第30話 どうにもならないこと
翌朝。
侍女に頼んで持って来て貰った新聞を見て、マリアは息を呑んだ。
〝リューデル競馬場で大事故発生〟
恐ろしい見出しの後に、こんな文章が続く。
〝馬群の先頭集団がもつれ、馬同士が追突。一名死亡、四人が大ケガ〟
マリアはくらっとして、それ以上新聞を読むのはやめにした。
あの事故は、一歩間違えれば死ぬ事故だったのだ。偶然外側に投げ出されたことが、結果的には良かったらしい。
レースの渦中にいた自分にはいまいち状況が掴めなかったが、遠巻きに観戦した人々はさぞ肝を潰したことだろう。
ともかく、何の因果か自分は命拾いをしたようだ。
ふうと息を吐いたと同時に、ノックの音が響く。
「はい」
マリアが返事をすると、テオが扉を開けて入って来た。
彼が押して来たものを見て、マリアは目を丸くする。
車椅子だ。
「起きていたのか」
「はい……妙にお腹が空いてしまって」
「そうか。ならば、朝食にしよう」
テオは布団をめくると、昨日のようにマリアの背中と膝の裏に腕を入れ、引き寄せるように持ち上げた。
マリアは幸福そうに夫の首に腕を回す。
「男性にお姫様扱いされるの、初めてなの」
「ん?そうか?じゃあこのまま食堂に行くか……」
扉の隙間から「やめてください」とジャンの声がし、テオは笑いながらマリアを車椅子に乗せた。
テオに押され、マリアは食堂へと運ばれる。
「そうだ。先程レベッカが、君のために車椅子生活用の服を仕立てたいと言っていたぞ」
「まあ。車椅子生活用の服?」
「ああ。後ろ開きで着脱のし易い、侍女の手をなるべく煩わせないような服。またはゆったりして負担の少ない、寝間着とドレスの中間服みたいなものを目指すそうだ」
「あら、何だか悪いわね……」
食堂に着くと、いつもの豪勢な朝食ではなく、何かと刻まれた流動食が複数用意されていた。
「いつものでいいのに……」
向かいの席にテオが座る。
「みんな、君が心配なんだよ」
マリアは肩を落とす。
「私のせいで……」
「そんな風に考えるな。厚意に遠慮など不要だ」
「でも」
「君は別に、間違ったことは何ひとつしていない。ただ、運が悪かっただけだ」
マリアは思う。
ここにいられるのは、不運ながら幸運であったからだ。
「マリア、今日は自宅でゆっくり過ごそう」
マリアは卵粥をかき混ぜながら、こくりと頷いた。
「私も久々に、何の予定もない」
朝の光が、ふわりと室内に差し込んで来る。
「休もうマリア。何だか昨日は色々と考えることが多い一日だった」
マリアはくすりと笑う。
「……そうですね。私もです」
「どうだ?体調が良ければ散歩でも」
「いいですね。室内にいると滅入るので、少しでも陽に当たりたいです」
朝食後、マリアはテオに車椅子を押され、屋敷の外に出た。
外はすっかり夏の陽気で、花より緑が目に眩しかった。
「あら、この車椅子、使用人に押して貰わないの?」
「君と二人きりになりたいと思ってね」
「そう……」
「昨日、考えた。私はまだまだ、マリアと話し足りないんだ」
「……」
「君が馬から投げ出された時……一番に思ったことは、それだった」
マリアは緊張する胸を抑え、小さく頷いた。
テオは言う。
「そう、前の妻の時も同じことを考えて……」
マリアは予想がついていたので、目尻を拭う。
テオは以前亡くなった妻のことを話そうとしているのだ。
「ええ、前の奥様ね」
「その時も、結婚一年目のことだったんだ」
「……」
「人生でここまで立て続けにこういうことがあると、一瞬、生まれて来たことすら後悔した。でも投げ出された君を助けに駆け込んだら、息をしていたので少しほっとしたんだ」
「テオ……」
「少しでもマリアと共に生きたい。前よりそう思うようになった」
マリアは目をごしごしとこすった。
「だから、マリア」
「何?」
「少し、将来について話さないか」
「将来?」
「つまりだな、万が一、子どもが出来たら……」
静かに風が吹く。
「まさか」
マリアは急な話題に少し身構え、首を横に振った。
「私、十年も子どもが出来なかったのよ?」
その頑なな態度に、テオは思うところがあったらしく小さく息をついた。
「……何が起こるか分からないのが、人生じゃないか。それに、君を愛すれば愛するほど、この話を避け続けるのもちょっと辛く思えて来たんだ」
夫の正直な気持ちの吐露に、マリアは押し黙る。
もやもやと、考えたくなかったどす黒い感情が胸に迫って来る。
「……正直、そのことについては考えないようにしていました。それを考えたところで、子どもが出来るわけではないでしょう?」
なるべく顔色を悟られないように、マリアはうつむく。
「やればやるだけ上達する馬術や騎手と違って、妊娠出来るかどうかは体質次第ではありませんか」
「マリア……」
「……この世には、努力でどうにかなることと、努力ではどうにもならないことがあります」
マリアは言い募りながら、少し絶望していた。
「……テオ。不妊を知っていて娶ったのに、まさか今になって私に妊娠を求め出したの?」
怪我で体が不自由なこともあり、マリアは苛立つ。
テオはそこまで反発されると思っていなかったらしく、青ざめた。
「すまない、マリア」
「……」
「けれどあれ以来、どうしてもそういうことを考えずにはいられなくなったんだ。私が死んだら、君はこの屋敷でひとりぼっちになってしまう。私が以前伴侶を失って抱えざるを得なくなった寂しい思いを、君にだけは味わわせたくない」
マリアは目をこする。
「私だって、あなた亡き後を考えずにはいられません」
「……」
「でも、だからこそ、あなたからその話題を出されるのは辛いんです」
「……分かった。もうこの話はやめにしよう」
マリアは頷きながら、ふと庭の先に小さな石碑を見つける。
「……テオ」
「何だ?」
「あの石は……お墓?」
テオは気まずそうに黙る。
マリアはそれで、自分の予想が当たったのだと悟った。
「もしかして、前の、奥様の?」
「……」
「そういえば前の奥様の話、詳しく聞いたことがなかったわね」
テオは意を決したようにそっちの方向へ車椅子を押した。マリアはテオがその話題を避けている気がしていただけに、その挙動に内心驚いていた。
目の前に、墓石が現れる。
「フィーネの墓だ」
マリアはそれを見て、ごくりと息を呑んだ。
テオの亡き妻の名は、フィーネ。
彼女の墓は意外にも、こんなに身近なところにあったのだ。
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