11.その場所へと彼らは行くのだろう

 バーや居酒屋の連なる街を、全力で走り抜ける。

 途中、またマシューの顔見知りらしいどこかの店の店員と出くわして、マシューが足を緩め早口に「キャシーを見なかったか?」と聞く。

 と、店員は通りの向こうを指し示し、

「なんだか物凄く慌てた様子で、あっちのほうへと走っていたよ」


 楠見には、おぼろげながら犯人がどういう種類の人間なのか想像がついていた。出勤してきたキャシーがバーに入る直前に中で起きていることに気づき、入るのをやめて逃げ出したのだろうということも。


 だとすれば、自宅には向かわないだろう。そうなると行く先は――? 大学か。それともほかに?


 走りながら、猛烈な後悔と無力感に襲われていた。

 こうなることを、一番心配していたのだ。それなのに。


(早すぎる――!)


 自分の甘さに歯噛みをする思いだった。

 があるとしても、ここまですぐに動きがあるなどということは。起こることを予測し、それとなくキャシーやマシューに注意を促し、彼女の安全を守る手はずを整えるだけの猶予はあるだろうと。

 自惚れていた。守れると。自分にはそれができると――。


 いや。後悔している暇はない。


(キャシー!)

 強く念じる。

(どこにいる? いたら返事をしろ!)


 ひたすらに、呼びかける。

 と――。


「助けて! マシュー! クスミ!」


 頭上から聞こえた叫び声に、楠見とマシューは足を止めた。

 一瞬だけ視線を合わせ、あたりを見回す。


 ひと気のない街外れの雑居ビル。その外付けの階段の、三階ほどの高さの踊り場で、蹲って柵にしがみつき見下ろしているキャシーの姿。

 マシューは弾かれたように階段の昇り口に走り、鉄の段を踏み鳴らしながら駆け上る。


(無事だった)


 しかし、息をつくことはできなかった。

 助けを求めるキャシーの叫び声は、聞かれはならない人物にまで届いてしまったらしい。


 恐怖に見開かれたキャシーの瞳の先。隣のビルの陰から、背の高い細身の男が姿を現した。

 男は迷う素振りも見せずに、階段の踊り場へと手に持った拳銃を向ける。


 マシューがキャシーの元にたどり着き、腰が抜けたように動けずにいる彼女を抱き締める。

 銃口は、真っ直ぐに二人を狙って。

 男に気づき、マシューが驚愕に顔を歪めながらキャシーを腕に抱き込んだ、その時だった。


 銃を持つ男の腕が、妙な動きを見せた。


 二人に向けられていた銃口が、少しずつ、狙うべきものから離れる。男の肘はゆっくりと角度を変える。それが銃を持つ男の意思ではないということは、男の顔に浮かんだ戸惑いの表情から分かった。

 じわじわと。

 肘は直角に曲がり。さらに鋭角に。

 銃口は、次第にそれを持つ男の頭へと向かい。


 こめかみに、ぴたりと付けられた瞬間。男は愕然と目を見張り。同時に指が、引き金を引く。


 銃声。


 楠見は思わず目を閉じた。

 ほんの一、二秒ほどの間を置いて。


「いやあああッ!」

 キャシーの絶叫。

 取り乱したように、両手で頭を抱え激しく首を振るキャシー。


 わけが分からず呆然と、それでもキャシーを強く胸に抱いたマシュー。その困惑に満ちた瞳が楠見に向けられる。


「いや! いや! いやああぁ!」


 泣き叫ぶキャシーを痛ましく思いながら、楠見は先ほど男が出てきたビルの陰へと視線を向けた。


「出てきてください。だけで姿が見えないから、彼女が脅えている」


 ビルの角から出てきたのは、黒いロングコートに身を包んだ壮年の男。

 彼は落ち着いた足取りで楠見の目の前までやってくると、かけていたサングラスを外し胸のポケットにしまいながら軽く頭を下げた。


「お怪我はありませんでしたか。ジュニア――」

「ええ。助かりました。ドクター・デイビス。感謝します」


 微笑んで軽く頭を下げた楠見に、男は抗議するように眉を寄せた。そうして日本語に変えて、

わか――。大学の外では、そういう言葉遣いはおやめいただくよう申し上げていたはずです」


「だけど、ここだってまだ大学の続きみたいなもんだし」

 少々困った目で、楠見は男を見る。

「指導教授と学生なんだから、これじゃないほうが不自然でしょう」


「若。それでなくとも私は、あなたが超心理学研究室に出入りするのをお止めしなかったかどで、『会長』やマクレーンから睨まれているのです。世間に隠れるために普通の学生のように振舞われるのは結構ですが、本来の立場をお忘れになっては――」


「ああ、分かった、分かりました。すみません」

 説教が始まりそうな気配に、楠見は慌てて相手の言葉を遮って謝罪する。


「ドクター……デイビス……?」

 頭上から、信じられないという様子でマシューがようやくつぶやく。


「ああ。サイコキネシスなんだ」楠見は男を指し示して二人のほうへと声を掛けた。「大丈夫だよ、キャシー。彼は味方だ。助けに来てくれたんだ。もう心配ない」


 両手で頭を抱えながら、まだ不安げに涙に濡れた瞳を向けるキャシー。

 小さく息をついて、楠見は控えめに笑う。


「さっきの無理な実験と、それにショックな出来事もあって、能力が過敏になっているんだ。少し休めば元に戻ると思うけれど。――降りてこられるかい?」


 マシューは労わるようにキャシーの顔をうかがい、それから小さく頷いて彼女を支え立ち上がった。

 二人が鉄の階段を降りてくる足音を聞きながら、デイビスは足元に転がった男を確認する。


 楠見もその死体に目をやって、眉を顰めた。

「何も、殺すことはなかった」


「殺さなければ、また狙われます」

「マクレーンに引渡して、詳しい話が聞ければそのほうが――」

「マクレーンだってこの場ではこれが最善策だと言いますよ。彼は後からいかようにでも調べることができる」

「だけど。……俺は、こういうやり方は好きじゃありません」

「あなたは甘すぎる。この者を見逃せば、我々の手の届かない場所で必ず再度の接触を図ってきます。始末して、彼女が逃げるまでの時間を稼ぐ必要があるでしょう。それに、あなたのことまで知られてしまった可能性あっては」


 そうだ。すべては自分の浅はかさが、招いた事態。

 楠見は目を閉じて、体の空気を絞り出すように深く息をついた。


 階段を降りてきたキャシーが、転がっている男の死体に目をやって震えるように声を上げる。

「あたし……あたし。バーに入ろうと思ったら、中からマスターの意識が……それで怖くなって、逃げて……」


 脅えたような視線をマシューに向けるキャシー。マシューはその肩を強く抱いて、背中をさする。


「マスターは? どうなったの? この……この人は……いったいなんなの?」


「反能力者組織の者でしょう」

 肩膝を地面について、デイビスが三人に向かって顔を上げた。

「おそらく実験を見学していた者の中に、関係者が混ざっていたんです。そして彼女の能力を確認して、暗殺者を送った。サイ組織ならば、先に彼女の身柄を確保しに来るでしょうからね。すぐに始末にかかろうとするところを見ると――」


「……ちょっと……待ってくれ。何がいったいどうなっている?」

 キャシーの背中をさすりながら、マシューが困惑の声を上げる。


 腕を組んで、楠見はそっとため息を落とした。そうして。

「キャシーの能力が、『サイ』の業界に認知されたんだ」


「……それは?」

「マシュー。これからキャシーは、大きく分けて二種類の組織から狙われる危険がある」

「……なに?」


 一瞬ためらい、それでも意を決して楠見はマシューに向かい合い。


「ひとつは」地面に伏した男に目をやって。「反能力者組織。サイを危険な異端者として、抹殺しようとする団体」


 理解できないというように、マシューは眉を寄せて首を捻る。構わずに、楠見は続けた。


「もうひとつは、彼女を抱え込んで、その能力を利用しようとする団体。それが彼女を守ってくれるだけの組織なら問題は少ないけれど、悪用しようとする者が、おそらく接触してくる」


 沈痛に視線を落として、少し考えて。

「それらの組織の追っ手がかかる前に」苦しかった。けれど、言わなければならないことだった。「キャシーはここから逃げなければならない」


「クスミ……きみは、いったい……?」

「前にも言ったけれど。俺はサイを守る立場の者だ」


 苦い思いで、けれども楠見はどうにか微笑みを作る。

「彼女を危険にさらしたくはない。それに、その能力を悪用させることもしない」


 言いながら、ポケットから一枚のカードを取り出す。

「この人が」

 マクレーンの名刺。それを、マシューは思わずと言った様子で受け取った。

「今後のことはすべて手配して、助けてくれる。俺がアメリカで一番信用しているサイ組織のトップだよ。彼を頼って、キャシーを安全な場所に匿うんだ。いますぐに」


 けれど。そうしてキャシーは、これまでの社会との繋がりを断ち切って。別の世界に行かなければならないだろう。マシューはそれを。――別れを、受け入れられるのか?


「ごめん」

 自然に、贖罪の言葉が口をついていた。

「先に全部を話しておくべきだったんだ。こういう危険があるってことを――」


 呆然とした表情で見つめるマシューと、視線を合わせることは。痛かった。けれども。


「本当に。謝って済むことじゃない。だけどこうなったら、もう猶予はない。すぐに。キャシーを連れて彼のもとを訪ねてくれ。必要なものがあれば送り届けるから、家には寄らずに」


 黙って見守っているデイビスに、助けを求めるように視線を送る。


「あなたを今おひとりにすることはできません。私が離れては、あなたが身を守る手段はない。少しくらいの時間稼ぎはできたでしょう。彼に、送ってもらうのが最善かと」


 仕方ない。

「駅まで送るよ。そこから先は、マクレーンに迎えをよこしてもらおう」


 呆然とした面持ちで、マシューはまだ状況の飲み込めない様子で小さく震えているキャシーに目をやった。









 電話が鳴ったのは、自室でぼんやりと寝転んで天井を見上げているときだった。

 急いで受話機を取り上げる。


『クスミ――』

 別れてから何時間も経っていないというのに、その声はひどく懐かしく聞こえて、楠見は受話器を握り締めた。


「マシュー。無事に着いたんだな。マクレーンには会えたかい? キャシーは?」

 勢い込んで聞いた楠見に、電話の向こうで苦笑するような間があった。


『ああ。無事だよ。キャシーも落ち着いている。ミスター・マクレーンからいろいろ話を聞いた。彼が手配をしてくれて、すぐに別の州へと移動することになった。明日の朝一番で発つ』

「そう……。心配だけど、彼はキャシーの身の安全は確実に保障してくれる。だから――」

『ああ。クスミ。俺も一緒に、行く』


「え……?」

 受話器を握り締めたまま、動きを止める。


『いろんな組織から狙われているキャシーを、ひとりだけ遠くにやることはできないよ。俺も一緒に逃げる』


「だけど、マシュー」楠見は慌てて言葉を捜す。「研究室は……あの実験のことは、どうするんだ? ドクター・ウィルソンも……それにきみ自身だって、これからの研究は」


『クスミ。聞いてくれ』

 マシューは強い口調で、困惑に包まれた友人の言葉を遮った。


『俺は、不正を犯した』


「なんだって……?」

 電話の向こうの相手の言ったことがよく分からずに、楠見は目を見開く。


『いいかい? キャシーは超能力者なんかじゃない。ただの、バーのシンガーだ。俺は、ロチェスターから資金援助を続けてもらうために、彼女に一芝居打ってもらうように頼んだ。サムや研究室のみんなを騙して、ついでに自分の功績も上げようとした。実験は、――トリックだ』


「なにを、言ってる……」


『上手くやり抜けると思ったが、最後にケチが付いたな。これ以上調べられたら、すべての嘘がバレる。そうならないうちに、俺はキャシーを連れて逃げ出すことにした』


「マシュー?」


 フッと、今度は本当に電話の向こうで笑うような息遣いが聞こえた。


『そんな風に、サムに手紙を書いた。すべて俺のやったことだ。研究室の存続は難しいかもしれないが、将来有望な研究者たちの名前まで汚すことはない。彼らはこの実験とは無関係で、騙されていただけなんだからな』


「マシュー……きみは」

 ひとりですべての泥を被って、姿を消すっていうのかい? キャシーを守るために?


『クスミ』

 静かに、マシューは呼びかける。

『すまないな。俺は本当に身勝手な男だよ。研究室が大変なときに、自分の恋人を守るために一緒に逃げ出しちまうんだ。このくらいの汚名は着なきゃ、釣り合いが取れないだろう?』


「だけど、マシュー」

『それにな、この実験の片を付けるには、それが一番手っ取り早い。お前さんには申し訳なかったが』

「……俺のことはいいんだ。だけど、これからきみたちは」


 マクレーンがサイ組織に追われる者をどう守るのか。それを楠見は知っている。

 マシューが大学に、研究に戻れる可能性は、もう――。


『名前を変えて、別の場所で別の人間として暮らす。住む場所も働き口も、マクレーン氏が手配してくれる』

「研究は……諦めるのか?」

『そうなるな。まあ、いいよ。俺にはキャシーがいればいい』

「そう」


 キャシーにも、きっと――。

 それが一番――。


――魔法の馬車が迎えに来て、そこへとあなたを運んでくれる


 そう言ったキャシーの言葉が、耳の内によみがえる。


『クスミ。お前さんとももう会えないだろうが』

「ああ……」

『お前さんと話すのは楽しかったよ。ありがとう。いつか……ほとぼりが冷めて、マクレーン氏の許しが出たら。また酒でも飲みたいな』


 胸に込み上げてくるものがあって、楠見は懸命に堪えながら、どうにか一言だけ吐き出した。

「ああ。そうだね」


『元気でな』


――本当の場所。誰もが安らげる、その人にとっての唯一の場所。

 必要とされ、認められ感謝されて、大切にされて。なんの心配もなく笑って暮らせる――


 その場所へと。彼らは行くのだろう。

 マシューはそこへ、キャシーを連れて行く。

 すべてを捨てて。たったひとりの人を守って。


「きみも、元気で。それに……。キャシーと、幸せに」

『約束するよ』


 力強くそう言ったマシュー。

 彼の言葉を聞いたのは、この電話が最後だった。

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