3.カッコいいなんて思われなくたって、俺は構わないね
――優しく揺れよ、愛しのチャリオット
――私を迎えにやってきて、
――故郷へと運んでおくれ
急行電車を停める私鉄ターミナル駅と、周囲のビルを繋ぐ橋上デッキ。電車から吐き出された帰宅客が作る雑踏で。
行き交う人々の中に楠見の姿を見つけると、ちょうど一曲歌い終えた杉本美和は、手に持っていたギターを置き、アカペラの張りのある声を、冷たく暗い空へと響かせだした。
先日の、楠見のリクエストだ。
深く、豊かな声。訴えかけるような、シンプルでいて切実な表現。緩やかな旋律に乗って繰り返される言葉は、祈りにも似ていて、真摯に聴く者の胸を打つ。
この能力を、どうにか良い方向に導いてやれないものか。
歌の才能も。アポーツの能力も。
彼女がその能力を犯罪行為に使っていることは、もはや疑いはない。行為だけを見て糾弾し、能力を行使できないようにして警察に突き出すことも、楠見にはできる。だが――。
『きみは、『サイ』に近すぎる』
ふいに、過去に聞いた言葉が、脳裏に浮かぶ。
『サイの近くに心を置く姿勢は、それはそれで良いものだと思うよ。だがね。彼らときみとは、同じではない。きみは将来、その抱えるサイたちを使役する立場の人間だ。彼らと同じ位置に視線を置いてはいけない。彼ら個人に思い入れすぎてはいけない。組織の長ならば――』
ああ、マクレーンの説教だ。彼の、朗々とよく通る低い声で、その言葉は楠見の心によみがえった。そう言われてから三年が経とうとしている。彼の言わんとすることは、たびたび身に染みて分かったが、彼の言うように改善されたかと言えば否と答えざるを得ない。
そう、たとえばこの子供たちと会ったせいだ――。
美和の声を耳に入れながら、ぼんやりとそんなことを考えて、横に立っている少年に視線をやり――。
楠見はハッと異変に気づいた。
「おい! 大丈夫か?」
肩を叩かれた少年は、昼間のふくろうみたいに目をしばしばさせる。
「……だからついてこなくていいって言ったのに。車に戻って寝てたらどうだ?」
腰を屈めてそう言うと、彼は瞬間ぱちりと目を開き、首を横に振った。
「けど。サイと会うから」
「サイって言ったって。彼女の能力は危険じゃないって、お前がこの間、言ったじゃないか」
「だけど、サイだ」
この子供は、いっちょ前に楠見のボディガードであるらしい。だがこの調子だと、ボディガードとして役に立つかどうか以前に、楠見がガードしてやらないと道端で寝かねない。昨今の小学生は夜更かしだと聞いているのだが、この子はどうだ。
また瞼が半分閉じかかっている少年。楠見は嘆息し、彼の肩に手を置いたまま、足早に行き交う人の流れの向こう側で歌声をとどろかせている美和に視線を戻した。
――もしも私より先に着いたら、友人たちに伝えておくれ
――私もすぐに、そこへ行くよって
ともかく。と、楠見は美和へと目をやりながら考える。どうにかして今日こそは、彼女と話をしなければならない。彼女は応じるだろうか。また逃げようとするだろうか。
曲の終わりが近づき、楠見はキョウの肩に置いた手に軽く力を込めた。
「キョウ。この曲が終わったら――」言いながら隣に立つ少年に目を向けると。「……どうした?」
先ほどまで眠そうにしていた少年は、はっきりと覚醒した様子で駅のほうへと視線を向けている。
「くすみ」
「なんだ?」
キョウが楠見のコートを掴んだ。腰を屈めて覗き込むと、キョウは楠見へと瞳を動かし、すぐにまた戻しながら、
「もうひとり。サイがいる」
「……なんだって?」
「見てる」
「なに?」
「アポーツ」
言葉足らずの少年の、ともかく視線を追って、腰を屈めたまま人混みへと目を転じる。そして、改札口の手前に建てられた周辺地図の看板の脇に。その男を見つけた。
かなりの大男だ。ダークブラウンのトレンチコート。手をポケットに入れ、何をしている様子でもなくただ立っている。夜だというのにサングラスを装着し、その下の顔はうかがえないが、視線ははっきりと杉本美和に向けられているように感じられた。
「彼が杉本さんを見ているのか? ずっとああして?」
「そうだ」
「彼の能力は?」
「知らないヤツだ。けど、なんか硬い……」
「硬い?」
なんだそれは。思わずキョウの顔を見ると、彼も困ったように眉根を寄せた。
仕方ない。この少年の能力は確かだが、なにぶん足りないのは経験だ。
そうしている間に美和の歌は、最後のフレーズにかかろうとしている。
「キョウ。俺は彼女に声を掛ける。お前はここで、あの男の動きを見張ってくれ」
「分かった」
「あの男が動いても、追わなくていいからな。一緒に彼女の話を聞きに行こう」
大男の正体も能力も、その目的も分からないが、全身からにじみ出すなんとなく
「分かった」
こくりと頷くキョウの頭に一度手を載せて、楠見は人の流れを横断し杉本美和へと歩み寄る。
美和はつぶやきにも似た最後のワンフレーズを、震えるような余韻を持たせて歌い上げた。遠巻きに足を止めて眺めていた何人かから、ぽつりぽつりと拍手が起こる。
楠見も手を叩きながら近寄ると、美和はふっと我に返ったようにそれまでとは表情を一変させ、苦い顔を作った。構わずに、楠見は笑う。
「良かったよ。ありがとう」
「これで約束は果たしたからね。もういいでしょ。付きまとわないで」
ギターを手に取りそっぽを向いて、すげない口調で言う美和。そのままギターをケースにしまいだした彼女に、楠見は苦笑した。
「ずいぶんな言い様だな。仕事の予定をすっぽかして、はるばる駆けつけたってのに」
「そっちが勝手にリクエスト料を押し付けたんじゃない」
「ああ。そうだった。それじゃ次のリクエストも聞いてくれるかな」
「調子に乗らないでよ!」
きつく睨みつけてギターケースを持ち上げようとした美和から、楠見は素早くケースを奪い取った。そして、軽く肩を押して、駅とは反対側へと体を向けさせる。
「ちょっ……」
美和は抵抗の気配を見せたが、口を開かせる前に楠見はわずかに長身を屈めて顔を寄せ、視線だけで背後を示した。
「ダークブラウンのロングコートを着た、物凄く大柄な男。サングラスを掛けた。心当たりあるかな」
「……え」
かすかにではあるが、美和が顔色を変えたのが分かった。何かあると、楠見は踏む。
「さっきからずっと、きみのほうを見ている。知り合い?」
「……し、知らない。なに……」
「振り返るな」
首を回しかけた美和を低く制して、楠見はその背中に手を置いた。
「無害な知り合いならいいんだけどね。違うなら――どうも嫌な感じがするんだ。ともかく一緒にここから動こう。家まで送るよ」
促すと、美和は硬い表情で大人しく足を踏み出した。
(あの男だ――)
口の中にじわりと冷たい感触が広がり、息苦しさを美和は感じていた。
何日か前に、やはり駅前で歌っていたあの時、目の合った男。子供の落としたマフラーを取ってやったとき。美和の能力を見破った。
知り合いなどではない。心当たりなどない。まったく。
それでも、自分の身に何か良くないことをもたらそうとしている人物なのだと。それはなんの根拠もないが、くっきりとした手ごたえと重みを持った、不吉な予感。
背中に添えられた手に抗う余裕もなく、気力も湧かず、そっと押されるように雑踏を掻き分けて歩く。
「くすみ」どこからか、子供が駆け寄ってきた。
「ああ。あの男はどうした?」
背中を押す男が、足取りを緩めぬまま子供に視線を向ける。
「駅ん中に入ってった」
「そうか。ありがとう」
「ん」
「こちらに話しかけたそうにしていたかな」
「んー。そんなでもなかったな。すぐ行った」
二人の会話が耳を掠めて流れていくのを認識しながら、やはり美和は、背中の手を振り払うことができなかった。この男を信用していいのかどうか、分からない。それでも、ただ、ひとりにされることが怖かった。
だから――。
アパートに向かう途中の大通りにあるファミリーレストランに、誘われるままに入ってしまったのは、このまま不安を抱えて家に帰るのが心細かったからでもあり。
そして自分に正直になるならば、誰かに自分の置かれた状況を打ち明けたい気持ちもあったのだと思う。そう、たとえば、力になってくれると言っていたこの男に。
だけど、と美和は内心で首を横に振る。言えない。美和たちのやっていることは、雅史や悟がどんなに言い繕おうとしたところで、犯罪なのだ。誰にも言うわけにはいかない――。
心の中のもやもやを消し去ることができずに、ぼんやりと、テーブルの向こう側に目をやっていた。
メニューを広げている子供。隣からそれに、なんやかやと口出ししている男。そのうち二人は何事かを決めて、メニューをテーブルに置いて美和へと視線を向けた。
「よし。チョコパフェとドリンクバーだ。きみは? 何にする?」
「ビール」少し考えて、ボソッとつぶやいた。
「ビールな」男は店員を呼ぼうとし、それからふいに何かに気づいたように手を引っ込めた。「ちょっと待て。きみは未成年じゃないのか?」
「十九だけど?」
「だけど? じゃないっ」厳しい口調で言う。「駄目だ。アルコールはなしだ。ドリンクバーだ」
「いいじゃん。あと半年で二十歳だよ」
「だったらあと半年、我慢するんだな」
「はあ? 今どきそんな我慢してるヤツなんかいないよ。みんな飲んでるじゃん」
「あのな」男は呆れたようにため息をついた。「世の中を、そんなに自分の都合のいいように考えるな」
冷たく言って、店員を呼ぶ。その言い方に、自分に非があることは分かっていても無性に腹が立った。そんな真っ正面から、正論で叩き潰しにこなくたっていいじゃないか。
『正義ぶって『こんなことすんな』とか言ったんだろ、どうせ』
雅史の言葉がよみがえる。
そんな美和の心中には構わず注文を終えてメニューを置いた男を、上目遣いに睨みつけながら、言っていた。
「カッコわる」
「……なにが?」
「ホーリツ守っていい子にしましょう。ってか」
言い終えた瞬間に、猛烈な後悔に襲われていたが、遅かった。目の前の男は、無表情にわずかに目を細めて美和の顔を見つめていたが、やがてやはり呆れ果てたように鼻を鳴らした。
「悪ぶってルールを無視することをカッコいいと思っているような子供に、カッコいいなんて思われなくたって、俺は構わないね」
軽蔑された。言い返そうとして、しかし言葉が出てこずに、美和は唇を噛む。腹立ち紛れに睨みつけた男の瞳は、冷たい刃物のように見えて、何を考えているのか分からない。
そのままわずかな間、テーブルの上に気まずい沈黙が落ちる。空気を変えたのは、斜め向かいに座ってそれまで黙っていた少年だった。
「くすみ」
「ん?」
「コーヒー。取ってくる」
「ああ。頼むよ。――きみは? コーヒーでいいかい」
答えずにいると、男はコーヒー二つと少年に告げ、ドリンクコーナーに去っていく少年を見送りながら小さく息をついた。そして、そちらを顎でしゃくりながら美和に目を戻す。
「ドリンクバーの操作が気に入ってるらしいんだ」
そう言った男の表情にはかすかに微笑みが混じっていて、美和は心の中のもやもやが少しだけ晴れていくのを感じた。
「……あの子って、あんたのなんなの?」
「なんなのって?」
「いや……だって。親子って歳に見えないし、兄弟にしても離れてるし。なんでいつも子供連れてんの?」
「ああ。そういえば、自己紹介もまだだったな」
そう言って男は、胸のポケットから名刺を取り出した。
「俺は楠見。あの子はキョウって言って――」言いながら、テーブルに置き美和のほうへと差し出す。
「学校法人
声に出して読み上げて、それから目を上げ、美和は思わず目の前の男をまじまじと見つめていた。
「緑楠って、あの? 緑楠大学?」
「知ってるかい?」
「知ってるもなにも。馬鹿にしないでよ」
柔らかく微笑みを浮かべる男に、美和は眉を寄せる。
緑楠大学を知らないほど低く見られているのだとしたら、抗議しなければならない。最難関と言われるランクではないが、日本では――少なくとも東京では、その名を知らない者を探すほうが難しいくらいの有名大学ではあるだろう。
小学校からの一貫校で、高校あたりはかなりレベルが高かったはずだ。私立高校に行くなど美和は考えたこともなかったが、中学校では緑楠高校を受けた同級生がいた。たしか落ちて、美和よりは数ランク上の公立高校に進学した。
「で……理事って何する人?」
「学校経営かな」
「エライんだよね」
「そうでもない。同じ肩書きの人間が、ほかに何人もいる。ほかはみんな五、六十代だから、俺なんか一番の下っ端でこき使われる立場だな。一般教職員よりも地位が低い」
「なにそれ。ケンソン?」
「まあね」
腕を組んで笑う楠見を、美和は思い切りイヤな顔で睨みつけた。だが、楠見はまったくこたえていない様子で、笑いを引っ込め軽く肩を竦める。
「そういうわけだから、俺の目の前で酒は飲むな。一緒にいた未成年に飲ませたと知れたら、俺は職を失う。悪くしたらニュースになる」
「……飲んでやる!」
店員に手を上げかけた美和を、楠見は慌てて身を乗り出し「やめろ!」と言って止める。その反応に美和は少々胸がすき、ちょうどそこへキョウが持ってきたコーヒーを素直に飲めるような気分になれたことに、心のどこかで安堵していた。
「で。そのエライ理事様が、あたしになんの用事があってここに連れてきたわけ?」
「ああ」楠見はコーヒーを一口飲んで、カップを置くと、わずかに姿勢を正してテーブルに身を乗り出した。「学園理事っていうのは、『表の仕事』でね。『裏の仕事』っていうのがあってね。家業なんだが」
「……はあ?」大真面目に言う楠見に、美和はコーヒーを飲み違えそうになった。「……なにそれ。『必殺仕事人』みたいなヤツ?」
「信じなきゃ信じないでもいいよ。ここから先は、信じてもらってるものとして話すから、信じられなきゃ適当に聞き流してくれ」
「……」
「俺の生まれた家は、『サイ』の組織を持っていてね。サイ関連のトラブルや犯罪を解決することが仕事なんだ。関西に拠点のある組織で、俺は今は、組織は離れてこっちで個人的にやってるだけなんだけど」
「ちょ、ちょっと待って。……サイって?」
楠見は数秒ほど真面目な顔で美和の目を見つめた後で。
「きみみたいな、特殊能力を持っている人間だ。
今度こそ、美和は
「あ、アポーツ?」
「初めて聞く言葉かな? ものを自分の元へと引き寄せる能力。厳密に言うと、きみは自分へ引き寄せるだけでなく、別の場所に移動させることができるようだけど」
そうだ。この男には、知られている。だけど――。背筋が冷たくなる。能力が、バレる。犯罪も。
「そんなの、知らない。あたしは」認めなければ、いいような気がした。けれど誤魔化そうと思っているのに、口調が上ずった。
「俺たちに隠さなくていいよ」
楠見は軽くため息をつき、チョコレートパフェに夢中になっているキョウに目をやって、それからまた美和に瞳を向けた。
「きみの能力は分かった。きみがたぶん、そういう他人と違う能力を持って、これまでに苦労してきたことも想像できる。こないだ会ったときも言ったが、きみが駅前でやっていたことも――」
「あれは!」思わず大声を上げて、それから周囲の視線を気にして、美和は声を落とした。「もうやってないよ」
「そう――」
「本当だよ。あれ以来、やってない。信じないかもしれないけど――」
「いや。信じるよ」
真剣な瞳でそう言って、楠見は「だけど」と少し声を険しくした。
「きみが、別の問題に巻き込まれているんじゃないかって、俺たちは心配しているんだ」
「別の……問題って?」
「さっきの男。駅前にいた。本当に心当たりはないか?」
「……だって。見てないもの。どういう男だか。たぶん知らないヤツだと思うけど」
苦しく言葉を継ぎながら、しかし、美和は心に
初めて駅前であの男を見た日。美和の能力を見られた日。雅史から今の「仕事」のことを聞いたのは、たしかあの日だった。それは、なんの脈絡もない、単なる偶然かもしれないけれど。
言ってみようか。ふと心に浮かんだ思いつきに、おずおずと視線を上げる。やはり真摯な瞳で美和を見つめている楠見と目が合った。
話そうか。今やっていることを、すべて。もしかしたら。やめさせてくれるかもしれない、この男は。そうだ、こんなことをずっと続けていていいはずがない。やめるきっかけ。雅史にはまた嫌味を言われるかもしれない。嫌われるかもしれないけれど。でも、上手くやめる方法を、この男は教えてくれるのではないだろうか。
「あのさ」言いかけて、口をつぐむ。まとまらない思考が、頭の中で渦を巻く。美和が話し出すのを黙って見守っている楠見。その正しい眼差しから、美和は堪らずに目を逸らした。
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