私あの時、不幸でよかったです。
殿水結子@書籍化「娼館の乙女」
第一章.二度目の結婚
第1話 二度目の結婚
小さな窓から外を眺め、マリアは世界の狭さを思う。
彼女は馬車に揺られていた。行き先は実家のアルブール家だ。
マリアは本日をもって、嫁ぎ先のギルバート家から離縁された。
夫アンディとの間に、10年も子どもが出来なかったからだ。
家と家との契約であったとはいえ、マリアは離縁されたことに深く傷ついていた。アンディは神経質で厳格という典型的な貴族男性で、甘い会話も交わさないような毎日を共に送ったが、彼女は〝結婚とはこういうものなのだ〟と、特に現状に疑問を持つことなく生活していた。
その生活は、唐突にアンディの一言で終わりを告げた。
「君との間に、世継ぎは望めない。もう離縁してくれ」
あちらからすれば、世継ぎのための嫁だったのだ。それが出来なければ用無しとされても無理はない。
いつものような命令ではなく依頼めいた言い方で、彼なりに真剣さを演出したと見える。その必死さが、マリアを頷かせた形となった。
ここで粘っても、またいつか同じことを言われるだけなのだから。
けれど一方で、度重なる世継ぎのプレッシャーにさいなまれていたマリアには、決して口には出せないけれど、肩の荷が降りたとも感じていた。
かつて暮らした、アルブール家が見えて来る。
久方ぶりの実家に帰って来ると、両親の何とも言えない苦々しい顔がマリアを出迎えた。
「お帰りなさいませ、マリア様」
執事だけがそう帰りを祝福した。父親はそれもせずつかつかとマリアに迫ると、真っ先に彼女に告げる。
「安心しろ。次の嫁ぎ先は既に用意してある」
マリアは耳を疑った。
事前に手紙で離縁のことを伝え、両親もしょうがなくそれを承諾したのは先週のことだ。
もう見つけて来たということは、あの手紙を受け取ってから彼らは即、次の嫁ぎ先確保に動いたと見える。
「……もう?」
「何を言うマリア。女がひとりで生きて行けるわけがないだろう」
両親とて、必死なのだ。
マリアは肩を落とした。また、子を産めずに離縁されることは目に見えている。
しかし、父親が次に発した言葉は、思いがけないものだった。
「マリアよ。ローヴァイン公爵当主、テオの元に嫁げ」
「!」
マリアが驚いたのも無理はない。
ローヴァイン公爵テオは、少し前にマクレナン王国軍を定年退役した軍人公爵。マリアより三十ほども年上の老騎士だったからだ。
数日後。
再びマリアは馬車に乗せられ、まだ日も出ない内からマクレナン王国郊外の険しい道を両親と共に進んでいた。
ローヴァイン領は牧草地帯だ。都会の中に邸宅のあった先の婚姻先のギルバート家とは違い、どこか気の抜けたのんびりとした空気が流れている。
マリアは意気消沈していた。
目の前にいる父より年上の男と結婚させられるとは、思いもしなかったのだ。
父が言う。
「ローヴァイン公爵は、お前と同じ二度目の結婚だ。若い時に奥方を亡くし、それからはずっと独り身だったということだ」
テオのことは、マリアも何度かマクレナン王宮で見かけたことがある。顔はよく思い出せないが、軍を定年まで勤め上げた軍人公爵。てっきり妻がいるのかと思っていたが、長らくいなかったというから驚きだ。
(相手は六十歳……)
もはや老人である。
(きっと、私より先に死んでしまうわ)
マリアは暗澹たる思いで朝焼けの中、草をはみ続ける羊の群れを眺めた。
(話も合わないだろうし……)
そこまで考え、ふとマリアはひとりで笑ってしまう。
(そうだった。前の夫とも、別に会話らしい会話はなかったわね)
そう考えれば、またあのつまらない生活が延長されただけとも言えるのだ。マリアは気を取り直した。
日が昇り、再び傾き始めた頃、マリア一行はローヴァインのお屋敷についた。
古城を思わせる、大きな屋敷。
その向こうには、庭というよりも、青々とした領土が広がっている。
周囲に店のようなものは見当たらず、寂莫とした牧草地がだだっ広くある。
マリアの馬車が到着すると、どやどやと使用人が勢ぞろいで彼女を出迎えた。
彼女と両親は目を丸くする。
使用人は誰もが目を輝かせ、新しい奥方を凝視していた。
その中から、一人の若い男が進み出る。
「お待ちしておりました。初めてお目にかかります、奥様。私は執事のジャンと申します」
少し小太りで背の低い、しかし人の好さそうな青年執事だった。マリアより年下のように見える。
「……初めまして」
「早速式の準備をしましょう。部屋までご案内致します」
マリアは嫁入り道具の赤いドレスの入った箱をジャンに持ってもらい、屋敷の中を歩き出す。
両親とはそこで一度別れた。
歩きながら、彼女は夫の影を探す。
「夫は……どこかしら」
「テオ様は先に教会へ向かわれました」
「そう」
「お会いするのは着替えてからでも遅くありません。何事も初めが肝心ですから、教会でとびきり美しい奥様を見ていただきましょう」
「……ふふふ」
マリアは緊張が解けて思わず笑った。何とも口が達者な執事だ。
「こちらが、今日からマリア様のお部屋となります」
部屋の向こうには、何やらぎらぎらとした目で侍女らが待ち構えていた。
早速マリアは椅子に座らされ、侍女に髪を整えられる。
マリアの栗色の縮れ毛が、梳きに梳かれて整って行く。
「ああ、ついにこんな日が」
梳きながら、侍女がぽろっと呟く。
「奥様の身だしなみを整えるのは、私達の夢でしたの」
マリアは戸惑いながら呟く。
「そ、そうなのですか?」
侍女らはうんうんと頷き、声を詰まらせるようにそれきり黙ってしまった。
緋色のドレスを着せられ、マリアは部屋を出る。
部屋の前で待っていたジャンに連れられ、忙しく馬車に乗せられた。
向かうは領内の教会。
既に教会の前は馬車でいっぱいになっており、本当にマリアを待つのみとなっていた。
マリアは教会の裏口から入り、夫の姿をきょろきょろと探す。
「奥様」
侍女に声をかけられ、マリアは脇の廊下から正面玄関に連れ出された。
「扉を開けましたら、お父様と入って下さい。マリア様のお父様が婚姻の証人となります」
言うなり扉が開かれ、マリアは父と共に教会のカーペットを進み行く。
すぐそこには、マリアの次の夫、ローヴァイン公爵テオが待っていた。
かつての金髪には銀が混じり、口髭を生やした大柄な老騎士である。
(……まるでライオンみたい)
マリアはまじまじと新たな夫を見上げる。彼はまさに老いたライオンのような、威厳と老獪さを併せ持った男だった。
貴族と聞いてすぐ想像するような、エレガンスさとは程遠い険しい風貌。
(この人が、私の夫……)
マリアがそうっとテオを振り仰ぐと、老騎士テオは意外にも、彼女にニッコリと笑いかけて見せた。
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