4.迎えにやってきて、故郷へと運んでおくれ

「キティ」のいるあの学生街のミュージックバーの低い入り口を、楠見が再びくぐることになったのは、彼女に酒を引っ掛けられてからまだ三、四日しか経っていない十二月半ば過ぎの夜だった。


 渋る楠見を執拗に誘ったマシューは、連れ立って店にやってくる途中、ダーツバーの前で出くわしたほかの研究室の学生に誘われて、「すぐに追いかけるから先に行っていてくれ」などと無責任なことを言い目の前の店に入っていってしまった。


 見放された楠見は、途方に暮れる。先日の一件の後で、どういう顔をしてキティに会えというのだ。

 どこかで時間を潰そうかとも考えるが、この界隈にはバーや居酒屋しかない。そうなると、アメリカの法律上この手の店に立ち入ることを許される最低年齢に近い上に、アメリカ人から見ると年齢よりも若く見える楠見としては、ひとりで入っては肩身が狭い。


 いや、そもそもあの店にだって、入れてもらえるのか? まあ、いい。断られたら、これ幸いと帰るまでだ。

 かすかに残るためらいを振り切って、楠見は階段を降りドアを開けた。


 先日と同じように、客席は満席に近く、大学関係者らしいいくつものグループがそれぞれに会話を交していた。その奥で、やはりピアノにもたれかかるようにして歌っているキティ。

 古いジャズのナンバーをアドリブ混じりに歌っていたキティは、ひとり入ってきた楠見に向かって視線を上げた。


 すぐに目を逸らして、楠見は入り口に近いスタンドに着く。マスターが酒を持ってきて、目も合わせずに無愛想にカウンターへと引っ込んだ。


 先日よりも彼女の歌に精彩がないように感じるのは、気のせいか。あまり気乗りのしないナンバーなのだろうか。

 一曲終えると、ステージ近くの席についていた年齢層の高いグループから拍手が上がる。二、三人の男から、やはりジャズ・スタンダードのリクエスト。


「順番にね」そう応えて、キティはピアニストと一言二言交わし、ピアニストが次の曲を弾き始めた。


Work Songワーク・ソング」――女性が歌うのは珍しい。だが、軽やかな雰囲気の見た目とは逆に、凄みのある声で低音をきれいに鳴らすキティには、この曲は合っていた。


 楠見は所在なく、彼女の歌を耳に入れながらグラスを傾ける。クラブなどと違い、純粋に酒と音楽とおしゃべりを楽しみに来た客ばかりのこの店では、ひとりで飲んでいる楠見に声を掛けてくる者もいない。

 研究者たちの語らい。雑多な学術用語。音楽。このざわめきは、心地良かった。


 終わると、また次の客からリクエストが入る。最前列にいた男の注文に、キティは満足そうに微笑む。

「Nobody Knows the Trouble I've Seen」今度は日本でも聞いたことのあるような気がする、スピリチュアルの定番だ。


 軽いスウィングでリズムを取りながらキティは、微笑みを浮かべて歌いだす。


――誰も知らない、あたしの悩み。イエス様のほかには。

――誰も知らない、あたしの悲しみ。グローリー! ハレルヤ!


 かすかににじむ悲哀を吹き飛ばそうとするかのような、ユーモラスな表現。小柄な身体に華奢な四肢、無垢で勝気な雰囲気の彼女がそういう表情をすると、どこかいじらしく、痛々しく見えて、聴く者の胸を打つ。


――時に浮かれ、時に沈み、時には立っていられないほどに

――ああ、そうなんです、神様!


 数日振りに水を与えられた花のように、生き生きと華やぎ始めた歌声に、楠見は内心で苦笑した。彼女は好き嫌いが激しいのかもしれない。スピリチュアルが得意なのだろうかと、そんなことをぼんやり考えて。それからまた、彼女が本当にテレパスだったら――そんな想像をする。

 三曲終わっても、マシューはまだ姿を現さなかった。




「クスミ!」


 スピリチュアルを歌い上げたキティはステージを降りるや、呼び止めようとした様子の数人の男に見向きもせずに、スタンドでグラスを手に所在なく立っている楠見の元へと駆け寄ってきた。


「やあ、キティ。――今夜も調子良さそうだね」


 どんな顔をして、などと考える間も、戸惑いを隠す間もなく目の前に詰め寄ってきたキティに、楠見は気圧されながら意味のない挨拶をする。が、スタンドに手を置いて楠見と向かい合うと、キティの表情がわずかに崩れた。


「クスミ。ごめんなさい、あたし」

「えっと……?」

「こないだのこと。いきなり酒を引っ掛けるなんて、あたし。どうかしてた。反省したの、あの後」

 謝罪の言葉を口にしながら、自分こそ自分に腹を立てているのだというように口を尖らせる。


「マスターにも叱られたわ、マシューからも電話をもらったの、呆れてた、ムリもないわ自分でも呆れるもの! カッとなるとつい考えなしに動いてしまって、昔っからそういうとこが大嫌いなんだけどどうしても直らないの」


 赦しの言葉も、フォローも言い訳も、相手側からの謝罪も。楠見には一切口を挟ませない勢いでキティは捲くし立てる。一種の躁状態なのだろうか、と楠見は少々心配になった。


「だけど、これでも子供のころに比べればだいぶマシになったのよ。小さいころは、そりゃもう酷かったんだから。意地悪した男の子のことね、一度、木登りしているときに木から突き落としちゃったことがあるの。しつこく言い寄ってきたヤツを川に落としたこともね。って言っても、ほんの浅瀬よ? それからアンクル・ロビンの家にあった爆竹を近所のムカつく犬の小屋に投げ込んだり、気分屋のオールドミスに腹が立って、家の中を養鶏所の鶏でいっぱいにしたり、それから……ああ、子供のころの話よ」


「と、ともかく」やっとのことで、楠見は口を挟んだ。「大人になってからきみに会えて良かったよ」

 そう言って肩を竦めると、キティは大きな瞳をさらに大きく見開いて、まじまじと楠見の顔を見つめた。なんとなく居心地が悪い気分で、当惑を誤魔化すために楠見は無理やり言を継ぐ。


「ベッドに爆竹を仕掛けられたり、狭いアパートでブロイラーの大群に押しつぶされたりするのに比べたら、酒をかぶせられるくらいどうってことない。セーターとシャツに飲ませてやったと思えばいいさ」


 キティはたっぷり十秒ほど楠見を見つめ、それから小さく吹き出すように笑い出した。

「なに言ってるの」ケタケタと笑いながら、キティはカウンターに手を置いたまま軽く腰を折り曲げる。「クスミ、あなたおかしな人ね。やっぱりマシューの友達だわ」


 こういう流れでマシューと同類に位置づけられるのは不本意ではあったが、なんとなくそれで気まずい空気はかき消され、楠見は心の中で安堵していた。


「一杯奢るわ」キティは断定的な口調で言って、断ろうと口を開きかけた楠見を両手で制した。「ううん駄目、奢らせて。セーターとシャツに飲ませちゃった分よ」


 マシューを待つていを保ちつつ、楠見はキティとともにグラスを傾ける。

 先日の話を蒸し返す隙もなく、キティは次から次へと言葉を繋ぐ。その内容は実に他愛のないもので、話題の多くはこの店に集まる人間たちの解説だった。あそこのテーブルに着いているのは生物学の研究者グループで、向こうはビジネススクールに通う社会人学生たち。カウンターの二人は、なんだかよく分からないけれど電気関係の研究をしているみたい――工事夫じゃないのよ。それからね――。


 わずかな時間に、彼女は店内にいる人物の素性をあらかた語りつくした。その様子は会話に空白が生じることを恐れて二人の間にある時間を必死に埋めているようであり、取りも直さずそれは、「先日の一件」が話の俎上にのぼるのを阻止せんがためのものなのだろうと、楠見は理解した。


 彼女が後悔しているのは、感情的になって暴挙を働いたことか。それとも、他人の前で無防備に自分の能力を晒そうとしてしまったことなのか。


 楠見は口を開き続ける彼女を冷静に観察する一方で、彼女の語っている内容のどこまでが、彼女が本人や周囲とので得た情報なのかと考えていた。


「嫌らしい男よ」ステージの上でマイクを手に、時おりキティに向かって流し目を送ってくる男性シンガーのことになると、彼女は眉を顰めてそう言った。


「どうしたら女にモテるかって、そんなことばっかり考えているの。この店の客には女はあまり多くないから、あいつの中ではこの店はハズレ。ほかの店で気張って『仕事』する合間の休憩で、だけどあたしのことどうやったら落とせるかって考えてるの。息抜きで粉かけられるんじゃ、堪んないわ」


 それでなくてもどう反応したらいいのか分からない内容だが、深読みするともっと難しい。それはごく一般的な女性が持っている本能的な直感なのか。それともキティは超自然的な能力で、あの男の意識に直接触れたのか。

 彼女はその能力のことに話題が及ぶのを避けながら、自分の語る内容が目の前の相手にそういう疑問を抱かせてしまっていることに、まったく気づいていない様子だった。


「あの女々しい歌いっぷりったら。女性客が多い店に行くと、もっとクドイ感じになるんだわ」鳥肌を立てんばかりに、両腕をかき抱くような仕草をするキティ。「悲恋モノのジャズやブルースがオハコなの」


「きみは」キティがグラスを取り上げた瞬間にどうにか割り込む隙を見つけ、楠見は声を掛ける。「スピリチュアルが好きなのかな。この間の『Amazing Graceアメージング・グレイス』も、さっきの『Nobody Knowsノーバディ・ノウズ』も、凄く良かった」


 実を言うと、彼女が『読心能力テレパシー』で得た常人が知るべくもない種類の情報をうっかり口にしてしまうのではないかと、さっきからそれが気がかりだったのだ。どうにか他人の話から話題を変えようとする。


「ほかのレパートリーもあるの?」

 そう聞くと、キティはグラスを口につけたまま、かすかに得意げに口もとを膨らませた。それから酒を一口飲んで、目を輝かせる。


「分かる? メジャーどころは一通り歌えるわ」

「ほかのも聴いてみたいな」

「本当? スピリチュアルが好きなの? クスミ、あなたクリスチャン?」


 覗き込むようにして聞いてきた彼女に、楠見は苦笑した。

仏教徒ブッディストだよ。日本人にはごく一般的な、あまり熱心じゃない、ね」


「ねえ、クスミって、名前ファーストネーム? 名字ファミリーネーム?」

「ファミリーネームだよ。なんとなく、あだ名みたいに呼ばれてるけど。きみは? キティって、本名?」


 聞き返すと、キティは声を立てて笑い出した。

「キャスリーンよ。みんなはだいたい、キャシーって呼んでる。キティなんて言うの、マシューだけだわ。あの男は、たまにジョークのつもりでそう呼ぶの。子猫キティってガラじゃないもの」


「へえ」楠見は眉を上げた。うっかり真面目な顔で「キティ」なんて呼びかけたら、笑われていたかもしれない。後でマシューには、一言抗議をしておこう。


「キャスリーン・バトルと同じかな。彼女もスピリチュアルを歌うね。だけどきみの声は、どっちかっていうとバーバラ・ヘンドリックスとか、いや、それともマへリア・ジャクソンとか――とにかく迫力があって、重厚で、なんていうか……物凄く説得力がある」


 そう言うと、キティ改めキャシーは驚いたように目を見張り、それから嬉しそうな笑顔を作った。


「よく知ってるのね。マヘリア・ジャクソンは尊敬してるの。なんだか嬉しい」言いながら、しかしほんの少しだけ諦めの色を浮かべて。「だけど、駄目。ここじゃあんまり歌わせてもらえないの。客からリクエストでも入らないと。マスターがね、スピリチュアルなんか辛気臭いって言って、嫌ってて」


 キャシーは、カウンターのほうへとわずかに顔を向けて、不平いっぱいの顔をして口を尖らせた。

「失礼よね。ジャズだってロックだって、みんなスピリチュアルが始まりなのに。ねえ、あいつのあの歌のほうが、よっぽど辛気臭いって思わない? 未練がましくって。鬱陶しいわ」


 また睨むような目を向ける先で、男性歌手が哀愁を込めて歌っているのは、「Angel Eyesエンジェル・アイズ」。――戻ってこない恋人を待って自嘲気味に歌うこのジャズの定番を、「鬱陶しい」と切って捨てたキャシーのドライさを、楠見は好ましく思った。


「ここにはいろんな客が出入りするから、あんまり表には出さないけどね。マスター、本当は白人至上主義者なんだわ」

 黒人の血の混じったキャシーは、面白くなさそうに、それでも軽い口調で言って肩を竦める。


 そうなんだろうな、と楠見も思う。ほかの客に対するのと極端に違うというほどではないが、日本人である楠見への態度もどこか冷淡だ。


「ね、クスミ。リクエストしてくれない?」

「いいね。何がいい?」

「それをあたしが聞いているんじゃない」


 キャシーはまた笑う。そうだな、と楠見は少し考えて。

「『Swing Lowスウィング・ロウ, Sweet Chariotスウィート・チャリオット』なんてどう?」


「オーケー」キャシーは微笑んで、ステージに向かった。

 まだちらちらとウィンク混じりの視線を送ってくる男性歌手の横で、マスターに何か交渉している。


 楠見は、ぼんやりとキャシーの後姿に目をやりながら、彼女の能力のことを考えていた。テレパスとしての能力。先日の一連の出来事。彼女の能力を楠見に見せた、マシューの思惑――。


 マスターが頷いたとき、ちょうど男性歌手の「Angel Eyes」がしんみりとしたエンディングを迎える。野次の混ざったような歓声とまばらな拍手に送られて彼がステージを降りると、代わりにキャシーがそこに立ち楠見に向かって片目をつぶった。




「Swing Low――」


 静かな深い呼吸。空気を優しく揺らし聴く者の肌を揺さぶる、ビブラート。日常から心を引き剥がそうとするかのような心地良いシンコペーションから、その曲は始まった。


――優しく揺れよ、愛しのチャリオット


 キャシーの瞳は、遠くから空を駆けてやってくる、預言者エリヤの乗った戦闘馬車チャリオットを追っていた。


――私を迎えにやってきて、

――故郷へと運んでおくれ


 ふいに背後にかすかな冷たい風を感じて、振り返ると。入り口のドアが開き、わずかに身を屈めてくぐるようにして長身の男が姿を現す。

 彼はステージの上のキャシーを一瞥し、入り口にほど近いスタンドに寄りかかっている楠見と目を合わせた。

「クスミ。待たせたな」軽く手を上げて、やってくる。


――ヨルダン河の向こうで、何を見たと思う?

――天使の群れがついてきて、私を送り届けてくれるんだ


「遅いよ」キャシーの声を耳に入れながら、楠見は友人に非難の視線を送った。マシューは軽くいなすように両手を広げて、スタンドに着く。

「悪いな、相手の話が長くってさ」それより、とマシューは視線だけステージに向けて。「スピリチュアルか」


「リクエストしたんだよ」

「ほう。仲直りしたってことかい?」

 直前までのやりとりを察したのか、面白い、というようにマシューは片眉を上げて小さく笑う。


――私を迎えにやってきて、

――故郷へと運んでおくれ


「お前さんの選曲?」

「そうだよ」

「ふん。クスミ、ホームシックにでもなったのかい?」


「まさか」楠見は苦笑した。「もう八年も住んでるんだ。むしろ帰ってから、こっちが恋しくならないか心配だよ。日本にはほとんど友達がいないんだ」


 マスターの持ってきたグラスを軽く上げて、マシューも笑う。

「来年には、帰国か」それから、酒を一口飲んでグラスを置くと。わずかに身を乗り出して声を潜める。「帰国の前に、面白いものを見せてやるよ」

 いつもの不遜な微笑み。

「超心理学研究室でな」


――もしも私より先に着いたら、友人たちに伝えておくれ

――私もすぐに、そこへ行くよって


「なんだ、それは?」

「学会中が――いや、もしかしたらアメリカ中、世界中が、ひっくり返る」


 言わんとすることを上手く掴めずに、楠見は曖昧に首を傾げた。そんな楠見に、マシューはまさにそういう表情をさせたかったのだとでも言いたげな、満足そうな顔で、ひとつ頷く。

 嫌な予感に、胸の辺りが重くなるのを楠見は感じた。


「キャシーさ。彼女を超心理学研究室に連れていって、実験を行うんだ」

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