第31話 亡き妻フィーネ

 庭先にぽつねんとあった墓。


 それがテオの亡き妻、フィーネの墓。


 マリアはそれを前にして神妙な顔になり、祈りを込めて手を前に組んだ。


「……こんなに近くにあったのね。気づかなかったわ」


 テオが声を落とす。


「君を積極的にここに連れて来るのは、何だか怖い気がしてね」

「怖い?」

「君を、嫌な気分にさせるのではないかと」

「そんな風には思わないわ。ただ……」


 マリアは物言わぬ墓石を見つめた。


「テオ。フィーネさんを愛していたのね?」

「もちろん」

「どんな女性だったの?今まで聞きそびれていたわ」

「同じ年の女性だった。幼馴染でね」

「……そうだったの」

「彼女の別荘が当時、近くにあったんだ。毎年、仲良く遊んだ。どっちも馬に乗ったりして」

「……何だか、私たちみたいね」

「だから彼女との縁談が組まれた時はほっとした。見知っていたし、気を許せる相手だったからな」


 よく見ると、墓の前方に花が供えられていた。枯れかけている。マリアはそれを見て、少し胸が騒いだ。


「……花を」

「そうだ。一週間前に供えた」

「いつの間に……」

「もう習慣になっているからな。摘んだ花を、こう……」


 テオは、墓の前にはらりと花を手向けるそぶりをした。


「散歩コースになっているからな」

「……」


 マリアの顔が曇る。


「……マリア、どうした?」

「ううん。何でもないわ。でも、その」

「?」

「忘れられないのね、フィーネさんのこと」


 テオは慎重に言葉を選んだ。


「正直に言うと……もう、私は彼女の顔を忘れかけている」

「……!」

「いつも墓の前で、思い出そう、思い出そうと頑張るんだがな。人間は忘れる。悲しい生き物だ」

「テオ……」

「話したことや行動は覚えているんだが……まあ、そういうわけだ。残された人間はそうやって長い年月をかけて、色んな悲しみを経験しなければならない」


 マリアは顔を覆った。


 テオは何十年も、そのような孤独に耐えていたのだ。


「だ……駄目だわ」


 マリアは頭を抱えた。


「少し、気分が……」

「マリア、大丈夫か?……やはり昨日の今日だからな。すぐに屋敷へ帰ろう」

「……お願いします」


 テオが車椅子を押し、マリアはぐったりと悲しみに暮れる。


 どうも体を損傷すると、気分の上下が激しくなる。モノであれ心であれ、何かを受け止めるのが困難になるようだ。


 マリアは再びテオに抱き上げられ、ベッドに横たえられた。


 彼が出て行くとマリアは掛布団を頭まで被り、ようやく声を出して泣いた。




 再び目を覚ましたのは、夕暮れ。


 扉の開く音がして、マリアは目が覚めた。


 そこにいたのは、背中の曲がった老婆。


「レベッカ……!」

「お目覚めですか、マリア様。横になっていて結構でございます。車椅子の寸法を計ろうかと思いましたもので……」


 レベッカは巻き尺を持っていた。それでマリアは思い出す。


「レベッカ、服を作ってくれるのよね?」

「はい。色や素材など何かご希望があれば、おっしゃってくださいね」


 相変わらずよく通る声でそう言って、レベッカはちゃっちゃと車椅子を計ると、すぐに出て行こうとした。


 マリアはハッと我に返って老婆を引き留める。


「待って、レベッカ」

「……はい、奥様」

「少し、あなたに聞きたいことがあるの」


 レベッカは再びベッドサイドに戻って来た。


「はい、何なりと」

「レベッカは、フィーネさんのこと覚えてる?」


 レベッカは微笑みながら頷いた。


「ええ、もちろんです」

「どんな人だった?」

「そうですね。とても穏やかで、美しい女性でしたよ。ローヴァインに嫁いで来たのは18歳。女ざかりでしたし、何着もドレスを縫いました。痩せ型で、栗色の髪で。そう……マリア様と、どことなく似ているような気が致しますね」


 マリアの胸がずきりと痛む。


「……似ているの?」

「何となく、ですが。雰囲気と言うのですかね」

「……そう」

「奥様?」

「……やっぱり、少し寝るわ」

「そうですか。それでは失礼致します」


 扉は閉められた。


 レベッカは質問に答えただけなのだ。


 どんな人と聞かれ、あなたに似ていると言っただけなのだ。


 でもそれが、マリアの弱った体には妙に痛々しく響いた。


(私は……フィーネさんほど愛されているのかしら)


 死後何十年も、花を手向けられる女性。


 愛した男がかつて愛し、その死を悼んだ女性。


(もしテオがフィーネさんの面影を私に重ねているとしたら……私って何なんだろう)


 誰もそんなことを言ったわけではないのに、脆弱になった精神は勝手に老婆の発言を曲解し、マリアの心を痛めつける。


(私はフィーネさんの〝代わり〟なの……?)


 夕闇が迫り、涙を誘い、どことなく体中が痛くなる。


 精神が闇に蝕まれる寸前、再び寝室の扉が開いた。


「マリア」


 愛しい声。


「もう夜だが……そろそろ何か食べた方がいいのでは?」


 マリアは息を殺して黙っている。


 様子がおかしいことに気づいたのか、テオは妻の掛布団をそうっと剥がした。


 テオはその姿を見てぎょっとする。


 そこには苦しげに、小さくなって泣いているマリアがいた。


「どっ、どうしたマリア!どこか痛いのか!?」


 おろおろするテオに構わず、マリアはさめざめと泣いた。


「医者を呼ぶか?やはり骨が折れていたのか」

「……ち、違うの」

「?」

「テオ。私とフィーネさん、どっちの方が好き?」


 唐突な問いに、テオは目を丸くした。

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