第13話 アロイスとセンティフォリアの走り

 レースの時間がやって来た。


 馬は白線の向こうに並べられ、少し落ち着くまで放置される。


 ファンファーレが鳴り響き、旗が振り下ろされた。


 馬は思い思いに走り出す。アロイスを乗せたセンティフォリアは、ぐんと先頭の馬群に入った。


 先頭集団は、センティフォリア以外は海外の馬である。彼らは大きな体を武器に、伸びやかに走る。


 センティフォリアはそれでも食らいつく。


 馬主の集う客間には、レースを見守る静かな熱気が充満していた。


 マリア自身は馬券を購入していないが、やはり自分の牧場の馬なので、どうしても見守る視線に熱が入る。


「うむ、今日は調子がいい方だな」


 シモンが満足げに呟く。


「もう少し、内側に入れれば勝機はある」

「内側……なぜですか?」

「内側は走る距離が少なくて済む。あと、リューデル競馬場はこの時期芝の質が悪いから、内側の方が馬に踏みしめられていなくていい状態の芝で走ることが出来る」

「芝ですか……」

「まあ余り内側に入り過ぎても、最後前方を固められたら前に出づらくなるという難点はありますがね」

「レース運びって、とても難しいんですね」

「そういうわけですな。これは馬と騎手との呼吸次第となる。騎手も馬鹿では務まらない。勝負勘、知識、健康状態、馬との相性。とても複雑な要素が組み合わさって、勝てるかどうかが決まって来るというわけです」


 マリアはロルフとの走りを思い出していた。人馬一体とはよく言ったもので、互いの呼吸が合わさった時は何とも言えない疾走感と満足感がある。


「私も、乗馬をするんです」


 マリアの漏らした一言に、シモンは眉を上げた。


「ほう、それは素晴らしい。女性で乗馬を楽しむ方も、昨今増えているそうですね」

「はい。うちの馬のロルフに乗って、この前、夫と競走をしました」

「して、結果は?」

「もちろん私が勝ちました」

「ははは、もちろん、ですか……元騎士相手に大したものですね。今度、私も競走に混ぜてもらうかな」

「ふふふ、望むところです」


 センティフォリアはスピードを落とさぬまま内側に入り込んで後続を引き離し、そのまま前方の三頭で僅差の勝負が繰り広げられる。場内はひときわ盛り上がり、地響きが起こる。


 しかし、やはり外国産の馬には敵わない。


 センティフォリアはそのまま三着となった。


 シモンは拍手する。


「おお、今日はいい走りだった。やはりテオ様が来たからいいところを見せようと思ったのかな」


 テオがそれに応える。


「あれは、多分今がピークの馬だ。脂が乗っているのだろう。それに、アロイスとの相性が最近随分と整って来たように思うな。馬との信頼関係が出来るきっかけがあったのでは?」


 シモンは感嘆した。


「さすが伝説の老騎士、読みが当たる。いやね、実は最近アロイスの嫁が妊娠しまして」

「ほー、そうでしたか。なんともめでたい」

「馬なりに、感じるところがあるのかもしれません。アロイスの馬への接し方が、明らかに変わっているんです。あいつもセンティフォリアの赤子時代を知っているわけですから、生物への慈しみというのですかね。そういうものが芽生えて来たように思うのです」


 テオは感慨深そうに頷いた。


「騎士なんかをやっているとどうしても力関係でのし上がってしまうので、優しさのようなものが欠けたまま大人になることがよくある。アロイスはそれをこのところ克服して来ているな」

「ああ、おっしゃる通りです。心を一度病んだのも、力に頼り切ってしまっていたからです。怪我をした瞬間に折れてしまったという部分がありましたからね」

「馬もアロイスも成長したということか」

「そういうわけですね」


 レースの余韻に浸っている頃、ようやくジャンがマリアたちの元に戻って来た。


「奥様……」

「あらジャン、執事さんたちとのお話はどうだった?」

「あのう、少しお時間ありますか?ちょっとお話したいことが」


 ジャンの深刻な様子に、テオは周囲を眺めながら言った。


「そろそろ昼にしよう。シモン殿も一緒にどうですかな?」


 ジャンは少し緊張の面持ちで、馬車の停留所まで三人を先導する。




 馬車を停めている場所で、各貴族たちはおのおのピクニックと洒落込んでいた。


 ピクニックとは言ってもコース料理を執事に運んでもらい、いつもの食事を外で取っているだけである。


 シードルと切り分けられたローストビーフを食す三人に向かって、ジャンは話し出す。


「先程、貴族女性たちが話している噂を小耳に挟みまして」

「ほう。何を聞いたんだ?」

「はい。非常に申し上げにくいことと前置きしておきますが、アンディ様がマリア様に関する噂──あることないことを触れ回っておいでのようなのです」


 マリアは顔を歪めた。


「まあ。アンディが?……どのようなことを」


 ジャンはシモンに視線を送りながら、言いにくそうに告げた。


「……マリア様が、ずっとアンディ様との夜を拒否されておられたと」


 テオは驚きにシードルをむせ、シモンは「ほう」と片眉を上げた。


 テオは恐る恐る妻に尋ねる。


「マリア、実際のところは……?」

「まあ、やだテオったら……私はかの家でも、奥方としての務めは果たしておりました。だのにそんな噂を広めるだなんて……ひど過ぎる侮辱です」

「しかし、何だってアンディ殿はそんなことを言い広めているのだ?前妻を侮辱して彼は何の得をするのだろうか」


 シモンが割って入った。


「恐らく、離婚に際し、自分は悪くないと言いたくて必死なのでしょう。貴族男性によくある、外聞とプライドを守る行動に出ているのだと思われる」

「……プライド?何だねそれは。前妻を侮辱して守れるプライドとは一体?」


 テオが至極怪訝な顔で尋ねて来るので、シモンはくっくと笑った。


「テオ様ほど武芸に秀で、己の腕のみで命を繋ぎ、道を切り開いて来た御仁には分かるまい。何かに命を懸けたことのない一般貴族男性が、どんなに己の不甲斐なさに怯えて暮らしているかを」


 シモンはその全てを悟ったような視線をマリアに投げかける。


「こういう時は、何かと反論すると角が立ちます。マリア様はでんと構えておればいい」

「でも……」

「不安ですか?」

「ええ。少し思うところがあって。実は以前お茶会のお誘いを出したら、全員から断られたんです」

「ほー、お茶会。最近流行っている女性の交流会ですな」

「それもアンディの嘘のせいなのかしら」

「んー。でもまあ、そんな嘘の噂に振り回される女性たちと仲良くして、何か益ありますか?」


 シモンの言葉に、マリアは目を瞬かせた。


 彼も、以前のテオと同じようなことを言っている。


「でも、私……」

「ふむ。もしどうしても不安が消えぬなら、別のもっと楽しいことで上書きするのはどうですか」

「……はあ」

「そうだ、今度、アロイスをローヴァインファームに連れて行きましょう。その時にお茶会を催せばいい」


 それを聞くや、マリアは晴れ晴れとした笑顔になる。


「あら、素敵。現役の騎手とお話出来る機会なんて、そうそうないですもの」

「そうですとも。ほうら、お茶会を断られたことなんてどうでもよくなりましたでしょう?」


 シモンはそう言って快活に笑ったが、ジャンだけはまだ怒りが収まらない赤ら顔で主人の横に突っ立っていた。

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