第32話 二人にしか出来ないこと

「……君は一体、何を言ってるんだ?」


 テオに問われ、マリアはぐしぐしと両手で目をこする。


「急に不安になったの。私、フィーネさんの代わりなんじゃないかって」

「……そんな馬鹿な」

「うっ。だって……レベッカが、フィーネさんは私と似てるって」

「……レベッカめ」


 テオはマリアのベッドに腰を下ろした。


「マリアは断じて誰かの代わりではない」


 そう囁き、彼は妻の手を握る。


「君はこの世にひとりしかいない、私の大事な人だ」


 マリアは涙に濡れた顔を上げる。


「でも、フィーネさんも痩せ型で栗色の髪だったんでしょう?」

「あのな……痩せ型で栗色の髪の女性が全員フィーネの代わりだなんて、そんなわけがないだろう」

「でも……」

「誰かの代わりなんていない。だからみんな尊いんだ。違うか?」

「死んだ人が最愛の女性だったかもしれないじゃない」

「ん?そんなところまで話が飛躍するのか……」

「だって……」

「やはり怪我をして弱気になっているな、マリア。今日はずっと様子がおかしいぞ」

「そうみたい。私の心はずっと、何かに怯えているみたいなの」


 テオは布団からマリアの背中を助け起こすと、ベッドに腰掛けた。


 そしてマリアの足に触らぬよう、その肩を抱き寄せる。


「今現在、愛している女性はマリアだけだ。それじゃ不満か?」

「じゃあやっぱり、テオはフィーネさんを……」

「順位なんかつけられない。今は、マリアだけを愛している」

「正直者ね」

「嘘をつくのは、心が咎める。君を愛しているからこそだ」

「……あ」


 マリアは、彼が嘘をついていないことを確信する。


 どちらも真剣に愛した以上、どちらを愛しているかと問われても、彼には比べようがないのだ。


「それが私なりの答えだ。どちらも大事過ぎて、順位をつけられない。ただ……」


 テオはマリアに口づける。


「今、こうしてこの世界で愛し合えるのは、マリアだけなんだ」


 そう言った夫の真っすぐな瞳を、マリアは受け止める。そうすると、急にマリアの頭の回路は働き出した。


「……本当ね。その通り過ぎて、言葉にならないわ」

「それが一番大事なんだ。生きて、二人でいると温まるということが」

「二人で……温まる?」

「そうだ。これは今の二人にしか出来ない、とても贅沢なことなんだぞ」


 マリアはテオの言葉から、彼の長い孤独の日々を思う。


 これ以上彼を困らせるのは、どんな理由があろうと、やはり駄目だ。


「ごめんなさいテオ……私、どうかしてたみたい」

「人生、何度かそんな時もある。気にするな」

「怪我をするのって、こんなに気が滅入るものなのね……勉強になったわ」

「怪我が治れば、どうせまた忙しくなる。ここは焦らず、ゆっくりしたらどうだ」

「ゆっくり……?」


 テオはにっこりと笑った。


「そうだ。歩けるようになったら、温泉旅行にでも行こう。湯治するんだ。戦場で傷ついた兵士も利用する、いい温泉を知っている」

「旅行!?いいわね、みんなで行きましょうよ」

「どうだ?楽しみが増えると、元気が湧いて来るだろう」

「ええ、本当ね。ありがとう、テオ」


 二人は寄り添ってくすぐったそうに笑い合った。


 夕日が去って闇の中にあっても、互いの体温を感じるだけで孤独ではなくなる。


 それでようやくマリアは、テオが子どもの話を持ち出したのも自分に要求を突きつけているのではなく、妻にいつか訪れる孤独の心配をしていたのだと理解した。


 テオの手で、マリアの乗った車椅子が押されて行く。食堂に着くと、流動食ではないいつもの食事が待っていた。




 二週間後。


 マリアは木の柵に掴まって、たどたどしく歩いていた。


 足の腫れもある程度引き、ギプスも外された。全く動かないと筋肉量が落ちるということで、歩くリハビリを行っているのだ。


 怪我以来、大量のファンレターが届き始めていた。それを心の支えのひとつにして、マリアはこうしてリハビリをしながら、いつもの暮らしを取り戻し始めていた。


 今日は久しぶりに、彼女はローヴァインファームにやって来た。


 テオも一緒だ。


 彼はマリアの進行方向で待ちながら、声をかける。


「マリア、あんよが上手」

「もう、テオったら……からかわないで」


 マリアの足は腫れが引いたものの、まだ痛い。


 回復は良好で、医師によるとやはり骨は折れていないだろうとの判断だった。ギプスの代わりに、患部は布でぐるぐる巻きにされている。


 ほうほうのていで歩いて行くと、待ち構えていたテオがマリアを抱き止めてくれる。


 マリアは幸せそうに笑った。


「この分なら、来月レースに出られるぞ」


 そう言ったテオに、マリアは深刻そうな顔でうつむいた。


「……どうした?マリア」

「その……私、いつものレースが出来る気がしません」


 テオは遠くを見つめた。


 あの時マリアと走ったサティーナが草を食んでいる。


「……まさか、馬が怖くなったのか?」


 マリアは柵にもたれかかってサティーナを眺めた。


「そうね。正直に言うと、少し馬を怖がっている自分がいるの」


 テオも並んでサティーナを見る。


「ふむ……」

「以前は馬に全幅の信頼を寄せていたわ。けれどここ最近、馬を疑ってしまう気持ちが出て来てしまって」

「マリア……」


 二人は黙って牧場の馬たちを眺める。


 テオの手が、マリアの背中に触れた。


「マリア。君が正直で良かった。そういった気持ちを誤魔化しながら誰かの期待に応えようと馬に乗るのが、一番危険だからな」

「はい……」

「今は怪我を治すことに専念しよう」

「そうね。レースに出たくなったらまた出ればいいだけだし。今は……ちょっとテオに甘やかされたい、かな」

「そんなことなら、いくらでもしてやろう」


 テオがマリアの肩を抱くと、彼女は急にしんみりとして目をこすった。


「私、辛いです。あんなに馬が好きだったのに、彼らを疑うことが……」

「今は仕方がない。やはり、肉体は回復しても精神的に難しいところがあるのだろう。そういう兵士は沢山いた。アロイスもそのひとりだった。実は体のリハビリより、心のリハビリの方が難しい」


 元軍人は、色んなことを経験しているようだ。


 マリアは不安な心を、夫に寄り添うことでどうにか回復しようとしていた。


 と、そんな時。


 遠くにいたサティーナが、何を思ったのかこちらへ歩み寄って来たのだ。


 マリアはテオに寄り添ったまま、きょとんとサティーナを見つめた。


 調教師のトビアスが慌てて飛んで来たが、マリアは言う。


「待って、連れて行かないで」


 マリアはじっと、物言わぬサティーナを見上げた。


 それからそうっと震える指で、勇気を出して彼女に触れた。


 そこでマリアは気づいた。


 サティーナも、自分と同じく震えていることに。

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