第2話 微笑みの老騎士

 マリアはテオに笑いかけられ、一瞬びくりとした。


(……笑った)


 その険しい人相とは対照的に、彼は初対面で妻に笑いかけたのだ。


 前の夫がほとんど笑わなかった男だけに、マリアはただただ驚いていた。


 それからは儀式の流れに逆らわず、彼女は新たな指輪が自身の指にはめられるのを眺めた。


 金色の指輪。


(これで私達……夫婦になったのね)


 マリアは再び、恐る恐る視線を上げる。


 テオは何か言いたげに、うんうんと頷いていた。


 マリアはその視線に当てられ、冷や汗をかく。


(あれ?どうして……?)


 父がそばを離れ、教会を去って行く。


 その代わりに彼女の横に立ったのは、もっと年老いた夫。


(私の心、彼に読まれてる……?)


 テオは遠慮気味に、新妻と歩調を合わせてカーペットを進み行く。




 それからは、親族だけの小宴が行われた。


 その規模は大層小さく、もはやただの晩餐会である。


 マリアは本当に式用の赤いドレスだけを嫁入り道具にして、ほいっとローヴァイン家に投げ入れられた形となった。


(まあ、あの家にずっといるよりは、いいか)


 マリアはベッドに寝転び、教会での出来事を反芻する。


 彼は始終マリアを見ては微笑んでいた。


 そう、まるで女というよりは、娘か孫でも見るように──


(不思議な男の人)


 前夫は、何か彼女に弱みを握られやしないかと慎重に慎重を重ねて生活しているとしか思えないほど、神経質な男だった。対してテオはそういった神経質さを老いゆえか全てかなぐり捨てており、まるで丸裸の子どものような目をした男だった。


 マリアは式後の疲労に任せ、うとうとと船を漕ぐ。


 ──と。


 コンコン。


 ノックの音がして、マリアは再び起き上がった。


「……?どうぞ」


 声をかけると、その扉を開けて現れたのは、テオだった。


「!……何か御用ですか?」


 マリアが問うと、テオは扉から半分だけ身をねじ込んでじっくりと彼女の顔を眺め、こう告げた。


「いや、いいんだ」

「?」

「疲れただろう……ゆっくり休むがいい!」

「え、えーっと……」


 それきり扉は閉められた。


 マリアはぽかんとするが、同時にほっとする。


(私の顔、疲れてそうに見えたのね)


 事実疲れているのだから、彼の読みは当たっている。


 初夜であるから、無理にでもそういう流れになるのかと警戒していたが。


(そうね。疲れているもの。今日はお言葉に甘えて、ゆっくり休もう)


 マリアはそのまま自室で眠りに落ちる。


 その三時間後、眠りこけた妻の顔をそうっとテオが覗きに来たとはつゆ知らず──




 次の日の朝。


 マリアは初めての朝食に向かっていた。


 緊張しながら食堂にやって来ると、既に向かい側の席にはテオが座っていた。


 椅子を引かれて座ると、マリアはどきどきと新しい夫に視線を送る。


 テオは教会の時と同じように、にこりと笑ってうんうんと頷いて見せた。


 マリアはほっとする。


(何だろう。とても温かい人)


 感触は、悪くない。気を張っていなくても、彼は前の夫のように、咎めるような視線で刺してこない。


 食事が始まると、テオは早速話を投げて来た。


「マリアの好きなものは、何だ?」


 突如降って湧いた話に、マリアはどきりとする。


 貴族ならば、話し方に段階があるはずだ。探るように、段階を経て本題に入るという話し方だ。それが貴族のエレガンスさ、高潔さを表しているからだ。


 しかし、彼は何でもおおざっぱで直球なのである。


 マリアはそれに驚きはしたが、彼の作り出す自由な文脈に心がほぐれて行く。


「そうですね。私は……レースが好きです」


 本当に、自由に回答してみた。するとテオは否定せずに頷く。


「おっ、競馬が好きか?」

「ち、違います。レース編みです……」

「ああ、そっち……そのレース編みとやらで、何を作る?」

「最近はショールを作りました。あとは、飾り襟などを」


 言いながら、マリアはふと、前回の結婚のことを思い出していた。


 正直に言うと、レース編みは何もすることがないから、やっていただけだったのかもしれない。


 急に心の中に闇の部分が這い出して来て、マリアは顔が白くなる。


「……マリア?」


 呼びかけられ、ようやく彼女は我に返った。


「好きなことを話している顔ではないな」


 マリアは困ったように微笑む。


 なぜこの人は、そんなことまで見抜いて来るのだろうか。


「あと……無理に笑わなくてもいいぞ」


 マリアは恐縮して赤くなった。


「自然でいい。その方が、君はずっといい顔をしているはずだから」


 マリアは頬を染めたまま、向かい側の老騎士を眺める。


 前夫はマリアが黙って下を向いていると〝女のする顔ではないぞ〟と指摘して来たものだったが……


「……はい」

「まあ、何かにつけそう教育されたのだろう。うちではのんびりしろ。私は君を恐縮させるために娶ったのではない」

「……」

「もう私は、地位や名誉や世継などというものには、興味がない。先に言っておこう。私が君を妻に迎えようと思ったのは──話し相手が欲しい。それだけだ」


 マリアはきょとんと目を見開く。


「話し相手……」

「勿論、あわよくば愛されたい」

「!」

「下心丸出しですまない。私みたいなじじいが何を言っているのだろうとお思いだろうね」

「いえ……」

「まあ、あれだ。私が死ぬ時に、覗き込んでくれさえすれば良い。そうなれば、なかなかいい人生だったのではないかと思える……そんな気がするんだ」


 死ぬ時。


 マリアは齢三十とはいえ、まだ若かった。死のことなど、まるで遠いような気がする。対してテオは、もう死を意識する歳のようだ。


(彼が死ぬ時に、私はどんな顔をしているのかしら)


 それは今のところ、予想がつかなかった。


 ただ。


(案外、悪い顔はしてないんじゃないかしら……)


 マリアは初めて男性に対して湧き上がって来る感情を、しばし受け入れられずにいた。


(私、きっとこの人を嫌いにはなれない気がする)


「君は黙ってばかりいるな。今いい顔をしていたが、何を思ったのか口に出して言ってみろ」


 マリアは真っ赤になった顔を上げた。


 テオは促すように、にこりと笑う。


「あ、あの……」

「うむ」

「私、その……」

「何だ」

「こ、ここでは恥ずかしいから、あとで言いますっ」


 テオは口を尖らせた。


「焦らしているのか?なかなかやりおるな」


 マリアは首と耳まで真っ赤になった。

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