第12話 老いらくの恋と浪漫
競馬場内は混雑していた。マリアはテオにしがみつくようにして人波の中を歩く。
「我々は
一般の客席とは違う方向に歩き、人気のない別の扉から中に入る。
その向こうには豪奢な客間が広がっており、馬主たちがくつろいでいた。
その中に、テオの姿を見て立ち上がる、禿げあがった中年の恰幅のいい男がいる。
「お久しぶりです、テオ様」
「おお、シモン殿。こちらが新しく迎えた妻のマリアだ。マリア、彼がザックス伯爵家当主、シモン殿だ」
マリアは微笑むと、膝を折って挨拶する。
「初めまして、マリアと申します」
伯爵は彼女を見るや、うんうんと頷いた。
「ほほー、これはお美しい。テオ様が一目惚れするわけですな」
マリアは首を傾げ、テオがシモンに真っ赤な顔で詰め寄った。
「シモン殿。その話は……」
「ん?そうおっしゃっていたではありませんか。ギルバート家の奥方を忘れられないと」
「つ、妻の前では……」
「この話はすべきではないと……?なぜです?」
「なぜってそれは……恥ずかしいからに決まっている!」
マリアはくすくすと笑い、ザックス伯爵は色々と察してにやりと笑う。
「ふむ……老いらくの恋は打算がなくていいですね。少年のように純粋で、ひたむきで。テオ様は我々みたいな中途半端な歳では、およそ到達出来ない領域におられますなぁ。それに、以前より随分若返ったように見受けられますが」
彼はそう言って、何かに気づいたようにパドックの方へ向き直った。
「お。馬が来ましたよ。奥様もご覧になるといい」
客間からパドックが見える。マリアも目を凝らすと、トビアスが葦毛の馬を引っ張ってパドック内を歩いていた。
「あれが、私の所有している馬〝センティフォリア〟です」
「あの白い馬ですね?」
「そうです。あれは一応逃げ馬ですが、逃げ切るには外国勢よりちょっと遅い」
「そうですか……騎手はどなた?」
「ふふふ。実はね、騎手は私の息子のアロイスなんですよ」
「あら、素敵。ザックス一族は皆さん馬がお好きなんですね」
「そうですね。アロイスはかつては騎士で、見習い期間はテオ様のお屋敷でも世話になりました。しかし心の病で騎士を辞め、このように騎手となったのです。あのトビアスも確かそうでしたね。元々は騎士だったが、目が悪くなったのでローヴァインファームの厩務員に雇ってもらったという……」
マリアは驚いた。
「そんないきさつが……知りませんでした」
「テオ様は面倒見の良さで部下からの信頼も厚い。だから夫としても……そうなのではないですかな?」
マリアはくすくすと笑う。
「はい、そうですね。とっても良い夫です」
「その言葉が聞けて良かった。私も、公爵の恋の相談に乗った甲斐があったというものです」
「ちょっ、シモン殿……その話はもう、その辺で」
マリアは慌てるテオに幸せそうにしなだれかかり、周囲の馬主らはそれを見てさざめくように笑った。
マリア自身は、馬に乗ることはあっても馬券を買ってのめり込むというところまで気持ちが入ったことはなかった。彼女は周囲の馬主たちを眺める。皆、自分の馬が出走するのを今か今かと待ち構えている。
マリアはシモンに問うた。
「シモン様、センティフォリアの馬主になったのは、どういういきさつなのですか?」
シモンはふむ、と呟き、パドックを見たままこう言った。
「元々競馬が好きだったということも、勿論ある。だが馬主になった一番の理由は、馬の成長を見ていたい、という一点なのですよ」
「成長……ですか」
マリアは牧場主の妻として、勉強のつもりで話に聞き入る。
「そう。特に私は、仔馬から買うのです」
「仔馬の内から……足が早いか遅いかまだ分からないのに?」
「そのように言う人は多いですね。ある程度成長してから買えばいいのにと。まあそれも、勝つためにはひとつの手ですな。だが私は、スピードより浪漫を求めるたちでして」
隣でテオが感慨深そうに頷いている。マリアはどきどきする胸を押さえた。
「スピードより、浪漫──」
「そうです。一頭を買い、名前をつけてやり、その成長を見守る。馬がこのように走り出すまで二~三年はかかります。その間が、実のところ私にとっては一番楽しいんです。馬の個性は赤ん坊の頃からあって、それを厩務員らが一丸となって伸ばしたり、矯正したりする。人間の子育てと一緒ですよ。その一員にさせて貰って、ああだこうだ口を出す権利を買う。私にとっての馬主人生とは、そういった〝馬の未来〟を買う浪漫なのです」
マリアはてっきり、馬主と言うのは全員が全員、配当目当てで馬主になるのだと思い込んでいた。
馬自体が好きで、その成長に一喜一憂するために馬主になるシモンのような人もいるのだ。
「そう考えると、馬主ってとても楽しい趣味ですね」
「そうですね。いささか金がかかり過ぎますが、金以上の価値がある」
マリアはふと周囲を眺め、あることに気がついた。
「あら?いつの間にかジャンがいないわ」
テオが答える。
「ジャンなら、執事同士で連絡することがあるとか言って、出て行ったぞ」
「そうなのですか?そろそろ出走するから、一緒に見たかったのに」
一方その頃。
ジャンは諜報がてら、客席を自由にふらついていた。
と、遠くに、例のアンディと連れの女性が別の貴族たちに挨拶しているのが見えた。
ジャンがその様子に目を凝らしていると、隣で貴族女性たちがひそひそと話を始める。
「あれが次のアンディの奥様候補でしょ?」
「今はまだ婚約中らしいわ。それにしてもアンディ、災難だったわよね」
ジャンは耳を大きくしてそばだてた。
「だってアンディが言うには、前妻のマリアはずっと夜を拒否していたっていうじゃないの」
「そんなの、離縁されてもしょうがないわよね」
「マリアって暗そうだったじゃない?ノリも悪いし。アンディは、あの従順そうな若奥様に取り換えて正解よ」
「マリアもじじいと結婚させられて、ちょうどよかったじゃない。あんな暗い女、若い男の貰い手なんかあるわけないわよ」
「ローヴァイン屋敷のお茶会のお誘い、来た?」
「来たけど断ったわ。あんなじじいが当主じゃ先は短いし、行ってもつまらなさそうだもの」
ジャンは壁際で一人静かに、顔を憤怒に赤くした。
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