第16話 欲望のままに

「どうです、マリア様。私と勝負してみるというのは」


 アロイスが微笑み、マリアは頷いた。


「いいんですか?是非、勝負してみたいです」


 プロとの勝負だ、勝敗は目に見えている。しかし、こんな機会もなかなかないことだろう。


 マリアは記念レースのようなつもりでロルフに跨った。


 テオとザックス夫妻が見守る中、トビアスが旗を振る。


 レース、スタート。


 やはり、センティフォリアは逃げ馬だ。あっという間に遠ざかってしまい、マリアは苦笑した。


(やっぱり、男と女……いいえ、プロとアマじゃ勝負にならないのかしら)


 そう思った、その時だった。


 珍しくロルフが苛立たし気に嘶き、驚くべきスピードでセンティフォリアを追いかけ始めたのだ。


 マリアはハッとする。


「ロルフ、勝ちたいの?」


 ロルフは勿論言葉を発しないが、小さく唸る。マリアは正直、彼の必死の食らいつきに、頭を殴られたような衝撃を覚えていた。


「そう……勝ちたいのね、ロルフ」


 なぜこんな当たり前のことに、今まで気づいてやれなかったのだろう。


 ロルフは生き物だ。人間と同じように、欲がある。


 マリアは競馬を「人間が馬を走らせること」だと、今の今まで勘違いしていた。


 競馬とは、走る馬を、人間が彼らの希望に沿うように導いてやることなのだ。


 彼ら、馬自身のために。


 マリアは目を見開き、コースを俯瞰する。


 確か、シモンが言っていた。内側のコースを走るのが鍵だ。


 マリアは手綱を操作し、内側に入るとロルフの眼前に鞭を持って行き、見せてやる。


 ロルフは臆病な馬だから、打つより見せる方が闘争心に火がつくのだ。


 ロルフのスピードが、それをきっかけにぐんぐん上がる。


 その時、アロイスがちらりとこちらを振り返るのが見えた。


 いける、とマリアは思う。


 背後にぴたりとついた時、ロルフの目の色が変わった。


 ようやくここで、マリアはロルフにひとつ、鞭を打つ。


 その時、ロルフが微かに笑うように嘶いた気がした。


 内側の柵とセンティフォリアの間に入ると、少しセンティフォリアが嫌がる様子を見せた。


 ぐいぐいロルフが追い上げる。マリアはその爽快なスピードに感激し、ただただ身を任せていた。


 アロイスと並走する。


 彼の口が、「馬鹿な」と微かに動いたのが見えた。


 マリアはようやく、この時に思う。


 勝ちたい。


 勝ったら、もっと気持ちがいいはずだ。


 欲望のままに、勝ちをもぎ取りに行く。


 その瞬間、自分の中の全てが報われる──


 ロルフがセンティフォリアを追い抜いた瞬間。


 センティフォリアが急に闘争心を失った。


 ロルフの足が先に白線を踏み越える時、少なすぎる観客たちから「おおっ」と歓声が上がる。


 マリアはスピードを流しながら軽い足取りで走り行くロルフをなだめ、その耳に届くよう声を上げた。


「凄いわロルフ!あなた、プロの乗る馬に勝ったのよ!」


 ロルフは得意げに嘶くと、徐々にスキップを踏むように速度を落とした。その様子が可愛らしくて、マリアは首を撫でてやる。


「偉いわ、よくやったわね」


 そこに、負けを喫したアロイスがやって来た。


 アロイスのマリアを見る目が、先程とは明らかに変わっている──


「ありがとうございました、アロイスさん。とっても楽しかったです!」


 アロイスは注意深くローヴァイン公爵夫人を見つめると、真剣な目で言った。


「正直、侮っていました」


 マリアはぽかんとアロイスを眺める。


「僕から教えることなど、現状何ひとつありません。そんなことより今から言うことを、是非心に止めて下さい。マリア様。あなたはプロになるべきだ」


 アロイスの真剣な瞳に、マリアは赤くなる。


「……プロ?」

「はい。走りながら思っていたんです。あなたはプロになる条件を、全てクリアしていると」

「は、はあ」

「貴族であること、ファームに所属していること、ファームに馬を保有していること」

「!」

「これがプロになれる最低条件です。騎士未経験であれば、それに実技試験が追加されます。……実は、性別は既定の中に組み込まれていないのです」

「やだ、アロイスさんったら……」

「……僕は真剣ですよ?」


 二人が馬を降りると、テオがザックス夫妻を連れてやって来た。


「おおマリア。素晴らしい走りだったぞ!」


 妻に歩み寄ろうとするテオに、アロイスは立ちはだかる。


「テオ様、奥様をプロの騎手にするつもりはありませんか?」

「わっ、何だ急に」

「いや、冗談ではありません。先程おっしゃいましたよね、最近は国内にスター選手がいないと」

「うーむ、まあ、そうだが……」

「騎士でもない女性があれだけの走りをする。あれは才能です。誰もが持ちうるわけではない、れっきとした才能!」


 マリアはどくどくと興奮に波打つ胸を抑える。


 才能。


「ロルフの操作の仕方を、あそこまで完璧に行える騎手はそうそういません。折り合いもそうですが、見せ鞭、取り得るルート、全てにおいて奥様は完璧な判断を下しています」

「アロイスが言うなら、そうなのだろうな。彼女の走りは、私なんかでは到底太刀打ち出来なかったし……だがな」


 テオはマリアに向き直った。


「マリア。君はどうしたい?」


 マリアは頬を紅潮させながら、悩まし気に眉を寄せた。


「外野がどうこう言うのは簡単なのだ。その才能を生業にするとなると、かなりの労力を消耗しなければならなくなるぞ、マリア」


 夫の言葉に、マリアはうつむいた。


(私……どうしたいんだろう)


 あの瞬間、何としてでも勝とうとした、あの気持ち。


 あれは、一体──


 マリアは新しい自分に初めて出会い、誰よりも困惑していた。

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