10.研究者を陥れるってことがこれだけ簡単に

「九十九枚!」


 テーブルの上に、数枚ずつ束ねて並べた封筒の山。それを前に、楠見は何度目かの台詞を叫んで、それからため息をついた。

「駄目だ――何度数えても一枚足りない」


 そのたびに、テーブルに肘をついているマシューが額をその手で押さえてに顔を伏せ、深く椅子の背にもたれたウィルソン教授は太い息を漏らす。


「正しく完全な署名のある封筒が四枚」

 楠見はそれを軽く取り上げて、またテーブルに戻す。

「不使用となった予備の封筒が九十四枚。その中で俺の署名だけがないのが、四枚」


 そうして。

 問題の一枚を、楠見は改めて取り上げた。

「俺のサインだけ後から書き足したらしいのが、一枚」


 最終回に使うはずだった正しい署名入りの一枚だけが、どうしても見つからない。

 実際に実験に使われたものは、楠見が署名をせずに不使用の箱に移した予備に、後から楠見の署名だけが書き足されたものだった。そうして。


が、最後の実験に使う一枚を、サインを偽造した予備のものとすり替えた――」

 苦々しい口調で低く言うマシューを、楠見は睨みつける。


、だって?」

 憤然と、手に持っていた一枚をテーブルに放り出して。

「ブライアンに決まってる! ひっくり返した箱を片付けるときに一枚抜いたんだ! いや、数を確認したときかな。数えていると見せかけて。そもそも――どこかで細工する機会をずっと狙っていたんだ!」


 楠見を箱に近づかせないように牽制したのも、実験を中断させようと言った楠見に食ってかかったのも。後半で何か細工を仕掛けようとしていたためなのだろう。


「ああ!」と楠見は両手で頭を抱えた。後悔が巨大な重石のように、両肩に、背中に圧し掛かる。「あの時――ブライアンのことなんか相手にせずに、予備の枚数を俺が確認していればよかったんだ」


「お前さんのせいじゃないさ」

 ため息混じりに。マシューは顔を上げテーブルに両手を置き、その手を眺めながらつぶやく。

「俺が功を焦った。お前さんの言う通り、実験はあそこでやめておくべきだったよ。……不正ができないようにするためのシステム。それを悪用されるなんてな」


 自嘲気味に顔を歪め、マシューはまた額に手を当ててこする。


「ブライアンを問い詰めましょう」

 難しい顔で黙り込んでいるウィルソンに、楠見はそう訴える。が、異を唱えたのはマシューだった。


「無駄だよ。認めやしないさ。証拠だって残しちゃいないだろう」

「だけど、すり替えができたのは彼しかいないんだ」

「状況証拠でしかない」

「カメラに何か残っているかもしれない。調べようよ」

「一通り見てはみるが。まあ、何もないと思うぞ。さっき俺があのアンチに疑われたみたいにな。ブライアンはこの実験室でカメラがどこをどう映しているか熟知しているんだ。死角を突くくらいわけないさ」


「だけどっ」諦めたような口調のマシューだが、楠見は憤懣を抑えることができない。「このまま黙ってブライアンの追及はやめるってのかい? 実験は……研究室はどうなるんだよっ」


 絞り出すように言った楠見に、マシューが目を上げた。

「けどな、クスミ。ブライアンが『自分がやった』って言ったところで、問題が解決するわけじゃあない。外部のアンチが妨害しようとしたってんなら皆は納得するだろうがな、ブライアンは身内だ。客観的に考えて、実験に水を差したい理由がないだろう? それに仮に奴の悪戯を証明したとしても、研究室の不祥事であることに変わりはない。ロチェスターに見放されるのは、もう避けられないだろうな」


 反論が見つからず、楠見は唇を噛む。

 ブライアンが実験に水を差したい理由――? 自分が中心になっている研究をかすませてしまう、マシューの一大プロジェクトを潰そうと思ったのか。自分より才能も人望もあるマシューへのやっかみか。そんなマシューに目をかけるウィルソンへの失望か。キャシーや、あるいは楠見に対する嫌がらせもあるのかもしれない。


 けれどこの実験が不成功に終われば、研究室の存続は困難。それどころか、実験に不正があったなどとなれば、資金の問題だけでなくウィルソン研究室に再起の可能性はないのだ。

 そこまでの強い負の感情をブライアンに抱かせたものは、いったいなんだというのか?


 だが。損得よりも何よりも、まず他人の功名が許せない種類の人間は、確実にいるのだ。


「ともかく」マシューはわずかに姿勢を正し、ウィルソンを正面から見つめる。「今後のことを――」


 胸を締め付けるような不快感をいったん飲み込んで、楠見はウィルソンへと目を向ける。

 ずっと黙っていた老教授は、二人の視線に応えず考え込むように顎を撫でた。


 最善の策を――と楠見は考えをめぐらす。

 ロチェスターの資金援助を諦めて、この際この実験はなかったことにしてしまえれば、それが一番無難なのだろう。だが、それはできない。立ち会った者たちの口を封じることなどできないのだ。

 となれば。


 実験は不成功に終わった。だが、不正はなかった。それを証明することだ。

 キャシーの能力は本物だ。この実験に、一切の不正はなかったのだ。それは紛れもない事実。遠回りにはなるが、ゆくゆくこれが認められれば新しい援助希望者も現れるかもしれない。

 何よりも、マシューとウィルソンが不正者の烙印を押され、今すぐ学会から追われることだけは避けなければならない。


「実験の結果はこのまままとめて、発表しましょう」

 黙りこくったままのウィルソンに、楠見は身を乗り出してそう提案する。

「三回目まではなんの問題もなかった。そこまでの結果は認められるでしょう? 後半は、不審な出来事があった。けれど実験に影響のない、別の出来事だ。起きたことをありのままに公表すれば……。俺は検証文を書きます」


 真剣に訴える楠見の瞳を老博士はしばらく見つめていたが、やがて小さく首を振った。

「クスミ。きみの申し出は嬉しいが。――こちらから頼んでおいて振り回すようになるのも申し訳ないが、きみはもう、この実験に関わらないほうがいい」


「ドクター、だけど」

 眉を寄せる楠見。だが、ウィルソンは遮るようにして。


「あのアンチが……あるいはほかの研究者がね。学会を通じて、今日の実験のデータと記録映像・音声をすべて提出しろと言ってくるよ。こちらは拒否できない。そうなれば、彼らはあることないこと因縁を付け、不正のストーリーをでっち上げる」


 そう言って、ウィルソンは小さく笑った。

「なに。ずっとこの世界で行われてきたことさ。今回の実験だけが例に漏れることはなかった。それだけのことだよ」


「でも……そんな」

「不正はなかった。だが、それを臭わせる些細な問題がひとつでも生じれば、この実験はおしまいだ。ハッ。誰かは知らんが、上手い方法を考えるもんだよ。研究者を陥れるってことがこれだけ簡単にできる学術分野は、ほかにそうないだろうな」


 長年その学術分野に身を置いてきた老博士の言葉には、笑いすら混じっている。


「クスミ」ウィルソンは、微笑みを浮かべたまま目を細めた。「きみは将来のある研究者だ。不正のリストに載せられようとしてる実験に、名を連ねていてはいけない」


 きっぱりと、両手を広げて。

にきみを巻き込んだりして、申し訳なかった。けれど、一方的な頼みで悪いが手を引いてくれ。我々はこの種の問題には慣れている。あとは自分たちでどうにかするよ」


 それは。本来ならばこの実験に関わりのないはずだった楠見との距離を明確にして、楠見だけでも安全圏に押しやってやろうという老教授の好意なのだろうが。けれど。


 みんなして、俺を危険から遠ざけようとする。ウィルソン教授も。マクレーンも。

 楠見は奥歯を噛み締める。


 力のなさが、悔しかった。

 安全な場所にいたいわけではなかった。

 ウィルソンやマシューやキャシーや。そうしてサイたちのために、自分も一緒に闘いたいのに――。


 しかし、それだけ言って、ウィルソンは立ち上がった。

 そうして自室の扉へと向かう。


「二人とも、遅くまで悪かったね。今日は長い実験で疲れただろう。帰って休みたまえ。マシューは明日またここへ。今後のことを話し合いたい」


 そう言って部屋に入っていくウィルソンの背中を見送って、楠見はマシューと目を合わせた。




「どうするつもりなんだ?」

 研究棟を出て、広いキャンパスを歩きながら楠見は隣を歩くマシューに話しかける。

「教授はああ言っていたけど。諦めるわけじゃないだろう? キャシーのことだって……」


 同じ歩調で足を進めながら、マシューは宙に向けて白い息を吐いた。

「けれど、再起の望みも薄いだろうな。サムの言う通りだ。アンチは俺たちを叩き潰しにくるよ。打開策があるとすれば、……そうだな。もっと大きな場所で、キャシーの能力の公開大実験でも行うか。マスコミも呼んで?」


 憤然とマシューの説得を試みようとしていた楠見も、その言葉で勢いを失う。

 そんなことは勧められない。いや、むしろ反対しなければならない、それどころかいよいよマクレーンの力を借りてでも阻止しなければならない種類の行為だ。

 そもそもこの規模の実験にだって、自分は反対していたはずだった。それなのに……。


 我に返って消沈したように黙った楠見に、マシューも同じことを考えたようで薄く笑う。

「お前さんは実験に反対していたくせにな」


「……そうだった。その通りだ」

「こうなることを見越していたのかと思ったが、違うみたいだな。まだほかに、別の心配があるってのかい?」


 答えられずに、楠見は俯く。つま先が、転がっていた小さな雪の塊を蹴った。その転がっていく方向にぼんやりと目をやりながら、マシューは微笑みを消して。


「本音を言うとな」

 真面目な口調で、そう切り出した。


「俺は、まあ、いいよ。そもそも自業自得だし、不正者として見られようと俺のことはどうとでもなる。サムには申し訳ないが、彼もとっくに覚悟を決めている。けどな」


 そこでまた小さくため息をついて。

「キャシーが世の中から嘘つき呼ばわりされるのだけが、我慢できない。たとえ一時期のことだとしても、狭い学会内だけのことだとしても、な」


「……そうだな」

 どこか痛々しい友人の横顔を見やって、楠見は答えた。


 それきりしばらく、黙って歩く。


「クスミ。このままバーへ行かないか?」

 キャンパスの門を出ようというところで、マシューは楠見を呼び止めた。

「キャシーのことだから、こんな日でも歌うだろう。気落ちしてるだろうから、慰めるのに協力してくれよ」


「……ああ」頷いて、マシューとともに学生街のミュージックバーへと歩き出した。




 どこか騒然とした雰囲気は、学生街の中心部に近づくにつれてはっきりとしたものになっていた。

 通りのそこここで、数人ずつ固まって道の先を見つめ、何事かを話し合う人々。店々の従業員も外まで出てきて同じ方向を不安げに眺めている。

 緊急車両の音が、そう遠くはない場所から聞こえている。


 楠見はマシューと一瞬顔を見合わせ、心持ち足を速めた。

 途中、マシューの馴染みらしい店の前で、ほかのいくつものグループと同じように一方向に視線を向けながら話し合っている、数人の店員と客の一団に出会った。


 顔見知りを見つけたらしく、マシューはそこへと駆け寄る。

「何があった?」


「ああ、マシュー」

 髭を生やしたバーテンダー風の男が、不安げな眼差しをマシューへと向ける。

「発砲事件らしいんだ。ジョーンズのミュージックバーだよ。誰か撃たれたって話で、いま警察と救急車が――」


 最後まで聞かずに、マシューは走りだしていた。楠見も追う。


 緊急車両はキャシーのミュージックバーの前に集まっていた。

 規制線が張られ警官が忙しなく歩き回る向こうで、救急車のドアが閉まる。


 駆け寄ろうとしたマシューを、警官が押し留めた。

「ミスター。ここから先は――」


「誰が撃たれた!」


 警官の両腕を押さえ、必死の形相で訊くマシューに、若い警官は面食らった顔をする。

「ミスター。この店の関係者の方ですかな?」


「知り合いが働いてるんだ! キャスリーンという女性シンガー。彼女は――」

「落ち着いて。撃たれたのはこの店のマスターです。いま救急車で……」

「ほかに人は? キャシーは……」

「開店前の準備中で、彼しかいなかったようですが? 少なくとも我々が駆けつけたときには、店内にはほかに人はいませんでした。いま確認しているところですが」


「マシュー」楠見は彼の肩を取って、警官から離す。そうして警官に向けて。


「犯人は?」

「捕まっていません。入るところを見た人によると、三、四十代くらいの男性だという話ですがね」

「それで。近くに若い女性はいませんでしたか? その、シンガー」

「確認できていませんな。いれば話が聞きたいんですが……」


 マシューは楠見に肩を支えられたまま力が抜けたように一歩さがり、呆然と楠見に目を向ける。

「キャシーは……キャシーももう来ている頃なんだ……」


「探そう」


「ああ、ちょっと――」若い警官は、去ろうとする楠見とマシューに呼びかけた。「犯人がまだ拳銃を持ってうろついているんです。ここら辺は危険なんだ」


「ありがとう、気をつけるよ!」

 叫ぶように答え、楠見はマシューの腕を取って駆け出した。

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