「ん。気を抜いた」
「『罰』があるな」
「バツだな」
「仕方ない。――杉本さん、こんにちは」
「こんにちは」
「こ、こんにちは……」
二人の少年の、妙な間合いの掛け合いに、軽く酔いそうになりながら応える。
そういえば、キョウには兄がいるようなことを楠見は言っていた。たしか一緒に面倒を見ているって。言われたときは、漠然といくらか年上の人物を思い浮かべていたのだが、彼が楠見の言う「キョウの兄貴」だとすると――?
「あっと、キョウ……くんだよね」
「ん」
「ええっと、それと……?」
「はじめまして。ハルです」
もうひとりの少年は、礼儀正しく頭を下げた。
「驚かせたらすみません。ちょっと、杉本さんのことが心配なので、二人で様子を見させてもらっていました」
あくまで折り目正しくそう言われ、美和はやはり言葉を失う。
「下手に怖がらせたり不快な思いをさせたりしては申し訳ないと思って、こっそり見ていたんですが、ついつい」
「トカゲだと思ったからだ」
そう言って、キョウは玩具販売機を指差した。
『欲しいのがあるの? それ出したげよっか』
『まじで? サンキュー美和ぁ。あれ。頼むよ』
ふっと頭に浮かぶ声。クラスで流行っていたアニメのキャラクターのフィギュアが入ったカプセル。一番強いキャラクターのフィギュアを誰が取るかで、クラス中の男子が夢中になっていた。
丸いカプセルが詰まった販売機にぼんやりと目をやった美和の思考を、ハルが声を上げて遮った。
「あ、ちょっと見てただけなんです。こないだ理科の授業に、トカゲが出てきたんです。それで、気になっちゃって」
「ヤモリだったけどな」
「ええ。これは全部ヤモリで、トカゲはいませんでした。あ! キョウ、不味いよ」
「不味いか?」
「そうだよ、女性はたいていトカゲやヤモリは嫌いなんだ。杉本さん、すみません」
利発そうな瞳で軽く頭を下げられて、調子が狂う。
「あ、あの。いいけど、別に。それより見てたって……いつから」
「お昼前に、おうちを出たときからです」
それでは、最初に質屋に入るよりもずっと前から、この子たちは自分についてきていたというのか。
「それって……あの、楠見って人に言われて……?」
不穏な想像に眉を曇らせた美和に、ハルは慌てたように両手の平を見せて手を振った。
「あ、違うんです。楠見の指示ではありますが、楠見が心配しているのは、あくまで、杉本さんのことを見ていた怪しい男がいたからで。杉本さんの行動を疑っているわけではありません」
ハルのその言葉に、場違いに安堵してしまった自分を、認めないわけにはいかなかった。けれど――。
「怪しい男って……あの? 駅にいたっていう?」
「そうです。その後なにか思い出したことなんかありませんか? あるいは誰かの視線を感じるだとか」
「怪しい男」のことは気がかりだったが、実を言えばあまりそのことは考えていなかった。それよりも、突如として目の前に開けた将来のことと、これまでにしてきたことをどう清算するかということで頭がいっぱいで。
しかし。楠見がそれを重く受け止め気にしていたというのならば、美和自身ももう少し真面目に警戒しなくてはならないのだろうか?
そう考えたところで、美和は自分の発想に苦笑した。
いつの間に、楠見という男をそこまで信用してしまっていたのだろう。まったく、彼らのペースに巻き込まれすぎだ。
「……ないよ」戸惑いながら、美和はそう答えた。
「そうですか。こちらの取り越し苦労ならいいんですが、妙な気配がないか、念のためってことで」
「とりこしぐろうってなんだ」
「無駄な心配っていうことだよ」
キョウへとにっこり笑いかけて、ハルはまた怜悧な瞳を美和に向ける。
「それで、楠見は『本業』で忙しいので、代わりに俺たちが来ました」
「本業って、学校の……」
「はい。理事です」
「ふうん。あれ、ホントなんだ」
「もちろん」
「で、『裏の仕事』もしてる」
「はい。家業なんだそうです」
「ふうん……学校の理事で、裏の仕事があって、あんたたちの保護者ねえ」
「はい」
「あと、チキンだ」
「チキン?」美和とハルは、同時に声を上げてキョウに視線を集中させる。
「ん。『俺はチキンだ』って、くすみが言ってた」
「楠見がそんなことをっ? 楠見ってば。キョウになんて酷い言葉を教えるんだろう。抗議しなくっちゃ。キョウ? それは良くない言葉だから、人に使っちゃだめだよ」
「くすみは?」
「楠見には、いい」
「ん。分かった」
「話が逸れてすみません。それで本当に、変わったことはないですか?」
「え……あ、うん」
「それなら良かった」ハルは柔らかい笑顔を作ったが、すぐに「いや、良くないな」と心持ち表情を暗くした。
「黙ってつけていたのがバレてしまったので、罰があるんです」
「罰?」深刻そうに顔を伏せた二人に、美和は眉を顰める。あの、いかにも道徳的で真面目そうな男が、こんな子供に折檻を加えているとでも言うのか?
「罰って、……どんな?」
「楠見にアンパンを奢らなければなりません」
「俺はクリームパンだ」
「……ああ」と美和は肩の力を抜いた。「あ、あのさ、だったらあたし、気づかなかったことにして黙ってるけど?」
うかつに声を掛けてしまったのが不味かったかと、思わずそんなことを言っていた美和だったが、ハルは決然と首を横に振った。
「お心遣いはありがたいですが、これは俺たちの信念の問題ですから」
「……はあ」
どうにもこの子供たちには、調子を狂わされる。
それでも、と美和は思う。誰かに心配されたり、気にされたりするのは、少しだけ鬱陶しく、少しだけこそばゆく、そうしてほんの少しだけ、暖かく心地よい気分だった。
それで美和は、ふと思い立つ。
「あのさ」質屋から取り戻してきた箱を、差し出しながら。「その、楠見って人に、これ、渡してくんないかな」
「これって……」ハルはわずかに首を傾げながら、その箱を受け取る。横からキョウもそれを覗き込んで、目を見開いた。
「えっと……その。盗ったものは、できるだけ返す、から……」
二人の綺麗な瞳が真っ直ぐに美和の顔に集中したので、決まりが悪くなってそっぽを向いた。
「いや、あのさ、あいつに言われたからってワケじゃなくて。こっちももうやめようって思ってたとこだったからさ。ちょうどいいかなって」
言ってから、二人にはなんのことだか分からないかもしれないことに気づいた。
「ああ、そう伝えてくれればいいから。たぶん。それと、アルバイトも探すから。昨日ひとつ、面接受けてきたんだ」
ハルとキョウは、顔を見合わせた。そして、また美和に瞳を向けて。なぜだか二人揃って、嬉しそうに笑う。
「分かりました。伝えます。ね」
「ん」キョウが大真面目な顔で、こくりと頷く。
「……じゃ、よろしく」
「はい。楠見にまた連絡、待ってます」
それじゃ、パン屋さんに寄って帰ろうか。そんな会話をしながら歩いていく二人の背中を見送って。ふっと、カプセル玩具の販売機がまた目に入る。
あのくらいの歳の頃だった――。思い出は、懐かしく、そして少し苦い。
誰かに喜んで欲しくて。認めてもらいたくて。その能力を自慢したくて。軽い気持ちでした提案。ほかの誰も知らない美和の能力を知っていた雅史は、それに頼って。
ズルさせることを教えてしまったんだ。
(ごめんね、雅史)
それに、自分。ちゃんと、やめようって言おう。
心に決めて、美和は帰路に着く。
夕食を作って、コタツに入って、少しまどろんで。――日付が変わるころになっても、雅史は帰ってこなかった。
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