第20話 アンディの怒号
一週間後。
真新しい帽子を被り、馬車に乗って、シルヴィアはアンディのいるギルバートの屋敷に向かっていた。
今日は隣にパウルも乗り合わせている。
競馬場へアンディとのデートの予定があるはずだったのだが、なぜか兄が一緒に行くと言って聞かなかったのだ。
(お兄様……最近馬を買ってから、どこか様子がおかしいわね)
ギルバート家に着くと、パウルが先頭に立って使用人と挨拶を交わす。
今日は風が強く、シルヴィアは帽子を押さえた。
が、いきなりの突風に耐え兼ね、帽子は宙を舞った。
そのまま帽子は生け垣を飛び越え、裏庭の方へくるくると落ちる。
シルヴィアが呆然としていると、背後からパウルが声をかけた。
「おい、どうした?」
「帽子が庭に入ってしまったの」
「待ってろ。ちょっと取って来るから」
パウルが生け垣を跨ぎ裏庭へ入ると、妹の帽子が落ちていた。
歩いて行ってそれを拾い上げた、その時だった。
「だから先に陛下に伝えろと言ったんだ!」
近くの閉ざされた窓から飛んで来た聞き覚えのある声に、パウルは耳を疑った。
アンディの怒号だ。あの温厚なアンディが、声を荒げている。
パウルは帽子を胸に抱えたまま壁を背にしゃがみ込み、耳をそばだてた。
「協会に先に言ったのであれば、話が通らなくなる!テオはマクレナン王国軍の元帥だったんだぞ?競馬協会の面々はほとんどが騎士経験者だ。このままでは忖度でマリアが騎手試験に通ってしまう。それだけは絶対に阻止しなければならない!」
パウルは緊張に身を縮め、音を立てないように注意する。
(マリアさんが、騎手試験を受けるだと……?初めて聞いたが……それにしても、アンディは何でそんなことであんなに怒っているのだろう)
彼の怒号を受け、執事が冷ややかに言った。
「お言葉ですがアンディ様。物事には順序がございます」
「何を言っている?順序を飛ばすために〝寝室係〟になったんじゃないか!」
「……」
「くそっ、あの女……先のないじじいと再婚させられてざまぁないと思っていたら、随分生意気になりやがって。挙句、今度は騎手になる準備をしているだと……?正気か!?」
「……ご冷静に。あの方とはもう、関係がないではありませんか。元はと言えばアンディ様から切り離したのです。他家の方針に介入するのは無粋でございます」
「お前も思い上がっているのか?いつクビにしてもいいんだぞ」
「……何を恐れておいでです?」
「は?」
「マリア様が騎手になることが、なぜ自身の身を脅かすと?」
「あの女が目立つのは、見ていて気分が悪い。きっと目立つ存在になったら、裏で俺のことを悪し様に言うだろう。分かり切っていることだ」
「……そんな個人の感情のために陛下に話を押し通そうとするのは、陛下からの心象を悪くするという考えには思い至らないのですね?」
「……!」
「競馬協会も、陛下から急に試験について命令されては何か王宮でよからぬ動きがあると考えるでしょう。その時アンディ様が陛下を動かしたと噂されれば、その時こそあなた様の信用は地に落ちますが」
「……ふむ」
少しの間、沈黙が支配した。
「……やり方を変えるか」
「どのように、ですか?」
「シルヴィアがいるだろう。私ではなく、彼女から寝室係のラインマイヤー伯爵に伝えてもらい、陛下の耳に入れることにしよう。〝女の騎手などを入れると、競馬場の風紀が乱れる〟と」
「……はあ」
「女性の諫言は男の文句より重く耳に響く。そうだろう?」
窓の下で聞いていたパウルは、はらわたが煮えくり返る。
(なんだよこいつ。そんなしょうもない感情のためにシルヴィアを利用するつもりか……!?)
女は弱い。社会的地位が低い。婚家に入れば、家長には逆らえなくなる。
それを知っていて、婚約者の内からこのように利用するとは。
(アンディの野郎。男の風上にも置けん……)
マリアと会食してアンディに持った疑念の点が、インクを溶かすようにぶわぶわとパウルの心の水面に広がって行く。
アンディのことを温和で信用のおける男だと一時期思っていた自分にも、彼は腹を立てていた。
(あいつがマリアさんを離縁した経緯が分かって来たぞ。マリアさんはアンディですらどうにもならない一本気があったから、離縁されたんだ。子を成さないなんていうのは詭弁で、彼は妻であろうが気に入らなければどんな手を使ってでも追い落とす。そのためなら、国王すら使おうとするんだ)
我儘も、ここまで行くと狂気だ。
パウルは妹の身を案じた。
(きっとアンディは、さっきのような怒号で妹の尊厳を奪おうとするに違いない)
きっと自分の思い通りにならない女だったから、不妊というどうにもならない体の特性を持ち出し、彼女を切り離したのだ。
(そうだ。もしマリアさんとの間に子があったとしても、あいつはそれを取り上げてでも彼女を追い出したに違いない)
アンディに抱いていた疑念がある意味で腑に落ち、パウルは吹っ切れたように立ち上がった。
屋敷のエントランスで待っていたシルヴィアの元へ急ぐ。
「あらお兄様、遅かったのね?」
パウルは帽子を渡しながら彼女に言った。
「シルヴィア、もしアンディに何か頼まれたら、先に私に言え」
シルヴィアはきょとんと兄を見つめる。
「え……何で?」
「何でもだ」
「ふーん……変なの」
足音が聞こえて来る。
パウルは振り返った。
視線の先には、温和な笑みを浮かべたアンディがいる。
「こんにちは。おや、今日はお兄様もご一緒ですか?」
パウルはアンディと対峙した。
「ああ、たまにはいいだろう?」
「そうですね。これから長いお付き合いになるのですから……」
パウルは心の中で、彼の二面性に慄く。
この男は笑顔の裏に、悪魔を飼っているのだ。
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