神様がくれた時間

第28話 アクシデント

 マリアがせっせとお茶会に通い、馬の練習も重ねている内に、次の出走の予約が入った。


 今度は別の馬に乗ってくれと言う。


 新馬の牝、サティーナ。


 黒毛の馬のサティーナは気性の荒い牝馬で、トップスピードは大したものだが、気分の浮き沈みが激しい馬だ。乗りこなすのに苦労するが、気分が乗ってしまえば面白いほどよく走る。


 彼女の気分を乗せるために、牧場内の角砂糖やキャンディはほぼ消費し尽くした。


 練習するのにも一苦労で、マリアは正直、疲れ始めていた。




 牧場にて。


「マリア、最近疲れているな。騎手をアロイスに交代しようか?」


 妻の様子を見兼ねて、テオが尋ねて来る。


 マリアは近くのベンチに腰掛け弱ったように笑うと、首を横に振った。


「あら、大袈裟ね。大丈夫よ。サティーナの馬主さんは品評会で私を乗せたくて購入されたのでしょう?期待に応えなければいけないと思うし」

「……期待に応える?」

「ええ。私、今、誰かに必要とされていることがとっても楽しいの。ああ、そうそう。この前のお茶会で聞いたのよ。貴族の奥様方の間で、私のファンクラブが出来たんだって!」

「……」

「あら、どうしたのテオ?浮かない顔ね」


 テオはマリアの隣に腰を下ろした。


「不特定多数の期待に応えるのには、注意が必要だぞ」


 マリアは首を傾げた。


「なぜです?」

「不特定多数は、無責任なんだ」

「あら……そうかしらね?」

「個人の期待に応えるのはいいことだが、不特定多数の期待に応えていると、いつかとんでもないしっぺ返しが来る」

「そんな風に考えたこと、ないわ」

「そうだろうな。何せマリアは騎手経験がまだ短いし、戦場に出たこともない。いいか?本当は期待をかける方にだって、責任が伴う。そのことを知らないで無責任に誰かに期待を負わす輩が多すぎる」

「でも……」

「あんまり他人に振り回されるなよ。特に、よく見られようなどということは考えるな」


 マリアはくすくすと笑った。


「私が心配なの?テオ」

「そうだ」

「私なら大丈夫よ。馬に乗るのだって、私が楽しいからやっていることだし。それに、今度は陛下の馬とも走るのよ?腕が鳴るわ!」

「うーん……」


 遠くで、トビアスが呼ぶ声がする。


「はーい!今行きます!」


 マリアは再び練習場に走り出す。


 テオは頭を掻いた。


「いかん……マリアは勝利病にかかっている」


 戦場でも、よくある。


 勝ちを上げ続けた後、自分の考えを曲げられなくなる病だ。


 勝てば、気持ちよくなる。勝てば声援が増える。期待される。


 一方。勝てば負けられなくなる。勝てば休めなくなる。勝てば負わされる責任が増えて行く。


 マリアは強い女とはいえ、勝負とは程遠い世界の貴族女性をやって来た。だから、この危険性に気づけないのだ。


「まあでも、一回負ければ、その辺りも学べるか……」


 テオは嫌な予感が払拭できないながらも、軍人時代のようにひとりの騎手を見守ることにした。




 レース当日。


 リューデル競馬場は歓声に包まれていた。競馬場は、いつもの比ではない人数が観戦している。


 皆、マリアを観に来たのだ。


 世にも珍しい女性騎手。派手な格好で、美しい佇まい。


 彼女の活躍と初勝利は世間にセンセーショナルに騒ぎ立てられ、ひと目その姿を見ようと多くの観客が駆けつけていた。


 競馬場の一時期までの落ち着きは失われ、どことなく出走馬らもいきり立っている。


 マリアの乗るサティーナも同様だった。


「いい子にして、サティーナ……こらっ」


 マリアは手綱をぐいぐいと引く。しかしサティーナは首を振り立て、落ち着かない。


 と、その時だった。


「トラヴィス陛下だ!」

「陛下が観戦するぞ!」


 その声に、マリアはハッと我に返る。


 そうだ、今日は王の新馬も出走するのだ。競馬場はますます混迷を極め始めた。


 トラヴィス王はブリュンヒルデ王女を伴って、王族席に座る。


 観客席は荒れ狂う波のように湧き立った。


 騎手たちからすると、この大騒ぎはたまったものではない。


 ファンファーレが鳴り響き、出走馬は白線の内側に並ばされる。


 しかしどの馬もグルグルと徘徊してしまって、一定の位置に留まらない。


 マリアは厩務関係者席のテオを探した。


(テオ……!)


 テオは苦悶の表情で少し下を向き、何かに祈るように手を組んでいる。


 マリアはそんな彼の姿を目撃してしまい、背筋が凍る。


(そうだ。私、確かに騎手を楽しみたかったけど……テオに負担をかけるために騎手をしているのではなかったんだわ)


 テオは妻を心配しているのだ。


 マリアの手綱を握る手に、力が入る。


(うん。今日は、何だかとても危ない日だわ。こんな時は無理をせず、とにかく無事に走り切ることに集中して──)


 旗が振り下ろされた。


 一斉に馬が出た、その時。


 マリアの両側の馬が、サティーナに続けざまにぶつかった。


 マリアは冷や汗をかき、体勢を立て直す。


(いけない、このままでは……!)


 マリアは前のめりになる。


(馬群の中にいたら、余計に危ないわ。こんな時は、逆に前に出ないと……!)


 そこでがむしゃらに前に出たのが悪かった。


 両側の馬との間からぐんと抜け出した、次の瞬間。


 別の馬が急に視界の右後方から現れ、マリアの馬にぶつかった。 


 マリアの体がぐらりと傾く。


 あっと思った時には、もう遅かった。

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