第25話 アンディの誤算

 アンディの焦点の定まらない瞳にマリアは怯える。


 愛のない結婚生活の十年に、幾度となく見た、あの瞳だ。


「……生意気だ!」


 アンディが叫ぶと、状況を察したテオがマリアを背に隠した。アンディは更に言い募る。


「お前を排除出来てせいせいしていたら……騎手なんか始めて更に生意気になりやがって……女のくせに!」


 テオが対峙して言う。


「落ち着け。一体、君は何を恐れている?」

「うるさい!引っ込めじじい」

「隠し事を知られるのを、過剰に恐れているのだな。何があった?」


 そこで少し、アンディの目の色が変わる。


 マリアは気づく。


 テオはまた、人の心を読んでいるのだ。


「……な、何を言い出すんだ?」

「君がマリアを離縁したのは、不妊ということもあっただろうが……本当のところは、別の理由だろう?」

「!」


 アンディはうろたえる。


「君は陛下の寝室係になるために、妙に頑張っていたようだが……」

「う、うるさいうるさい!」

「陛下は……マリアに、寝室係を」


 マリアは夫の背中で怪訝な顔になった。


 テオは一体、何を言い出すつもりなのだろう。


 一方、アンディは青くなった。


「ロ、ローヴァイン公爵、その情報は……」

「陛下の周辺で、現在色々と混乱があるからな。陛下は、頼りになる女を探していると」

「やめろ!公爵、それ以上は……!」

「まあ、皆まで言うまい。これは王宮内の極秘情報だからな?」

「ぐっ……!」

「私とて、だてに元帥まで務めておらんよ、坊や」


 アンディはうつむき震えている。


 そして、過剰なまでにマリアに怯え始めた。


 マリアは思う。


 アンディの人間関係には、親愛の情は存在しない。


 上か下か、その二択しかない。そして下だと判断した場合、利用する。利用出来なくなれば捨て去る。それしか出来ないのだ。


 その上下も彼個人の主観であり、戦った結果得た順位ではない。だから彼は満足することはない。誰かからの愛や庇護を得ることもない。永遠に。


 アンディが大人しくなったので、マリアはようやくテオの背中から出て来る。


 そしてはっきりとこう言った。


「アンディ。この世は決して、あなたの思い通りにはならないのよ」


 アンディは顔を上げ、どうにかマリアを睨みつけている。


「あなたが人を蹴落として手に入れたものは何?……何もなかったはずよ。私はテオや馬たちと接しながら、ようやく自分の愛し方を見つけたわ。あなたも、駄々をこねたり陛下や地位をあてにせず、人に迷惑をかけないやり方で、自分の愛し方をちゃんと見つけてくださいね」


 アンディは視線を落とし、何かに気づいたように注意深く黙りこくる。マリアは最後にまっすぐ前夫を見つめ、こう告げた。


「さよなら、アンディ」


 争いの気配を嗅ぎつけて、周囲に人が集まって来た。


 アンディはそこでようやく我に返り、背後を振り返る。


 そこではゴシップ好きの観客たちが、やんややんやと騒ぎ立てていた。


「マリア、よく言った!」

「老騎士よ、その胸糞悪い若造をやっちまえー!」

「殴り合え!」


 そして、更にその背後には──憤怒の表情のシルヴィアとヨーゼフが立っている。


 アンディは急に我に返り、真っ青になった。


 マリアはテオに肩を抱かれ、アンディとぶつかるようにすれ違う。


 更にその後方から、パウルがやって来た。


「生意気だ、女のくせに……か」


 パウルはまるでねぎらいでもするかのように、アンディの肩をぽんと叩く。


「そんな暴言、よくもまあ女性の前でスラスラ言えたもんだ。恐らく、マリアさんは君の家でずっとあのように扱われていたんだね?君との付き合いはここまでだ。家族会議の後、正式に妹との婚約を解消させてもらうよ」


 アンディはその場に立ち尽くした。


 テニエス家一同は馬車に乗り、アンディを置いて街へと帰って行く。


 それ以降、マリアの前にアンディが現れることはなかった。




 次の日の朝。


 マリアは朝食の席で、テオにあれからずっと気になっていることを尋ねた。


「テオ、昨日の話なんだけど」


 テオはにっこりと秘匿の微笑みを見せた。


「陛下が私を寝室係に……とは、どういうわけなのかしら」


 テオはゆっくりと食後の茶をたしなむ。


「ねえ、テオったら」

「うーむ、これは最近騎士仲間から得た機密情報だからな。ここでは言えない」

「あら……機密なの?」

「そうだ。その理由を知っているのは、元帥クラスと寝室係のみだな」

「そ、そんなに大切な情報なのね……」

「ああ。まあ、かいつまんで言うとだな」

「はい」

「陛下は以前──まだマリアがギルバート家の奥方だった時──アンディよりマリアに寝室係をして欲しがっていたのだ」

「……!そうなんですか!?」

「で、陛下はそれをアンディ経由でマリアに伝えようとなさった」

「あ」


 マリアは全てを察した。


「それでは夫として、面目丸潰れではないですか」

「そういうことだ。寝室係になるために本人としては必死にやって来たつもりが、なぜかその妻の方に先に打診が来たわけだから」

「陛下は、アンディよりその妻の方が頼れると判断なさった、というわけですね?」

「うむ。だから自分を差し置いて……という絶望が、彼の中にあったのではないか?」


 マリアの中で、全てが腑に落ちた。


「それで、私を排除しようと……」

「妻のおこぼれに預かるのはプライドが許さなかったのだろうな。あいつはどうやら、自分が下と判断した人間が上に行くのを何より嫌うタイプだから。戦場で真っ先に死ぬタイプだ。驚くほど自分勝手なんだ」

「ああ、そうですね」

「他人を勝手に見下す奴は、一種の病を患っている……順位病だ。何かあると、自分の中で他人の点数が乱高下する。それで状況を見誤るんだ。それは彼らの中の、勝手な順位なのだから。彼らの口癖はこうだ。〝こんなはずじゃなかったのに〟」

「ふふふ」

「あのような凝り固まった考えでは、イレギュラーが起きた時に対処し切れない。ああいうのは、軍人にも多かった。そういう輩はほぼ全員戦場で死んだが」

「あら……」

「戦場では命の価値は等しいからな。悲しいほどに、等しいんだ」


 沈黙がやって来る。


「……で、なぜ陛下は別に親しくもない、異性の私を寝室係に?」

「だーかーら。理由は言えぬと言っておろうが……」


 マリアは口を尖らせた。


 と、その時。


「失礼いたします」


 執事のジャンが何やらうきうきと、手紙の束を持ってやって来たのだ。


「あら?手紙がこんなに……」


 ジャンは首をすくめてさも楽しそうに笑った。


「奥様。食事がお済みになりましたら、是非手紙のご開封を」

「もう済んでいるわ。ではテオ。私、先に失礼しますね」


 マリアはジャンと連れ立って自室へ戻ると、早速手紙を片っ端から開封した。


 中身を次々と眺め、マリアはちかちかする目を丸くする。


「嘘っ。これ全部……お茶会の招待状!?」

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