2.持って生まれた特別な能力なんだ

 ハルとキョウが持ち帰って執務室の机に並べたものを前に、楠見は腕を組んで、「ふむ」とつぶやいた。

 アンパンとクリームパンと、そして青いベルベットの、長方形のジュエリー・ケース。そのケースを手に取って。


「……これを、杉本さんが?」

「うん」

「そうだ」

「質屋から、出てきて……?」

「うん」

「そうだ」

「この間、宝石店で盗んだっていうもの?」

「うん」

「そうだ」


「……ふむ」


 ネックレスを取り出して、チェーンまでじっくり検分する。本物かどうかを見極める鑑定眼はないが、これが本物ならばたしかにかなりの高級品だろう。一カラットというとこのくらいだろうか。無色透明の、混じりけのない一粒ダイア。精巧にカットされた表面が、室内の明かりを反射して動かすたびにきらめく。チェーンはプラチナ。

 だが。保証書や鑑定書の類はない。盗品ならば、出所の分かるような書類を添付するわけにもいかないが、このままでは品質に見合った高値はつかないだろう。


 目を上げると、ハルとキョウが執務机の向こう側から興味深げに覗き込んでいる。

 楠見はチェーンを手に持って、二人の目の前にぶら下げながら。

「あの時は、もうひとつ盗ったって言ってたな」

「うん」

「そうだ」

「それはどうしたのかな」


 ハルとキョウに交互に目を向けて聞くと、二人はネックレスから視線を外し、顔を見合わせて同時に首を捻った。

「さあ」

「さあ」

「……ふむ」


 どうにも違和感が拭えない。

 質屋に売ったり取り戻したりしているという点も、引っ掛かる。

 問題の宝石店と質屋は、市区こそ違え、距離的にはさほど遠いわけでもない。これだけの高級品を、老舗質屋の店主が怪しまずに買い取ったのだろうか。


 ネックレスを、興味津々の様子のハルに渡し、楠見は電話を取り上げた。

 キラキラ光る宝石を手に取って、物珍しげに、仔細に眺めている二人に目をやりながら。

 三コール目で、船津刑事が電話に出る。

 手早く事情を説明し、調べてもらっていた件について聞くと、船津は少々声を低くして返してきた。


『例の、武蔵野市の宝石店ですがね。調べた限り、これまでに盗難届けは出ていません』

「出ていない……これほどのものがなくなったってのに?」

『ええ。彼らが盗ったらしい二点。どちらについても。それとなく警官を立ち寄らせてもらいましたが、特に何も言っていなかったそうです。それから、その前の二件の盗難についてもやはりまだ――』

 引き続きほかの件についても調べておくと言う船津に礼を述べて、楠見は電話を切った。


(どういうことだ?)

 ハルが手にぶら下げているネックレスに目を据えながら、首を捻る。


 ほかの盗難に関しては、持ち主がなくなったことに気づいていないだとか、ほかのどこかで失くした可能性を考えているだとか、そういう場合が考えられなくもない。

 だが、宝石店から二つの宝石が盗まれたことがまだ明るみに出ていないなど、考えにくい。

 そして、これほどの高級品だ。なくなれば、騒ぎにならないはずはないだろう。


 宝石店のほうにも、警察に届けられない理由――何かしら後ろ暗いところがあるのだろうか?

 だとすれば、彼らがこれまでに盗んでいたものというのは、いったい?


 じっと見ている楠見に気づき、ハルが机越しにネックレスを返して寄越す。楠見はそれを、ケースに戻した。

「ともかく、ご苦労さま。冷蔵庫にケーキが入ってるよ」


「え!」ハルとキョウは、同時に目を丸くして声を上げた。

「尾行が見つかっちゃったから、ケーキはなしじゃないの?」

「バツじゃないのか?」

「アンパンと」

「クリームパン」

「買ってきた」


 机の上に置かれた袋入りのパンを指差して、言い募る二人に、楠見は笑う。

「まあ尾行は失敗だけど、ちゃんと仕事はしてきてくれたからな。ご褒美だ」

「まじか!」

「やった!」


 嬉々として、執務室の脇の給湯室へと駆けていく二人を見送り、楠見は再び、今度はケースをあらためだした。

 杉本美和が心を入れ替え、「盗ったものを返す」と言ってきたのは喜ばしいことだが、それで一件落着となるほどコトは単純ではなさそうだ。彼らの仕事が、単に金目のものを盗むというだけではなかっただろうという考えは、確実なものに思えた。

 妙な仕事に関わっているのでなければいいが、ハルとキョウの報告にあった美和の様子からして、本人たちに「妙な仕事に関わっているかもしれない」という認識があるのかさえ覚束ない。


 美和だけでなく、ほかの二人からも話を聞かなければならないだろうか。

 船津からの続報を待って相談してみようと、ケースに目をやりぼんやりと考えながら、楠見はアンパンの袋を開ける。

 片手でケースを開けたり閉じたりひっくり返したりしながらアンパンを一口かじり、ふと思い立って、パンをくわえたままケースの内部、サテンの張られた中敷を持ち上げてみて。


(……これは――?)


 中敷の下。ケースの底にピタリと嵌められている、折り畳まれた白い紙。取り出し、広げて――。かじりかけのパンを机に置き、楠見は再び電話を手に取った。









――深い河。ヨルダン河

――私の家は、その向こうにある

――深い河。神様。あの約束の地に、私は行きたい


 薄っすらと、頭の奥でリフレインする、深い声。温かく、重く。子守唄のように、柔らかく。

 ああ。エルマの歌声だ。そう。エルマが語りかけるように紡いだ歌声。そこに垣間見た、眩しい景色。あの「約束の地」に。ここではないどこかに。

 あたしはずっと、行きたかった。


 体にぬくもりを感じながら、美和はぼんやりと、そんなことを頭に思い浮かべていた。




 クラスの誰かが失くしたものが、美和の机やカバンの中から出てくる。


 シャープペンだったり、リボンだったり、バッグにつけていたマスコット人形だったり。それは大抵、素敵なもので、かわいいもので。誰かがほかの誰かに自慢したくて、学校へと持ってきたもので。美和が、いいなあ、欲しいなあと思ったもので。

 けれども施設でもらえるお小遣いは少ないし、買って欲しいとねだれる相手もいなくって、だから美和は遠くに見ながら諦めていたもので。


 あれは、そう。小学校の三年生くらいだったか、四年生の時だったか。

 どうしてか分からないけれど、そんなことがたまに起きるのを、美和は自覚していた。

 だから、シャープペンが失くなった時は、自分のペンケースから出てきたそれを、慌てて元の持ち主の子のバッグに入れた。リボンの時は、落し物を見つけたフリをして返した。

 マスコットのときは。元の子の持ち物に入れる機会を見つけられなくて。騒ぎになってしまったから、今さら見つけたフリもできなくて。クラス中の全員で探して、持ってきた子は、そんなものを学校に持ってくるからいけないと先生に叱られて、泣いていて。


 どうしようもなくて、美和は、カバンの中に入っていたそれを、帰りに校庭の隅に捨てた。

 ――それを、誰かが見ていたのかもしれない。

 あの子は他人のモノを盗むクセがある、と、その後クラスで噂になったから。


 だから。クラスで一番の人気者だった女の子が、学校に持ってきたネックレスを失くした時。みんなが美和を見た。美和の机やロッカーやバッグ。みんなの前で、持ち物を全部あらためられた。

 取替えられずに小さくなるまで使った鉛筆や消しゴムや、誰かのお下がりの古臭い柄のノートをみんなに見られたのは恥ずかしかったし。輪の外側にいた男子から、「あいつは『コジ』だから」という言葉が聞こえたときは涙が浮かんできたけれど。

 でも。机の一番奥から、そのネックレスが出てきた時の絶望感は、それまでのいろんな感情を全部かき消した。


 嘘つき。泥棒。


『美和はそんなことしねえよ。なあ、美和?』


 口々に囃したてるクラスメイトたちの前に立ちはだかって、きっぱりとした口調でそう言ったのは、雅史だった。

 何度か同じクラスになったことがある、それでも大して話したことのない、ひとりのクラスメイトとしてしか認識していなかった男子。どうしてあのとき庇ってくれたのか、今でもよく分からない。




 クラスの誰かが失くしたものが、美和の机やカバンの中から出てくる。


 それからも、二回か三回くらいそんなことがあって、担任の教師は施設の指導員へと面接にやってきた。美和の「非行」を相談された指導員は、首を捻りながら美和を教会へと連れていき、そこで紹介されたのがエルマという体の大きな黒人女性だった。


 エルマは美和に、歌と英語を教えてくれた。

 それから――


『あたしも不思議な力を持ってたんだよ。ヒミツだけどね。だからあたしは、あんたのことよく分かる。あたしはあんたの味方だ』

 エルマは流暢な、けれどどうにもおかしなイントネーションの日本語でそう言って悪戯っぽく笑うと、美和の机やカバンの中に他人のものが入っているのは、美和の特別な能力のせいなのだと教えてくれた。

『練習して、自分の考えた通りにその力を使えるようになんなさいな。そうすれば、知らないうちに使っちゃうことはなくなるから。ねえ。持って生まれた特別な能力なんだ。感謝して、大事に使うんだよ』


 そう言われた美和がどうやってこの力のコントロールを身に付けたのか、自分でもよく分からない。練習というほどのことをしたような記憶もない。けれど、次第に美和はその能力を自分の思うように使えるようになり、無意識に誰かのものを引き寄せてしまうこともなくなった。

 代わりに欲しいものを手に入れられる「ヒミツの力」を得た美和は、誰かに知って欲しくて、喜んでもらいたくて。

 ずっと美和を庇ってくれていた雅史にだけ、こっそり打ち明けた。


『欲しいのがあるの? それ出したげよっか』

『まじで? サンキュー美和ぁ。あれ。頼むよ』




 美和の中学校の制服姿を見て喜んでくれたエルマは、それから間もなくアメリカに帰っていった。年老いた故郷の父親だか母親だかが体を壊し、娘の帰国を望んだからだということは、後から教会の人に聞いた。

 知っていたら、もっと違う別れ方をしたのに。

 知らなかったから――


『嘘つき!』


 酷いことを言ってしまった――自分が言われて一番傷ついた言葉を――。


『嘘じゃないよ。本当だよ。アメリカに帰っても、ずっと美和のことを忘れない。ずっとずーっと、美和の味方でいるよ』


 慰めるように言うエルマの顔を、美和は見ることができなかった。裏切られた気持ちで。泣きそうで。そんなにまで他人の存在に心を許していた自分に腹が立って。


 事情を知っていたら――


 ううん。美和は心の中で、首を横に振る。知っていても、きっと拗ねて嫌なことを言ってしまったに違いない。だからエルマは美和に、「両親の元へ帰る」と言えなかったんだ。


『ねえ。また会いにくるよ。それとも、美和。あんたがアメリカに来てもいい。ね、遊びにおいでよ。歓迎するから』


 アメリカに?


――深い河。神様。あの約束の地に、私は行きたい


 そう。それもいい。


――すべてが平和と幸福に包まれた、あの地へと


 エルマはまだ、美和のことを覚えてくれているだろうか。

 歓迎してくれるだろうか。


――深い河を渡って、行きたい


 手紙の一通も、書いたことはなかったけれど。


『たとえば……アメリカなら――』


 だけど――。


 そんなことが、本当に――




 無性に喉が渇いて、美和は目を開けた。

 コタツに突っ伏して、頬を天板にくっつけて、小一時間もうとうとしていたらしい。

 点けっぱなしのテレビの中で、五、六人のタレントがけたたましい笑い声を上げた。


 圧迫されていた頬に軽い熱を感じてこすりながら、美和は体を起こす。

 午前一時を回っている。


「……雅史?」

 いないだろうと思いながらも、呼んでみた。返事はない。

 戻っていない。今日は本来の家へ帰ることにしたのだろうか。それならそれで、連絡くらいくれたって――


 思ったところで、携帯電話が着信を告げる小さな電子音。

 音源の電話器は、コタツの敷布の上に転がっていた。雅史からだ。


「雅史、あんたどこに――」

『美和! お前いま、家か?』


 文句の声を上げようとした美和を遮るようにして、雅史は低い声で訊いてきた。いつにない緊張感を載せた声色に、美和は一瞬口をつぐむ。


『おい、美和?』

「え……うん、うちにいるけど……なに?」

『いいかよ、美和。今すぐ、そこを出るんだ』

「は? ……今すぐって、何時だと思って……」

『いいから!』


 短く制する雅史の声に、美和の心はにわかにざわめきだす。何があった――?

 喉が渇く。

 電話を持ったまま立ち上がり、冷蔵庫に向かう。


『おい、聞いてんのか? ともかくすぐに出ろ。今、そっちに……』

「ちょっと待ってよ。だから、なに言ってんの?」


 雅史の口調に、じんわりとした恐怖心が背中を這い上がってくるのを感じながら、冷蔵庫の扉のポケットからウーロン茶のペットボトルを出す。


『いや、後で説明するから。いいか、悟の店だ。俺も悟と、これからそこに行く』


 携帯を肩で支えながらペットボトルの蓋を開け、一口飲んだ時だった。


 ギシリ。


 どこか遠くで、聞き慣れた音。

 アパートの、錆び付いた階段。それは人が歩くたびに、もう勘弁してくれと言わんばかりの音を立てる。

 外からの音に耳を澄ましながら、もう一口ウーロン茶を飲む。


 ギシリ。


 誰かが。

 酷くゆっくりとした足取りで。

 それはおそらく、自分が近づいていることを悟られぬための。


『十分後に着く。おい、気をつけろよ。ともかく急いで――』


 切迫した雅史の声を、美和はもう聞いていなかった。

 耳をはじめとする体中の神経は、階段を上って近づいてくる何かに向けられていた。

 無意識に、ペットボトルと携帯電話を手にしたまま、室内へと後退する。


 ギシリ。

 階段の、そろそろ中ほどまで差し掛かっている誰か。

 美和よりも、雅史よりも重い体が、階段を踏みしめて。


 脳裏に浮かんだのは、あの、駅前で会った「怪しい男」。


 サッと背後を振り返る。迷っている余裕はなさそうだった。わけは分からないが、ともかく移動しなければならない。危険。あの足音がこの部屋の前に来るまでに、ここを出なければ。それは直感のようなもの。


 部屋を突っ切り、窓を開けてベランダへ出る。

 安普請の古いアパートは、防犯にもさほどの頓着はなく、人目さえ気にしなければベランダを伝って降りて道に出ることも可能だ。

 携帯をジーンズのポケットに入れ、ペットボトルをその場に置くと、美和はベランダ用のサンダルを突っかけて、できるだけ音を殺して手すりを乗り越えた。

 柵を掴んでゆっくりと腰を落とし、ベランダの下を通る梁に足を掛ける。

 そこを足掛かりにしてさらにゆっくりと柵を辿り、一階のベランダの囲いの上部に片足が掛かると、部屋を仕切る柱にしがみついて一階の囲いに完全に乗り移る。


 柱を支えにしてしゃがみ込み、囲いに手をついて後ろ向きに足を下ろし。

 足の裏が地面に着いたことを認識すると同時に、美和は全速力で走り出していた。

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