第29話 マリアの大怪我
あっと声を出そうと思った時には、もう遅かった。
マリアは右の馬とぶつかった衝撃で外側に投げ出された。
後方で、更に別の衝撃音がする。
競馬場内に響く数々の叫び声。
マリアの視界がぐるんと逆転し、その軽い体が硬い芝と衝突する。
咄嗟に受け身をとったが、背中をしこたま強打した。
サティーナが遠のいて行く。
息が出来ない。
視界が暗くなって行く──
「マリア!」
テオの声がする。
(テオ……)
夫の顔が視界に入る寸前、マリアは意識を失った。
ふと次に目を開けると、テオの顔がある。
マリアはぱちぱちと瞬きをした。
「あら?……テオ」
マリアがそう呟くや否や。
「マリア!」
テオが妻の名を叫び、マリアの上半身を抱き締めた。彼女は何が起こっているのか分からず、呆然と夫の背中に手を回す。
マリアは周囲を眺めた。
そこは、いつものマリアの寝室だった。日は落ち、窓の夕闇も消えかけている。マリアはベッドに寝かされており、侍女や執事がほっと胸をなで下ろしている姿が見えた。
扉が開かれ、医師が入って来る。
「あの、レースは……?」
マリアが問うと、テオは首を横に振った。
「残念ながら悲しい事故が起き、レースは中止になった」
「そうなんですか……」
「詳しい話は後だ。まずは医師の診察を受けてくれ」
テオが離れると、医師が近づいて来た。
「マリア様、気分はどうですか」
「そうですね……頭と、背中が痛いです。それから、足……」
「足なのですが、骨折か捻挫か見極めたいので、立つことは出来ますか?」
「骨折……?捻挫……?」
医師の言葉をおうむ返しして、マリアは青くなった。
テオがマリアの背中を支え起こしてくれる。
布団をはがされ、くるりと向きを変えられ、テオがそっとベッドからマリアの足を降ろしてくれる。
嫌な予感がしてベッドの下に目を移し、マリアはぎょっとした。
右足に、ギプスがはめられている。
しかもその右足全体は、どこか赤黒い。
「マリア。体を支えるから、立ってみなさい」
マリアは夫に支えられ、くらくらしながらも立ち上がった。
意外にも、腫れの感じに比べれば、痛くはない。
ただ、歩くとやはり鈍い痛みがある。
「あ、そんなに歩かなくても結構です」
医師に止められ、マリアたちは立ち止まった。
「歩けるということは、ひどい骨折ではなさそうですね。どうぞ、こちらへ」
マリアが歩こうとするとテオが背中と膝裏に腕を回し、その体を持ち上げた。
マリアはそれで、ようやくクスクスと笑う。
「ふふふ、素敵。お姫様になったみたい」
妻の体を布団に戻し、テオと医師はどこか安堵したかのように目配せし合った。
「これは、骨にヒビが入っているか、重い捻挫かのどちらかでしょう」
医師は言った。
「しばらく、足を少し高くして安静にしていてください。腫れが引いてギプスが外れたら、歩くことを徐々に再開します。しばらくは車椅子を使って移動した方がいいでしょう」
マリアとテオが頷くと、医師は荷物をまとめて帰って行った。
マリアは妙に白く輝くギプスを眺める。
「……怪我をしてしまったわ」
何かを察し、執事と使用人は医者に続いて部屋を出て行く。
「しばらく馬には乗れないわね」
テオは頷くと、マリアのすぐ横に椅子を引いて来た。
そこに腰掛け、妻の両手を握る。
「全身打撲に足の捻挫……診断が降りるまで、生きた心地がしなかったぞ、マリア」
マリアはハッと夫の顔を見つめる。
テオは深刻な表情でマリアを見つめ返していた。
「前にも言ったはずだ。最期に、私の顔を覗き込んでさえくれればいい、と」
マリアは夫の気持ちを慮り、じわりと赤くなる鼻をすする。
「だから私は……君の最期を見る、ということは、人生において全く想定していない」
その声が心なしか震えている気がして、マリアは辛くなった。
「馬に乗るのも、レースに出るのもいい。だが、体だけは──」
マリアはテオの震える手を胸元に引き寄せる。
「ごめんなさい、テオ」
それから、夫の肩を引き寄せる。
急に小さくなった夫の肩を、子どもにするように撫でてやる。
「私、誰かに必要とされるのが嬉しくて、勝たなければと思い込んでいたの。でも、それはやっぱり違うみたい。だって、誰かのためにテオを悲しませるのは、本意ではないもの」
テオは声も出さず、小さく頷く。
「勝っても負けても、きっとあなたは隣で笑ってくれる。そうでしょ?」
「マリア……」
「私を本当に大切にしてくれる人は、私を勝ち負けで好きになったり嫌いになったりしないわよね」
テオはマリアを抱きすくめる。
マリアは震える伴侶の心に寄り添った。
「マリア。しばらくは……」
「そうね。ちょっと、休まなければダメよね。神様が、人生について考える時間を下さったんだわ」
「……」
「あなたと一緒になって、心が自由になって、ちょっと飛ばし過ぎたみたい。もう少し何事も、慎重にゆっくりやることにするわ」
「……そうだな」
マリアだって、いたずらにテオの寿命は縮めたくない。
マリアはテオの頬を撫でると、どことなくしぼんでしまった彼に息を吹き込むように、その震える唇にゆっくりとキスをした。
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