第15話 アロイスの教鞭

 ザックス伯爵家の三人を迎えるため、マリアは早速お茶会の準備に入った。


 ローヴァインの屋敷の庭にある東屋あずまやにテーブルを広げ、自作のレース編みのテーブルセンターを飾り付ける。男性が参加するので、甘味ではなくナッツやチーズのカナッペを盛り付け銀製のサービングスタンドに乗せた。輸入物の紅茶を淹れ、テオとマリアを含めた五人で静かな昼下がりを楽しむ。


 マリアはドキドキと胸を鳴らし、緊張の面持ちで騎手アロイスと対峙した。


 アロイスはマリアより少し年上だが、同年代の男だ。


 騎手らしく一般男性よりやせ型であり、シモンよりその妻ミザリーによく似た温和な風貌。栗色の髪を短く刈り込み、ころころとよく動く大きな灰色の瞳が特徴的だ。


 あの時がむしゃらにコースを走っていた人物とは思えないほど、線の細い貴族男性。


 いざ目の前にすると、まるで想像と違った。


 アロイスが話し出す。


「父から聞きました。マリア様も、乗馬をなさるんですってね」


 声も思ったより高い。


「はい。子供の頃に習ったきりでしたが、久々に乗って見たらとても楽しくて」


 マリアはいちファンのように目を輝かせて答える。その道のプロと話す機会に恵まれたことに、マリアの心は舞い上がっていた。


 アロイスは何か大事なことを問い正すかのようにマリアに尋ねる。


「マリア様が馬に乗っていて、一番楽しいことって何ですか?」


 マリアは一瞬思考が止まった。


 そんなことは、考えたことがなかったのだ。


「そうですね……」


 マリアは今までの出来事を思い返す。


 ロルフがスピードを上げた途端、こじれた思考の何もかもが途切れ、吹き飛んでしまった瞬間を。


「やはり、スピードですね」


 マリアが想像とまるで違ったことを言ったらしく、アロイスはぶっと吹き出した。


「ス、スピードですか……?」

「はい。全速力で走り抜けると、何だか爽快ですっきりします」

「女性らしからぬ答えですね。僕はてっきり、馬が可愛いとかそういうことかと……」


 マリアは女性的な模範解答を出来なかったことに赤くなった。隣でテオがにやりと笑う。


「実はな、アロイス。君にちょっと相談があるんだ」

「テオ様からの依頼とは断りにくいな……何でしょう?」

「ちょっと、マリアの走りを見てやってくれないか。伸びしろがあるようなら、今色々と考えていることがあるのだ」


 マリアはテオを振り返る。


「……考えていることって何ですか?」

「ああ、まだ言っていなかったか。今度馬の品評会があり、うちの馬も出す。その時に、いつもはトビアスにデモンストレーションしてもらっているのだが、今度はマリアに出て貰おうかと思っているんだ」

「あら。テオったら、そんなこと一言も……」

「嫌か?女性を乗せたら、嫌でも目を引くのではと思ったんだがなあ」


 アロイスは二人のやり取りを眺め、腕を前に組んだ。


「なるほど。テオ様は戦場でも策士でしたが、商売でも策士ですね」

「こちらも必死なんだ。ここのところ、国王からとんと競走馬の注文が入らなくなったから」

「ああ、それは我が国の、どの牧場も嘆いています。王が速い馬を買い漁るのも理解出来ますが、国内の馬をある程度保護しなければ国内の馬市場は縮小しますよ。最近は騎手まで外国勢が雪崩れ込んで来ている」

「そうなのか?なかなかに国内競馬は局面にあるな」

「僕も最近、憂いていたところだったんです。今、国内には人馬共にスターがいない」


 それからアロイスは好奇に光る目で、じいっとマリアを眺めた。


「……デモンストレーションをするにも、乗馬の基礎が必要だ。せっかく来たのですから、今日教えられることを教えておきましょうか」


 マリアはテオを振り返る。


 テオはにっこりと頷いた。


「ありがとうございます。では早速、乗馬服に着替えて来ますね」


 マリアは立ち上がると、屋敷に向かって歩き出した。


 久しぶりにあのスピードを体感出来ると思うと、心踊る。




 ローヴァインファームにやって来た。


 乗馬服を着たマリアとアロイスが牧場に向かって歩き出す。


 ロルフが連れて来られ、マリアはそれに跨った。


 アロイスはセンティフォリアに跨る。


「ふーむ。マリア様の馬は、ロルフですか」

「ええ、とても気が合う馬なんです」

「ロルフはとにかく繊細な馬ですね。まず人を乗せること自体を嫌がる」

「……それは知りませんでした」

「女性を乗せた方が安心するのかな。本来、余り競走馬向きではない馬ですね」


 マリアが軽く馬を走らせると、その後方について行きながらアロイスは人馬の様子を注視する。


 それから少し足を早め、アロイスは試すようにロルフの前に出た。


 その瞬間ロルフが急に嘶き、ぐいと鼻を押し出すようにしてセンティフォリアを抜き去った。


 アロイスは並走する。


「ロルフは、前の馬を追いかけるのですね」

「そうみたいです。自分が先頭に立つ意識はないけれど、別の馬に前に出て来られると闘争心に火がつきます」

「逃げが出来ないけれど、差し勝つ馬か……」

「差し勝つにはどうしたらいいんですか?」

「鞭を上手く利用すればいい。けど、なぜ差し勝つことを想定してお話ししてらっしゃるんですか?」

「えっ」


 マリアは急にそう問われ、首を捻る。


「速く走りたいから……」

「速く走りたいのは分かります。けれど勝つというのは、一体どういった状況を想定してのお話ですか?」

「……!」


 マリアは内心どきりとした。


 そう言えば、自分はなぜ勝つことにこだわっているのだろうか。


 馬と一緒に速く走りたいという願望から、何やら別の、新しい欲望が表出し始めたような……


「そうですね。なぜでしょう……」


 アロイスはにやりと笑った。


「欲が出ているんです。誰よりも速く走りたいという欲が。マリア様、実のところそれがもっと速く走れるようになる、一番大事な気持ちです」


 マリアは赤くなった。


 欲望を出すことを厭わなくなっていると暗に言われたような気がして、恥ずかしくなったのだ。


「……まさか」

「恥ずかしがることはありませんよ。その気持ち、むしろもっと伸ばして行った方がいい。それが、上達の近道です」


 マリアはぽかんとアロイスを眺める。


 アロイスは何やら秘密を共有するように、うんうんと笑顔で頷いた。

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